第千三百五十話 巨人
グリフは、眠らない。
眠れないのだ。
聖皇の呪いによって、死ぬまで眠れない体となった。
そして、不老不滅の肉体をも与えられたがために、永遠に眠れなくなったも同然だった。
常に苛立ちを覚えるのは、そのためなのだろう。そして、苛立ちを解消するために戦って戦って戦い続けて、気がつけば、戦鬼などと呼ばれるようになっていた。
戦鬼。
戦いに明け暮れる鬼。
朱纏と呼ばれたこともあった。
全身に血を浴びた姿が朱色の衣を纏ったかのようだからだと、そう名付けた人間は笑った。気のいい男だった。笑うたびに顎が外れて、それが彼の愛嬌になった。
(いや……女だったか)
顔も体も陽炎に包まれたかのように朧気で、正確に思い描くことさえできない。声を思い出す事などできるわけもなかった。なにもかも、この五百年に渡る眠れぬ日々が奪い去ってしまった。
グリフは、巨人の末裔だ。その図体は幼児の頃から既に大きく、子供のころには人間の大人ですら見下ろしていた。年を経るに連れ、人間など取るに足らない相手となる。圧倒的な生命力、絶大な身体能力、回復力。あらゆる面で人間を凌駕した。人間に比べるまでもなく巨大な脳もまた、膨大な記憶容量に基づく知識量を支えるものとなり、知力においても、彼は人間を遥かに下にした。だが、そういった生物としての根本的な差異も、聖皇の呪いの前では意味をなさないのだ。
巨人の末裔であろうとも、眠れぬ日々に意識を苛まれ、蝕まれるのはいかんともしがたかった。
眠れないのだ。
どのような生物であれ、眠らなければならないものだ。脳を休ませる必要がある。巨人の末裔であってもそれは同じことなのだ。そこに人間と巨人の違いはない。ドラゴンでさえ、眠らなければならない。眠りを必要としない存在など、神くらいのものだろう。
脳への負担が苛立ちとなり、苛立ちを解消する方法を求めて戦場をさまよう。
そのようなくだらない生き方に飽きたところで、苛立ちが消え去ることはなかった。何年も、何十年も、苛立ちを鎮める方法を探して、彷徨した。ようやく見つけたのが、あの山間の村だった。もはや名前すら思い出せない小さな村は、巨人たる彼を平然を迎え入れてくれただけでなく、手厚くもてなしてくれたものだった。
安らぎを得たのは、いつ以来だったか。
以前、安らぎを覚えたのは、もはや思い出すことも叶わないくらいの悠久の時の彼方の出来事であり、彼にとってその村と村の人々ほどありがたい存在はなかった。
だが、その村も、人間同士の争いによって滅び、グリフは安らぎを失ってしまった。そんなおり、突如として現れたのがアズマリア=アルテマックスであり、旧友たる彼女の願いを聞き入れた結果、いま、ここにいるのだ。
名前も覚えていない都市の北部。セツナが宿所として利用する建物の目の前にある広場に、彼はその巨体を鎮座させていた。巨人族の末裔たる彼には、人間に関するすべてが小さい。建物も、街の構造も、なにもかもだ。本来ならば街の中になど立ち入るべきではないのだが、セツナのことを護って欲しいという旧友のたっての願いを叶えるには、彼の近くにいるのが一番だった。街の中にいる限りは、彼が襲われるようなことはなさそうではあったが、十三騎士の特異な能力を考えると、そうともいえないだろう。警戒して警戒し過ぎることはない。
もっとも、セツナは自分自身の身を護ることくらいやってのけるだろうし、不意打ちを食らったとしてもラグナシアがいる。ラグナシア=エルム・ドラース。かの竜王が彼の下僕なのだ。ただでさえ安全な町中で殺されるようなことはありえない。
ありえないが、グリフは、セツナの宿所周辺が騒がしくなってきたことに気づき、片方の瞼を上げた。暗闇が光を得、視界が広がる。巨人にとっては狭く、小さすぎる町並みが視野いっぱいを埋め尽くす中、武装した兵士たちが宿所を取り囲み、あまつさえ、グリフまでも包囲し始めていた。
(なにがあった?)
グリフは、広場で微動だにすることもなく、推移を見守りながら、疑問符を浮かべた。いったいなにが起こっているのか。ついいましがた、兵士たちの上官が宿所に入っていったのは覚えているのだが、それが原因でこのような事態になったとは思い難い。
グリフにはあずかり知らぬところでなにかがあったのだろう。そしてそのなにかは、グリフとセツナにとって面白くもないものだったに違いない。
何十人、何百人を越える小さき兵士たちがグリフを包囲している。盾兵を前面に押し出しているものの、グリフの前ではなんの意味もないことはいうまでもない。盾もろとも叩き潰すなり吹き飛ばしてしまえばいいのだから。盾兵の後ろには弓兵が数多く並んでいる。巨人を仕留めるには、近接武器よりも射撃武器のほうがいいだろうとの判断は、必ずしも間違いではない。少なくとも、グリフがただの巨人ならば仕留めることも不可能ではなかった。しかし、残念なことに、グリフは死ねないのだ。どれだけ肉体を損壊されたところで、たちどころに復元してしまうという不愉快な呪いがかけられてしまっている。痛みこそ感じるものの、それではグリフを滅ぼすことはできない。
死ねないのだ。彼らの攻撃を恐れることはない。もちろん、痛覚が働いている以上、無駄に攻撃を喰らいたくはないのだが、かといって、事情もわからないまま彼らを殺すというのも考えものだ。セツナの立場が悪くなっては、意味がない。
そんなことを考えていると、宿舎のほうから兵士たちの怒号とも悲鳴ともつかない叫びが聞こえてきた。
「スノウ様が人質に取られたぞ!」
「人質!? なんてことだ!?」
「くそっ、どうなってる!」
(人質? スノウ?)
よくわからないが、宿所のほうでセツナがなにか事件を起こしたようだった。彼は立ち上がり、宿所を振り返った。見下ろすと、宿所の出入り口から人間の騎士が出てきたかと思えば、その背後から黒き矛を突きつけたセツナが姿を表した。セツナの頭の上では、ラグナシアが威嚇するかのように翼を広げている様が見えた。
「スノウ様!」
「動くな!」
色めき立つ兵士たちに向かって、セツナが吼えた。鋭い叫びが、兵士たちを静まり返らせる。兵士たちには、セツナの恐ろしさが染み込んでいるのだろう。人間としては規格外の実力を誇る十三騎士と対等以上に戦えるのがセツナなのだ。彼がどれほど凄まじいのか、兵士たちにも想像できるというものだろう。
「そして道を開けろ。俺たちはここを離れる。あんたらの望み通り、北へいってやるんだ。だから、なにもするなよ。俺達に危害を加えようとすれば、スノウを殺す」
「貴様……!」
「スノウ様を殺すだと……!」
「いっただろう。なにもしなければ、殺しはしないとな」
セツナは悪辣に告げると、こちらに視線を送ってきた。彼がなぜつい昨夜まで友好的だった相手に刃を突きつけ、場合によっては殺すなどといっているのかは皆目見当もつかなかったものの、彼の意図は理解した。彼はこの街から抜け出すつもりらしい。
北へいくと彼はいった。
北とはつまり、騎士団との戦いに赴くということだろう。
グリフは、理解するとともにセツナがスノウとともに街の北門に向かうのを見送った。当然、グリフも彼に付き従うことになるのだが、巨人が自由に歩くには困難な町並みということもあって、彼の移動は慎重を極めた。セツナが距離を稼いでから、ゆっくりと追随する。グリフを包囲していた兵士たちも、スノウなる騎士を人質に取られていることもあってか、なにもできないようだった。
しばらくすると、セツナの頭に乗っていたラグナシアが、グリフの眼前まで飛んできた。
「ラグナか。どうなっている」
「ひとの子というのは、色々と面倒くさいのじゃ」
「どういうことだ?」
「説明はあとでセツナに聞くがよい」
「……わかった」
ラグナシアが話にもならないのは、昔からのことではあるのだが。
そんなこんなでセツナは、スノウを人質にしたまま北門に辿り着き、グリフは城壁を軽々と飛び越えて街の外へ出た。皇魔の侵入を防ぐ鉄壁の防壁も、巨人の前では意味を成さない。
セツナは、北門を潜り抜けると、スノウを解放した。スノウは、セツナになにごとかを告げて、北門の内へと消えた。門が閉ざされ、城壁上から警告的な矢が放たれてくる。
「事情は後で話す」
セツナはそれだけをいって、城壁から離れ始めた。グリフもそれに倣った。街を離れるということは、グリフにとっては大した問題ではなかったものの、セツナにとっては重大な出来事かもしれなかった。セツナは黒き矛を握ればこそ圧倒的な力を誇るものの、肉体そのものは常人と変わりがない。激しい戦闘をすればそれだけ消耗し、疲労も貯まる。回復するにはしっかりと体を休ませ、食事を取らなくてはならない。街からでなければならなくなったということは、そういうことが気軽にできなくなったということにほかならないのだ。
セツナは無論、それを理解しているのだろう。
道中、険しい表情を緩めることはなかった。
やがて、セツナが足を止めた。
「嘘だろ」
セツナの愕然とした声の理由は、前方の彼方を見遣ることで理解できた。
騎士団の軍勢が、こちらに向かってきていたのだ。