第千三百四十五話 弓聖(二)
『姫さんなら、もっとぎゃーぎゃー喚くかと思ったんだがな』
不意に思い出したのは、サントレアでのやり取りだった。
セツナに説得されたあとの、シーラとの会話。
『だから俺はもう姫じゃねーっての。それになんだよ、ぎゃーぎゃーって。どんな風に俺を見てんだ?』
白髪の獣姫は、いつものように否定から入った。元アバードの王女である彼女は、アバード動乱によって王女の座から降りた。そして、アバード王家との関係すらも断っている。だが、彼女がアバードの元姫であるという事実には変わりがなく、彼女を王女として見ているものは少なくない。獣姫という二つ名そのものが、彼女の立場を示しているようなものだ。
もっとも、彼女のいうこともわからなくはない。王女シーラではなく、ひとりの女として、セツナに尽くしたいという彼女の気持ちは、痛いほど伝わってくるからだ。それがいいか悪いかはともかくとして、だ。その純粋な気持ちは、エスクには眩しい。
『んー……大将依存症?』
『依存症なのはミリュウだけだろ』
『そうかねえ』
『そうさ』
シーラの口ぶりに、エスクは思わず笑った。確かにその通りなのかもしれない。多かれ少なかれ、彼の周囲にいる人間というのはセツナに依存しているものだが、依存症と呼べるほどの人物は、ミリュウ以外にはいないかもしれない。ミリュウがそこまでセツナに依存しているのにもそれなりの理由があるということだが。
『ま、姫さんがわりとあっさりしてて助かったかもな、大将』
サントレアにひとり残るというセツナの決断に対するシーラの反応は、エスクが想像した以上に素直なものだった。セツナに必ず生きて帰ることを約束させ、それだけで満足した様子だったのだ。エスクには理解できないことだった。
『おまえが噛み付くから困ってたじゃねえか』
『そりゃあ噛み付くさ』
『なんでだよ』
『俺ァ、死に場所を与えてもらうために、大将の下についたんだぜ?』
アバード動乱終結前後、エスクはセツナに負けた。あらゆる面で負け、彼の配下についた。それは、彼によって死に場所が与えられることを期待してのものだった。セツナもそれはわかっているはずだ。エスクは、死に場所を求めている。エスクだけではない。シドニア傭兵団――現シドニア戦技隊に属するだれもが、死ぬべき場所を求めて、彷徨っているのだ。
だから、サントレアにセツナとともに残りたかった。そうすれば、きっと上手く死ねただろう。セツナのために、死ねただろう。
自分が認めた男のために死ぬ。
それがエスクの生きる理由だった。
『これ以上の死に場所なんてないと思ったんだがな……』
エスクは、セツナの言葉を思い出しながら、そういったものだ。
『ここは死に場所じゃない』
『はあ!? ここが死に場所以外のなんだっていうんですか!?』
セツナの反論にエスクは声を荒げた。
セツナ以外にはシーラだけがその場にいた。セツナは、エスクたちのことを考慮してくれたのか、ラグナやレムさえ、その部屋に入れなかった。だから、エスクは自分の気持ちを素直にぶつけることができたのだ。ほかのだれかがいれば、ここまで抗わなかったかもしれない。誰も居ないということは、歯止めが効かないということだ。感情をさらけ出してしまうということでもある。
『俺ひとりサントレアに残るのは、損害を出さないためだ』
『でも、相手はあの十三騎士ですぜ? 大将ひとりでどうにかできるとでも?』
『するんだよ。できるかどうかじゃなくて』
『精神論でどうにかできるってんなら、俺らがいたっていいじゃないですか』
『駄目だ』
にべもない。
エスクは声を荒げた。
『なんで!?』
『おまえたちには、ガンディオン奪還の戦力になってもらう』
『戦力なら、《獅子の尾》とか“剣鬼”とか“剣聖”がいるでしょ』
特に “剣聖”は、召喚武装なしでも圧倒的な強さを誇ることが先日判明していた。彼は、単独の戦力としても十分頼りになり、エスクらシドニア戦技隊の不在を補うことくらいならばできそうだった。仮にトラン=カルギリウスに召喚武装を貸し与えれば、その戦力たるや凄まじいものとなるだろう。ガンディア軍はこれまで多数の召喚武装を戦利品として手に入れている。レコンドールの戦いでもひとつ、手に入れたはずだ。それらを利用しない手はないのだ。
しかし、エスクの想いは、セツナには届かなかった。
『“剣魔”も、十二分に戦力になる』
エスクは、本心をいうほかないと思った。
『俺は、大将の下で、死にたいんですよ』
セツナのために、セツナの元で死ぬ。
それこそ、エスクがセツナの下についた理由だ。セツナにならば、命を預けてもいいと思えたのだ。エスクにとって二人目の“男”だった。命を捧げるだけの価値のある“男”。だからこそ、食い下がるのだ。サントレアにひとり残るというのは正気の沙汰ではない。確かにセツナは強い。黒き矛を手にしたセツナは最強の名に相応しい存在となる。十三騎士でも敵わないだろう。ただし、それも一対一に限った話であり、複数の十三騎士を同時に相手にしなければならなくなった場合は、その限りではないのだ。
実際、レコンドールでも、サントレア奪還戦でも、セツナは複数人の十三騎士に押されていた。
セツナひとりで十三騎士たちと戦うなど、死ににいくようなものではないか。
『だったら、生き延びろよ』
『はあ……?』
『もっと相応しい死に場所が、きっとあるさ』
騎士団迎撃戦よりも相応しい死に場所など、思いもつかなかったが。
『そのときまで、生きてくれ』
セツナのまなざしの眩しさから目をそらしたエスクには、それ以上なにかをいう権利はなかった。そもそも、主君たるセツナの命令を無視することなど、エスクにはできない。命令がすべてだ。それに、セツナが死に場所について考えてくれていることがわかったのだ。
それだけで十分だった。
「生きてくれ……だってさ」
エスクは、レミルの髪を撫でながら、つぶやいた。
野営地、本陣近くの一角にシドニア戦技隊は陣取っている。セツナ軍は、黒獣隊ともども《獅子の尾》支配下に入っており、《獅子の尾》の陣の近くに配置されたのだ。《獅子の尾》の支配下に入ったのは、単純に《獅子の尾》がセツナを隊長とする部隊だからにほかならない。セツナから、《獅子の尾》隊長代理ルウファ・ゼノン=バルガザールに指揮権が移譲されている。
「セツナ様?」
レミルが、顔を上げてきた。木陰に、ふたりして寝転がっていた。天幕もなにもなく、地面に布を敷いているだけだが、それで十分に思えるのは、彼女がいてくれるからだろう。レミル=フォークレイは、エスクにとってこの世で最も大切な女性だった。彼女がいてくれるから、無様にも生きていけるのだ。彼女がいなければ、エンドウィッジの戦い後、どこかで野垂れ死んでいたに違いない。
「ああ。あの大将の甘さったら、ないねえ」
「でも、そこが気に入っているんでしょう?」
レミルが体を起こして、エスクの顔を覗き込んできた。闇の中、彼女の笑顔はなによりも美しい。
「まあ、否定はしないさ」
実際、セツナが甘いからこそ、エスクはのびのびとしていられるというのはある。エスクがエスクのままでいられるのは、セツナに放任主義的なところがあるからだったし、しっかりしなければならないと想うのも、セツナがだれかれなく甘いからだ。自分に厳しく、他人に甘い。そういうセツナが嫌いになるわけがない。
レミルが横に座ったのを見計らって、立ち上がる。頬を撫でる夜風が心地よい。
「どこへ?」
「ちょっくら夜風に当たってくる。俺がいない間、男どもに気をつけろよ」
「うん」
レミルが笑ったのは、彼女に近寄ろうとする男などいないからだ。だれが好き好んで“剣魔”の女に手を出そうとするのか。そんなことをすれば首が飛ぶのは目に見えている。たとえ命を落とさなくとも、セツナ軍を敵に回す可能性があるようなことをする物好きはいまい。
セツナはガンディアの英雄だが、恐怖の象徴でもある。セツナの逆鱗に触れることは死を意味すると囁かれるほどだ。もちろん、そんな事例があったわけではない。が、噂というのは根も葉もないものだ。そして、一旦噂になれば、尾ひれがついて膨れ上がり、複雑化すればどうしようもなくなる。権力者たるセツナに近づこうとする人間がいないのも、そういうところに理由があるのだろう。
そんなことを考えながら、エスクはシドニア戦技隊の陣地を歩いていた。部下の多くは既に寝入っている。王都ガンディオンを目指す長旅の途中。休めるときにしっかり休んでおくべきだった。さすがに元傭兵というべきか。そこらあたりがしっかりしているからこそ、エスクは安心して彼らを部下として扱うことができるのだ。
そうして、エスクは、横になって寝ている見慣れた巨体を見つけた。シドニア戦技隊一の巨体の持ち主にして、ガンディアが誇る立派な髭の持ち主といえば、ひとりしかいない。
「よお、ドーリン君。こんなところでなにをしているのかね」
エスクは、ドーリン=ノーグの出っ張った腹を足蹴にしながら問いかけた。すると巨漢はまぶたを擦りながらこちらを一瞥して、寝ぼけ眼のまま問い返してきた。
「見てわかりませんか?」
「わからん」
「寝てるんですよ。隊長殿もさっさと寝てください」
そういってすぐさま寝入ろうとする髭男の背後に回り、軽く背中を蹴り飛ばす。
「起きろ」
「なぜ!?」
愕然としながら飛び起きたドーリンに、エスクは冷ややかに告げた。
「用がある。大事な仕事だ」
「仕事ですかい?」
「……嫌な感じだ」
「感覚ですかい……」
「なんかいったか?」
「いいえ」
ドーリンが首を横に振ったのを確認してから、歩き出す。確認するまでもないことではあるのだが、一応、念のためだ。彼がいなければ話にならない気がした。それも感覚に過ぎないのだが、こういうときの自分の感覚ほど当てになるものなどないとエスクは知っていた。セツナを認めたのも、要は感覚に過ぎない。それと同じだ。
「よろしい。てめえの弓の腕前は天下一だ」
「……気持ち悪い」
「んだとてめえ」
「いやはや、隊長殿に褒められるのは、どうも」
ドーリンが不気味なものでも見るような顔でいってくる。彼がそういいたくなるのもわからないではない。普段、エスクがドーリンのみならず、だれかを褒め称えるということは基本的にありえないからだ。腐すことはあってもだ。単純に他人を褒めることに意味を見出せないから褒めないだけのことであり、実力を認めていないわけではない。現に、いまの言葉も、ドーリンの弓の腕前を認めているからこそのものだ。
「……褒めてんじゃねえよ。事実をいってるんだぜ、俺は」
「事実……ですか」
「ああ。俺の知る限り、てめえほどの弓の使い手は知らない」
弓聖サラン=キルクレイドの弓の腕前は凄まじいのだろう。弓聖と呼ばれるほどだ。しかし、エスクは、ドーリン=ノーグの腕前が、サランに劣っているとはどうしても思えなかった。シドニア傭兵団時代、ドーリンはだれよりも多くの敵を弓で倒したことがあるほどの弓術巧者だった。その腕前は、年々上がってきているという。
一方の弓聖は年が年だ。人間だれしも年齢には勝てない。である以上、いずれドーリンが弓の腕でサランを追い抜くのは必定というべきだろう。
「弓聖殿がおられるじゃあござんせんか」
「弓聖には劣ると?」
「直接やりあったわけじゃあないので、なんとも」
ドーリンの謙虚さは、嫌いではないが。
「弓聖は爺だ。耄碌しててもおかしくねえ。少なくとも、てめえのほうが若いんだ。負けるわきゃねえよな」
「はあ」
「さて、俺の感覚がいうのさ。今夜辺り、なにか起きるんじゃないかとね」
所詮、感覚は感覚だ。なにも起きないかもしれないし、起きないに越したことはなかった。しかし、ジゼルコートの謀叛にルシオンの同調というありえないことが起きたいま、なにが起きたとしても不思議ではなかった。内部に敵がいたとしても、なにもおかしくはない。ジゼルコートへの手土産にレオンガンドの首を持って行こうというものがあらわれたとしても、だ。
「隊長の感覚を信じろ、と」
「俺を信じずしてだれを信じるんだよ」
「えーと……セツナ様?」
「それも悪かねえが、今夜は俺を信じろ」
「へい」
ドーリンのなんとも言い難い返事を聞きながら、木陰の中を進む。丘陵地帯の野営地の各所では篝火が焚かれており、光源に不自由することはない。空も晴れていて、星や月の光だけでも十分に明るいといっていいだろう。だが、その光が逆に闇を濃くするということもありえるのだ。影は、光が強ければ強いほど、深く、濃いものとなる。そして影が深くなればなるほど、敵意は暗躍しやすくなる。
「ドーリン君、夜目は効くかね」
「当たり前でさあ」
「だよな。そして、てめえの目は、俺なんかより余程遠くまで見渡せる」
もちろん、それは召喚武装の補助がない場合に限った話だ。ソードケインを手に入れたいまとなっては、エスクの視力のほうが優れているだろう。視力だけではない。あらゆる感覚がドーリンとは比べ物にならないものになっているはずだ。エスクは、ソードケインを掴むと、その感覚を頼りに敵意を探した。
「でなけりゃ、弓のドーリンだなんていわれませんぜ」
「緋毛のドーリンだろ」
「どっちでもいいんですが」
「よくねえだろ。見た目の話だ、緋毛はよ」
「むう……」
反論すらできなくなったドーリンのことを黙殺し、全周囲を索敵していると、エスクの意識に引っかかるものがあった。それは敵意というよりは殺意そのものであり、研ぎ澄まされた殺気を目で追いかけた先に発見したものの姿に、彼は息を止めるほどに驚いた。
「見えるか?」
「へい……しかしまさか」
ドーリンが息を呑んだのがわかる。
ふたりの視線の先、本陣を見下ろす丘の森の中、闇に紛れて弓を構える男がひとり、いた。それはまぎれもなくサラン=キルクレイドであり、だからこそ、エスクは衝撃を覚えたのだ。
「まさかだな」
「弓聖殿が……」
「ここから撃てるか?」
「距離と角度を考えると、こちらの矢は届きますまい」
「……俺の剣も届かねえな」
そして、いまから移動して、相手を剣の射程距離に入れる時間はないだろう。相手は既に弓を構えている。本陣を見下ろす位置だ。サランが狙っているのは、十中八九レオンガンドの命であり、つまるところ、イシカは、ジゼルコートと通じていたということだ。そして、ジゼルコートの謀叛によって浮き足立っているいまこそ、レオンガンドを暗殺する最良の機会だと判断したのだろう。
「仕方がない、ドーリン君」
「はい?」
「いまから俺のいうことをよく聞け」
「はあ」
ドーリン=ノーグの気のない返事を聞き流しながら、エスクは、全神経を集中させた。
サランが番えた矢が放たれる瞬間を見逃すまい、と。