第千三百四十六話 弓聖(三)
「夜中に弓なんか持ちだしてさ」
シーラは、言葉を選んでいるようだった。
サランが弓を構えた遥か先、ガンディア解放軍本陣があるということくらい、シーラにだって想像ができるはずだったし、理解できていて当然なのだが、彼女はその事実を言葉に出すことを恐れているようだった。それを言葉にすれば、サランがレオンガンドを暗殺しようとしていることを認めることになるからだろう。シーラのそういう優しさに、サランは頬を緩めかけて、止める。
「夜中の狩りなんて、めずらしいな」
「めずらしくもないでしょう」
サランは、努めて冷ややかに告げた。シーラは、鎧兜こそ身につけてはいないものの、その手には斧槍を手にしていた。様々な獣を模した装飾が施された斧槍は、ハートオブビーストと呼ばれる召喚武装であり、その能力は、他の召喚武装にも勝るとも劣らない。アバード王都バンドールを一瞬にして壊滅させたという噂は、シーラ本人にいわせると事実であるらしく、その力を引き出すことができれば、シーラはこの解放軍で最強の存在になりうるという。
もっとも、そのような能力を用いずとも、この距離であれば、サランが彼女の手を逃れることはできまい。サランは常人であり、シーラは召喚武装の使い手なのだ。敵うわけがない。召喚武装を用いず武装召喚師、召喚武装使いに太刀打ちできる人間など、いるわけもないのだ。
「人間という動物を狩るには、夜がいい。特にだれにも知られず、狩るのであれば」
「……じいさん」
「もっとも、シーラ殿に知られた以上、だれにも知られず、というわけにもいかなくなりましたがね」
耄碌したものだ、と、サランは、胸中でつぶやいた。全盛期のサランならば、シーラが後をつけてきていることくらいあっさりと看破し、難なく振り切ることができただろう。もちろん、シーラの追走を振り切るということは、シーラに警戒させるということと同義なのだが、警戒されたとしても目的を果たせたに違いなかった。
もう少し若ければ、と想う。
もう少し若ければ、この場でシーラに話しかけられることもなく、決意が鈍ることもなかったというのに。
サランは、シーラのことが嫌いではない。彼女ほど単純で素直で直情的で、なおかつ好感が持てる人物を彼は知らなかった。それほどまでにシーラという女性は人間的魅力にあふれており、サランの年齢次第では、好意を恋愛感情まで昇華させていたかもしれないと思わせるほどだった。クルセルク戦争という死線を潜り抜けた間柄、というのも大きいだろう。あの戦い以来、サランは彼女を孫娘のような感覚で見ていたし、シーラもそのように振る舞ってくれていた。
国も立場も異なるというのに、そういう間柄を築けたことは、彼にとってこの上なく嬉しいことであり、ただ死を待つだけの余生にも、生きる理由ができた気がしていた。
だから、彼女がこの場に現れ、声をかけてきたことに困惑を隠せない。
「暗殺しようっていうのか」
「狩るだけですよ」
告げる。
「隻眼の獅子を」
「やめろ。やめるんだ」
シーラが大きく頭を振る。月影に照らされた彼女の顔は、悲しみに満ちていた。
(そんな顔をするな)
サランはいいたかったが、いえなかった。シーラが悲しんでいるのは、サランがガンディアを裏切ったことで、関係が終わるからなのだろう。彼女は、そういう女性だ。思いやりのある、優しい女性なのだ。だから、サランは彼女が好きだったし、彼女との関係を壊したくはなかった。
もちろん、この一矢によって徹底的に破壊されることくらい、理解している。
「そんなことをして、なんの意味がある」
「わたしはイシカ王家の一家臣に過ぎない。王命が下されれば従うのみ。そこに意味を問うのは、無用のことです。それくらい、あなたにならばわかるはずだ」
「……そうだな。その通りだ。なら、俺がなにをするかもわかるよな」
「ええ。あなたがわたしを討つのは、あなたの立場上、正しいことだ」
シーラは、アバードの王女ではなくなった。ガンディアの領伯セツナ=カミヤ配下となり、直属の戦闘部隊黒獣隊の隊長を務めている。つまりはガンディアの手先なのだ。
「だが、もう遅い」
サランは、告げた。弓はとっくに構えている。射角、射程距離、風の強さ、矢の軌道、糸の結界の状況、あらゆる計算が済んでいた。向き直り、再確認して、放つだけでいい。それだけで矢は夜の闇を貫き、糸の結界を擦り抜け、レオンガンドの眉間を突き破るだろう。
「じいさん!」
シーラの悲痛な叫びが耳に突き刺さる中、サランは、矢を引き絞り、放った。矢が解き放たれた瞬間には、組み伏せられている。抗うが、シーラの膂力には敵うはずもない。相手の身体能力は、召喚武装によって底上げされているのだ。いや、たとえ彼女が召喚武装を用いなかったとしても、サランは彼女に押し負けていただろう。男とはいえ老人の力と、若く、いまも厳しい鍛錬を積んでいる彼女では、比べるまでもない。
「なんてことを……!」
地面に組み伏せられ、土の味を噛み締めながら、シーラの悲鳴を聞く。彼女の気持ちは、痛いほどわかる。サランとしても、哀しいことだ。自分と彼女の関係、自分とガンディアの関係を、みずからの手で破壊したのだ。これでなにもかも終わりだ。サランの命も、ガンディアの命数も、尽き果てる。
「なんだってこんな……こんなこと……!」
「いったでしょう。王命だと」
「くっ……」
背中にかけられた体重と力によって体を起こすことができず、首付近に突き立てられた斧槍が身じろぎひとつ許さない。完全に制圧されているといってよく、この状況から逆転する方法は、サランには思いつかなかった。だが、もはやどうでもいいことだ。そもそも、彼女の拘束を逃れたとして、この野営地周辺から逃げ出すことなど不可能だ。レオンガンドの死は、寝ているものたちを叩き起こすことになるだろうし、《獅子の尾》を始めとする武装召喚師たちを敵に回すのだ。遅かれ早かれ発見され、拘束され、殺されることになっていただろう。
それがシーラだった、というだけの話だ。
組み伏せられたまま、どれくらい時間が立ったのだろう。
シーラは、サランを組み敷いたまま、身動きひとつ取らなかった。サランを野営地に連行しようともしない。なにをしているのかと思えば、彼女はどうやら泣いており、シーラのその嘆きが、サランの胸を締め付ける。彼女がサランのことを思いやってくれていることがわかるからだ。情の深い女性だと、改めて想う。
そんな彼女に愛されているセツナのことが羨ましく思わないではなかった。
「弓聖ってのは、やはりおそろしいもんだな」
不意に聞こえた声に、サランは、目を細めた。感傷を邪魔されるのは、不愉快というほかない。若い男の声。“剣魔”と呼ばれる剣豪エスク=ソーマの声だということに気がついたのは、彼の配下に凄腕の弓使いがいるからだ。ドーリン=ノーグには、昔から注目していたものだ。
「少しでもずれてなけりゃあ、危うかったらしい」
「エスク?」
「なにをいって……」
なにをいっている、と聞こうとして、サランは、ある事実に気がついて、愕然とした。野営地は、相変わらず静まり返っているのだ。夜の丘陵地帯に響くのは夜鳥の鳴き声であり、虫達の囁きだ。風が木々を揺らし、枝葉が小擦れ合って立てる旋律が、静寂の夜に流れているのだ。王を暗殺され、大騒ぎになっているはずの野営地がこのような静寂を保っているのは、明らかにおかしい。
つまり、暗殺が成功しなかった、ということではないのか。
でなければ、これほどの静寂を維持できるわけがない。レオンガンドを暗殺されて静まり返るなど、ありえないことだった。
「あんたの矢、うちの最高の弓使いが射落としたんだよ」
エスクの言葉は、端的に言えば信じられないことだった。青天の霹靂といっていい。まったくもって想像のつかないことだったし、予想だにしていなかったことだ。レオンガンドに当たらなかったわけでもなければ、糸の結界に阻まれたわけでもない。解き放たれた矢が、一瞬にして目標に到達するであろう矢が射落とされるなど、通常、ありうることではない。
「陛下は無事だ。安心しな、姫さん」
「無事……陛下が……」
「矢で狙われたことさえ気づいていないかもな」
「そんな……馬鹿な……」
「あんたが、狙い通りに矢を放っていればこうはいかなかったかもしれない、とは、ドーリンの話だがな」
エスクの冷ややかな言葉が突き刺さる。鋭利な刃を首筋に押し当てられたような、そんな感覚を抱いたのは、予期せぬ一言だったからだ。
サランは、狙い通りに矢を放ったつもりでいたのだ。
「姫さんのおかげか? あんたが狙いを外したのは」
言葉を失う。
「ま、なんだっていいさ。あんたが――つまりイシカが陛下の暗殺を企み、実行に移した事実は消えないからな。姫さん、連れて行くぜ」
「ま、待ってくれ」
シーラがサランを組み敷いたまま、エスクに向き直るのがわかった。
「なんだよ」
「本当に陛下は無事なんだな?」
「ああ」
「だったら……!」
「サラン=キルクレイドの裏切り行為を見逃せっていうんじゃねえだろうな?」
「……いや、そういうわけじゃ……」
しどろもどろになったところを見ると、彼女は、少しはそのようなことを考えていたようだった。甘い。甘いが、その甘さこそ、シーラのシーラたる所以なのかもしれないと思える。身内に優しいのだ。つまりそれは、サランが彼女の身内と認識されていたということであり、その事実が、サランの胸に苦いものを残した。なぜ、そのような苦味を覚えたのか、自分でもわからない。
いや、それこそ、矢を外した理由かもしれない。
「いくら俺たちでも、この爺さんの罪状を取り繕うのは無理だぜ。そんなことをすりゃ、俺たちまで陛下を裏切ることになる。陛下だけじゃない。大将をを裏切ることになるんだ。あんたの大切なセツナ様をな」
「……そうだな」
「わかったなら手を貸しな。爺さんの処遇を決めるのは俺達じゃない」
「ああ……」
サランの体が軽くなったのは、シーラが離れたからだ。エスクによって乱暴に引き起こされる。“剣魔”の鋭いまなざしと、シーラの複雑な視線を感じて、サランは、小さく嘆息した。
「わたしの負けだよ」
「それは、ドーリンにいってやってくれ」
エスクは、長い髪をかきあげて、予期せぬことをいってきた。
「あいつ、あんたに憧れてたからな」
エスクの言葉だけが静寂の闇に残り、消えた。