第千三百五十三話 老将は想う
国を裏切るというのは、即ち自分の人生を否定するのを同じことだ。
国に生まれ、国で育ち、国で学び、国のために生きてきたのだ。人生を捧げてきたのだ。すべては国のためであり、それ以外にはなかった。それがサラン=キルクレイドという人生だったのだ。だから、国のために死ぬのは本望だったし、今日まで生きてきたのは、死に損なった命をいつか国のために使えるときが来るかもしれないという可能性に期待していたからだ。でなければ、この余生のような人生を続けてなどいられるものではない。
だから、このたび国王直々に与えられた使命には喜びを感じた。
同盟国の国王を暗殺するという、なんとも因果な任務ではあったが、自分の人生を幕引くには相応しい使命とも思えた。困難かつ重大な任務。成功しようが失敗しようが、まず間違いなく、彼の命はない。また、同行するものたちの命もあるまい。成功したとして、ガンディアのひとびとが彼らを生かして返してくれるはずもないのだ。失敗したとして同じことだ。問答無用で殺されるのが普通だ。
死ぬことは、なんら恐ろしくなかった。
既に死んでいたようなものだ。
あの日、死に損なったときから、彼の命は空虚なものとなった。
だから、死ぬのは構わなかった。使命を知らされていない同行者たちには可哀想ではあるが、それが国のためというのならば、仕方がない。
国のために死ぬのが、兵の努めだ。
兵の死という犠牲を払って、国は前に進む。
サランの死も、イシカが前進するための必要な代価なのだ。
だが。
レオンガンド暗殺に失敗した理由が個人的な感情、動揺から来るものだと判明したとき、彼の中の様々な感情が揺れ動いた。いや、そもそも、彼女と遭遇した瞬間から、揺れ動いていたのだろう。その結果が、暗殺の失敗に繋がった。露見するのが彼女でなければ、きっと暗殺は成功していたのだ。レオンガンドは死に、サランも、星弓兵団の兵たちも皆、死んでいたのだ。
しかし、そうはならなかった。
シーラのことを想った。
シーラは、孫娘のような存在だった。クルセルク戦争で知り合い、その戦場で結ばれた絆ではあったが、魔王軍との絶望的な戦いは、絆を深いものにするだけの力があった。
サランは、シーラを不幸に堕としたくなかった。孫娘のように想っているのだ。いつだって明るく、勝ち気で元気な彼女を愛していた。異性としてではなく、孫娘として、だ。そんな彼女の人生は、決して明るいものではなかった。アバードの動乱において両親を失い、みずから王家から去らなけれならないという状況に追い込まれていた。複雑な事情があったらしい。イシカに伝わってくる情報からは本当のことはわからないものの、シーラが深刻な状況にあったのは想像がついた。
マルディア救援軍として再会を果たしたとき、シーラは、サランを本当の祖父のように扱ってくれたものだった。彼女は、変わった。少なくとも、クルセルク戦争のときよりも暗い影のようなものを帯びているように想えた。気のせいかもしれない。勝手な思い込みかもしれない。だが、サランは、彼女をこれ以上不幸にはしたくないと想った。孫娘の幸せを思うのは、祖父として当然のことだ。もちろん、彼女とは血の繋がりなどはない。戦場で知り合っただけの関係。しかし、そういう関係こそ、人生に華を添えるものだ。
国のためか。
個人のためか。
自分のためか。
様々な想いが複雑に絡み合い、解き放たれた矢は、思い通りの軌跡を描かなかった。その結果、ドーリン=ノーグによって射落とされ、レオンガンドに届かなかったのだ。たとえ思い通りの軌道に至らなかったとしても、ドーリンがいなければ、レオンガンドの体に刺さりはしただろう。そして、刺さるだけで良かった。鏃には毒が塗ってあった。
掠めても死に至るようにだ。
結局、掠めることさえなかったのだが。
(これで良かったのだろう)
サランは、彼の生存を喜んでくれたときのシーラの顔を思い出しながら、自分の判断が間違いではなかったと想った。想いたかった。暗殺に成功していれば、シーラは責任を問われ、国を追われることさえあったかもしれない。いや、それどころか、もっと不幸な目に遭っていたかもしれない。そうならなくてよかった。ひどく個人的な感情が、そう告げる。
もちろん、苦渋の決断だった。
サランは、選択を迫られたのだ。
イシカを裏切り、ガンディアの軍門に下るか、イルダ=オリオンを始め、星弓兵団に所属する数多くの弟子たちを道連れに死ぬか。ふたつにひとつ。考える猶予は少なかった。当然だろう。ガンディア解放軍は、一日も早くガンディア本土に辿り着かなくてはならない。サランたちにかまけている時間はほとんどないのだ。
サランは一晩中、悩み抜いた。イルダたちは、サランの使命を知りもしなかった。レオンガンド暗殺計画が漏れることがあっては一大事だ。星弓兵団の兵の多くはサランの弟子であり、サランを裏切るようなことはありえないとはいえ、万が一のことを考えた。中には、小国のイシカよりも大国化し、勢いにのるガンディアに通じたほうがいいと考えるものが現れたとしてもなんら不思議ではない。だれもがサランのように国に人生を捧げているわけではないのだ。
暗殺が失敗に終わり、イシカの暴挙が明らかになると、イルダや星弓兵団の団員たちは拘束された。イルダたちにとっては寝耳に水の話だろう。国に捨てられたと考えたとしてもおかしくはない。騙されたも同じだ。なにも知らされず、捨て駒にされたのだ。
ラインゴルド王は、レオンガンドを討つことが小国家群の安寧に繋がると考えていた。それが小国家群にとっての大義であり、そのためならば、自国の最強の弓兵軍団を代価とすることさえ厭わないという考えの元、暗殺計画を練ったのだ。レオンガンドを暗殺するだけならばサランひとり送り込めばいいのだが、さすがにイシカから派遣されるのがサランひとりだけというのは、問題がある。同盟国の大事な戦いなのだ。提供する戦力が老兵ひとりでは、格好がつかない。
だからといって、イシカにとって最重要戦力ともいえる星弓兵団を代価に差し出すのはどうなのか、と、思わずにはいられない。彼が手塩にかけて育て上げた組織でもある。イルダ=オリオンの弓の腕は素晴らしいものであり、指揮官としても有能だ。彼女を失うのは、イシカにとって大きな損失であるはずだった。彼女だけではない。星弓兵団そのものが、イシカを支える重要な戦力なのだ。
それを差し出してでもレオンガンドを暗殺しなければならないほど差し迫った状況だというのだろうが。
そういった想いや感情を飲み下し、彼は暗殺に臨んだ。
結果、失敗に終わり、選択を迫られたのだ。
そして、悩みに悩んだ末、ガンディアに降る道を選んだ。
国を裏切り、売国奴の汚名を被る道を。
『イシカを、陛下を裏切るのですか!?』
『弓聖ともあろうお方がなぜ!?』
『我々は、イシカの星弓兵団です! イシカのために生き、イシカのために死ぬのが定めのはず! それなのに、どうして!?』
彼の決断を反対する声もあったが、多くは、生存を喜んでいた。イルダもそうだ。軍人としては、国を裏切る結果となったことは心苦しいが、国そのものが自分たちを捨て駒にしたというのだから、どのような道を選ぼうとも構わないのではないか、と。そして、師であるサランの下した結論に意見する道理はない、とも彼女はいった。
たとえ捨て駒だったとしても、国王直々に命令されたのであれば、理解し、納得もできただろう。だが、彼女たちにはなにも知らされていなかったのだ。なにも知らないまま死ぬ運命だったのだ。国に見捨てられたといってもいい。そんな彼女たちが国への裏切り行為に多少の後ろめたさを感じながらも、生存を喜ぶ様には、複雑な感情を抱きつつ、内心安堵したものだった。
(これで良かったのだ)
イシカを裏切った以上、もはやイシカには帰れまい。
イシカには、彼の帰りを待つ家族がいる。子供がいる。当然、イシカは、ラインゴルドは、この裏切りを知れば、彼の家族を拘束するだろう。ただし、即座に処罰はすまい。ラインゴルドのことだ。サランの家族を人質に、サランを脅迫することから始めるだろう。ラインゴルドの性格はわかりきっている。自分で手を汚すことを極端に嫌う彼は、サランの罪をその家族に問うにしても、やり方を徹底的に考え抜くはずだ。つまり、時間的猶予がある。
星弓兵団の団員の多くには、サランとは違い、家族はいない。サランの弟子の多くは孤児であり、サランは、弟子たちを我が子のように愛し、弟子たちは父のように慕ってくれていた。そんな彼らとともに国のために死ぬという選択ができなかったのは、そういう理由もあるのだろう。
実の家族よりも、弟子の命を優先するというのは、どういう心境なのか。
(以前ならばそうは考えなかったはずだが――)
きっと、彼女のせいだろう。
サランは、篝火の向こうで己の部下たちをなにやら言い争っているらしい白髪の女を見やりながら、目を細めた。彼女への愛情が、弟子たちへの愛情を思い出させたのか、どうか。
だとすれば、シーラという血の繋がりもなにもない孫娘を得たことがサランを変えたということだ。
本来ならば、ここで余生を終えるはずだったのだ。暗殺に成功しようが失敗しようが、ここですべてが終わるはずだった。それが生き延びてしまった。生き残ってしまった。またしばらく、余生をすごさなければならない。
「もう、余生だなんていわないでくださいよ」
イルダが、囁くようにいってくる。
「生きることを決めたのは、師匠なんですから」
「……ああ、わかっているよ」
彼女や星弓兵団の団員たちを売国奴の裏切り者に仕立てあげたのは、サランなのだ。責任を取らなくてはならないし、彼女たちがガンディアという国で上手くやっていけるよう、全力を尽くさなくてはならない。
余生などといってはいられないのだ。
そう考えると、俄然、やる気が出てくるのだから、おかしなものだ。
このガンディア解放軍の戦いで少しでも武功を積み、星弓兵団の価値を高めれば、戦後、星弓兵団はガンディア軍の重要な戦力として認識してもらえるだろう。そうなれば、イルダたちの今後は安泰となる。
そうなってようやく、サランは彼女たちに罪滅ぼしができるのだ。
ガンディア解放軍は、シール川東大橋を渡り、一路、南東へと行軍していた。マルディア領南部の東に位置する都市シールダールと南部中央付近に位置する王都マルディオンのちょうど間を通過し、マサークの北へと至っている。
数日以内にマルディア国境へと到達する見込みだった。
国境を越えれば、アバードだ。アバードはガンディアの属国であり、現在、解放軍に入っている情報では、ジゼルコートに与しておらず、むしろ敵対的だということだった。つまり、レオンガンド側についているということであり、アバード領内に入れば、ひとまずは安心ということだ。
そして、アバード領内まで、解放軍を邪魔するものはいないだろう。