第千三百五十四話 アバードの事情
ガンディア解放軍がマルディアとアバードの国境に到達したのは、大陸暦五百三年四月七日のことだった。
国境には防衛用の拠点が存在しており、政府軍によって警戒されていたものの、マルディア王女ユノが話を通すと、難なく通過できた。政府からの命令が国境まで届いていなかったからなのだろうし、圧倒的な戦力差ではどうすることもできないというのもあっただろう。国境防衛の戦力というのは、どの国もそれほど多くはない。
戦国乱世の小国家群とはいえ、数百年に渡って停滞期が続いていたのだ。国同士の大きな戦争というのはほとんどなく、小競り合いばかりが繰り返されていた。そのため、国境に配備される戦力というのは最低限のものであることが多く、マルディアも例外ではなかった。大戦力というのは、大抵、都市や砦などに配備されるものだ。隣国からの侵攻があれば、防衛拠点からもっとも近い都市に連絡され、そこから戦力が出動するということになる。どこの国もそうであり、ガンディアもまた、そのような形態を取っている。
国境の防衛拠点の戦力だけでは、ガンディア解放軍を足止めすることさえできず、といって、マサークに報告したところで、マサークの戦力は出払っていた。シール川を封鎖していたのが、マサークとマルディオンの戦力であり、つまり、マサークとマルディオンはがら空きといってもいい状態だったのだ。ガンディア解放軍としては、マサークにもマルディオンにも用はなく、ガンディア本土にいち早く到達することが目的であるということもあり、両都市を制圧する意味もないため、黙殺するに至ったということだ。
そして、防衛拠点の目の前を通過し、国境へと至ると、ユノと別れることになった。
「それでは、わたくしたちはここで失礼させて頂きますわ」
「王女殿下のおかげで、マルディア軍と戦うことなくここまでこれたこと、心より感謝し、お礼申し上げます」
「陛下、お気遣いは無用にございます。わたくしは、マルディアの王族として当然のことをしたまでですわ。我が国を救援してくださった皆様を裏切るなど、マルディア王家にあるまじきこと。それがたとえマルディアのためであるのだとしても、わたくしには到底許せませんでした」
故に彼女は、ユグス王の考えを否定し、行動を起こした。話によれば、彼女の独断ではない。ユリウス王子も、彼女と同じ考えのようだった。そのユリウス王子は、時間稼ぎのために王都マルディオンに残り、ユグス王と話し合っているというのだが。
「それに、皆様と敵対し、戦うことになれば、我がマルディア軍に多大な損害が出るのは火を見るより明らかでございましょう?」
「ええ」
レオンガンドは、否定しなかった。すると、ユノは微笑みを浮かべ、小さくうなずく。
「マルディアの民にも兵にも無駄な血を流して欲しくはないのです。皆様との戦いは、マルディアにとって無益なもの。わたくしはそう考えました」
だから、シール川を封鎖していたマルディア軍を引かせ、戦闘に入らないようにしたのだろう。戦いになれば、十中八九、いや絶対的にガンディア解放軍が勝利していただろう。戦力差は圧倒的だ。それでもレオンガンドたちが戦いを嫌ったのは、無駄な消耗を避けるためだった。敵は、ジゼルコート軍だ。そして、ジゼルコートには多数の国が同調しており、多大な戦力を有している。それらを撃破しながらジゼルコートを打倒するとなると、相応の戦力が必要だろう。となれば、勝てるとはいえ、無駄な戦いをしたくはなかった。
「そして、陛下と皆様の勝利こそが我が国にとって有益であると信じております。もちろん、陛下を裏切り、謀叛人と通じていた父のことは、許されないでしょうが……」
確かにユグスのことは、許されないだろう。
たとえレオンガンドたちがジゼルコートの討伐に成功したとしても、ユグスがレオンガンドたちを騙していたのは事実だ。ジゼルコートに通じていたのだ。ジゼルコートを討ったあと、責任を問わなければならない。でなければ、レオンガンドの立場がない。とはいえ、ユノとユリウスには、感謝のほかなく、ふたりのことを考慮すれば、情状酌量の余地はある。それも、ユグス王の反応次第ではあるのだが。
「陛下と皆様の御武運を、このマルディアより祈っておりますわ」
「王女殿下こそ、御無事で」
「わたくしならだいじょうぶです。兄様とともに父様を説得してみせますわ」
ユノは笑っていってきたが、それこそ不安なのだと、レオンガンドは思わずにはいられなかった。
ユグスは、マルディアのことを第一に考えている。国王として当然のことだ。自国のことが第一であり、他国のことなど素知らぬ顔というのが、国王たるものだ。もちろん、自国に関係する近隣国の事情について知るべきは知っておかなければならないし、場合によっては自国に有利となるよう干渉することもあるだろうが、基本的には自国のことに専心するものだ。
ユグスは名君といわれる。それは、国民の声に耳を傾け、必要な政策を必要なだけ打ち出し、国民に幸福感と満足感を与えることに成功しているからだ。自国をいかに素晴らしいものにするか、常に全精力を傾けているが故の評価と結果なのであり、一朝一夕に真似のできるものではない。ユグスは、素晴らしい王なのだ。そして、彼の判断基準では、レオンガンドを王とするガンディアは、マルディアにとって害をなす存在だったのだろう。
だから、ジゼルコートに通じ、彼の策謀に乗った。
レオンガンドとジゼルコートの違いは、一目瞭然だ。
大陸小国家群統一を掲げ、外征に外征を重ねるレオンガンドと、純粋な政治家であり、内政に力を注ぐジゼルコート。
マルディアの安定を望むユグスがジゼルコートに靡いたのも、冷静に考えれば、わからないことではなかった。そのために聖石旅団に反乱を起こさせ、国内を戦場にするのは考えにくいことではあるが、そこまで追い詰められていたと思えば、納得出来ないことではない。つまり、それほどまでにレオンガド政権を終わらせたかったのだ。
それほどまでに考えている彼が、ユノとユリウスの説得に応じるものだろうか。
心配だったが、解放軍を離れるユノと彼女の手勢にレオンガンドがしてやれることはなにもなかった。解放軍の戦力をつけてやることなどできない。そんなことをすれば、彼女の立場がより悪化するだけのことだ。
ユノの無事を祈るしかなかった。
「王女殿下のおかげでございますな」
ユノたちに見送られながら国境を越えた直後、ゼフィルが、レオンガンドに囁くようにいってきた。ユノのおかげで、解放軍は無駄な消耗をせずに済んだのは間違いない。ユノがきてくれなければ、シール川も国境も強行突破しなければならなかったのだ。
「ああ。まったくだ」
「それにしても、王女殿下はなぜそこまでして我々に肩入れしてくれるのでしょう」
「さて……セツナのおかげかもしれんな」
本当のところは、わからない。彼女のいうように、マルディア王家の誇りがそうさせたというのもあるのだろうが、個人的な感情が動いていないとも限らなかった。ユノとユリウスの行動は、話を聞く限り、感情的なもののように思えたからだ。国よりも、個人の感情を優先しているのだ。それは、王族としてはあるまじきことだが、レオンガンドも人のことがいえなかった。
「セツナ様は、無事でしょうか」
「無事だよ。きっと」
そう信じるほかなかった。
そして、そう信じることで、レオンガンドたちは前進することができるのだ。セツナひとりに殿軍を任せたからこその大軍勢だった。一刻も早くガンディア本土に到達し、ジゼルコートを討たなければならないのは、そういう理由もある。
セツナがいつまでも持ち堪えられるとも、思えない。セツナはガンディア最強の戦士だが、人間なのだ。人間には限界がある。体力が尽きれば、いかに最強無敵の戦士といえど、どうしようもなくなる。際限なく戦い続けるわけではないだろうとはいえ、消耗は蓄積するものだ。疲労がセツナの肉体を支配するより早くマルディアを脱するのだ。そして、サントレアのセツナに報告すればいい。マルディアを脱することさえできれば、騎士団の追撃を恐れる必要はなくなる。
その上、マルディアがジゼルコートに通じていたということが明らかになった以上、騎士団とマルディア軍の間で戦いが起きる可能性も低いということだ。騎士団もジゼルコートと通じているのだから、味方同士ということになる。味方同士、戦闘するようなことはないだろう。つまり、騎士団によるマルディアの蹂躙は可能性としてありえないということだ。マルディアの反乱軍の扱いがどうなるか気になるところではあったが、おそらく、しばらくは騎士団領で潜伏し続けるのだろう。戦力が整うまで潜伏するということであれば、半年やそこらで活動を再開するとは思えず、心配する必要はなさそうだった。
セツナが無事に騎士団の猛攻を耐え凌ぎ、解放軍からのマルディア脱出の報告を受け取ってくれることを願うのみだ。不安はなかった。セツナがレオンガンドの望みを叶えてくれなかったことなどないのだ。
いつだって彼は、レオンガンドの夢を後押ししてくれた。
今回も、レオンガンドの背を押してくれるのは、セツナだった。
セツナが背後に立ち、騎士団を抑えこんでくれているからこそ、レオンガンドたちはガンディア本土に向かって邁進できるのだ。
マルディアを南東に抜ければ、そこはアバード領土だ。
アバードは、ガンディアに従属を誓った国であり、セツナ軍黒獣隊長シーラがかつて王女を務めていた国でもある。国境を越えると、当然のように防衛拠点があったが、呼び止められることはなかった。むしろ、ガンディア軍と見るや、防衛部隊が駆け寄ってきて、レオンガンドたちの無事を喜び、また、ジゼルコートの反乱に関する情報を伝えてくれもした。とはいっても、国境防衛拠点にもたらされる情報などたかが知れており、レオンガンドたちの耳に入っているものがほとんどだった。
しかし、中には新情報があり、アバード国内も、ジゼルコートの魔手が及んでいるという話には、レオンガンドたちも眉を潜めた。
シャルルムから返還されたタウラルが、双牙将軍ザイード=ヘイン率いる軍勢に占拠されたというのだ。
それだけでは状況が不鮮明ということもあり、レオンガンドたちは道を急いだ。
翌八日、解放軍はヴァルターに入った。
アバード北西の都市ヴァルターには、アバード国王セイル・レイ=アバードがアバード軍戦力とともにレオンガンドたちの到着を待っていた。
「陛下、よくぞ御無事で」
幼い国王は、レオンガンドたちがヴァルターに入るなり、急いで駆け寄ってきたものであり、レオンガンドはその健気さに目を細めた。セイルは、今年ようやく十歳になるのだ。王位を継承するには幼すぎたが、事情が事情だ。王位を空席にしたままでは、他国に示しが付かないということもあり、彼は王にならざるを得なかった。でなければ、支配国であるガンディアの傀儡国家にならざるをえない。幸い、アバードには有能な人材が揃っている。そして、幼くも立派に王を務めるセイルを支えることは、それら臣下にとっても喜ぶべきことのようだった。
「セイル陛下こそ、御無事でなにより」
「わたくしのほうは、なにも……」
とはいうものの、彼の伏せた目がアバード国内の混乱を物語っていた。
「マルディアも、ジゼルコート伯に同調していたということだそうですが、本当なのでしょうか?」
「ええ、事実です。我々は、まんまとジゼルコートの策にハマったということです」
レオンガンドたちが遠征中にジゼルコートが謀叛を起こすというのは、レオンガンドらの筋書き通りではあったのだが、遠征先がジゼルコートの同調者というのは、想像していなかった。まさか、ジゼルコートがマルディア国内で反乱を起こさせるとはだれも思うまい。
あるいは、ナーレスならば看破しただろうか。
「しかし、我々はこのまま黙ってジゼルコートの好きにさせるつもりはありません。ジゼルコートを討ち、王都を奪還し、ガンディアそのものを取り戻す。そのためにマルディアを脱してきたのです」
「わたくしどもも、陛下にお力添えしたいのはやまやまなのですが……」
「タウラルが占拠されたと聞き及んでいます」
「はい。まさか将軍がこの期に及んで反乱を起こすなど」
考えたくもないことだ、とセイルはいった。国王として歩き始めた矢先、信頼していた将軍に裏切られたのだ。セイルの心中、いかばかりか。
そして、大臣たちの話によれば、ザイード=ヘインがタウラル要塞を占拠したのは、おそらくジゼルコートに通じているからだということだった。
ジゼルコートに与しているというのであれば、ガンディア解放軍としても黙って見過ごすことはできない。