第千三百四十四話 弓聖(一)
シール川を目前に控えたガンディア解放軍は、立ち往生していた。
シール川は、大川だ。深く、川幅も広く、川を渡るには、橋の上を通過するしかなかった。シールウェール近辺には浅瀬があったものの、マルディオンとシールダールの間辺りにそのようなものはなかったのだ。
その橋は、ふたつあり、ふたつとも武装したマルディア軍によって封鎖されていた。川向うには弓兵部隊が配置されているといい、橋を封鎖するマルディア兵を蹴散らし、橋の上を進もうとすれば、矢の雨を浴びせられるという寸法だった。しかし、橋を使わなければ、川を越えるのは困難だ。
シールダール辺りの浅瀬まで移動するという方法もないではないが、時間の無駄ということで却下された。シールダールに入っているマルディア軍が攻撃してくる可能性もある。なにより、ガンディア本土まで一刻も早く辿り着かなくてはならないのだ。遠回りしている場合ではない。
夜陰に紛れて橋を渡るという手も考えられたが、夜になると火が焚かれ始め、橋の周辺は煌々と照らしだされていた。夜陰に紛れることなど不可能だったのだ。
『あたしが一網打尽にしちゃおっか』
軍議の場を凍らせたミリュウ・ゼノン=リヴァイアの提案は、最終手段ということになった。
ミリュウ・ゼノン=リヴァイアがヘイル砦を壊滅させたという話は、サランも聞いている。サランはレコンドールにいてヘイル砦の戦いがどのようなものになったのかは報告でしか知らないが、ミリュウの活躍によって大勝利を得たことは知っていた。そして、ミリュウがセツナに匹敵する戦力だということも知った。それほどの大破壊だったらしい。
(ミリュウ嬢か)
彼女は、セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドを取り巻く女性陣のひとりとして、サランは認識している。ファリア・ゼノン・ベルファリア=アスラリアや、レム、そしてシーラといった美しくも勇ましい女性たちがセツナの周囲を華やかなものにしているのだが、それを羨ましいと思ったことはなかった。彼は英雄だ。英雄には美しい女性がつきものだ。そして、それが絵になっているのだから、羨む必要はない。
そもそも、サランはもはや枯れ果てている。
いまはただ、弓の腕を磨くことしか頭になかった。
『そなたの弓は、まさに神弓よな』
サランはふと、足を止めた。脳裏に聞こえたのは、彼の主君の声だった。ラインゴルド・レイ=イシカ。
夜の野営地。
頭上には、満天の星空が広がっている。丘陵地帯。鬱蒼とした木々の中に築かれた野営地は、簡素なものだ。それはそうだろう。急ぐ旅だ。休憩のたびに野営地を設営しているような時間はない。少し休んではすぐに出発するのだ。天幕さえ用意されていなかったし、ガンディア国王レオンガンドですらほかの将兵と同じように、木々の下で身を休めている。
彼とともにイシカから馳せ参じた星弓兵団もだ。彼が育て上げた小国家群最強の弓兵軍団は、つぎの戦いに備えて、ゆっくりと休んでいた。団長のイルダ=オリオンも、仮眠を取っていることだろう。
だれも、これから起こることを知らないのだ。
知る必要がない。
『神弓などと……畏れ多い言葉で御座いますな』
サランは、ラインゴルドの冷厳極まる眼差しを見つめ返しながら、謙遜して見せた。ラインゴルドとは長い付き合いだ。王と臣下という立場以上に深い関係にある。何度となく、ともに死線を潜り抜けてきたのだ。戦友でもあった。サランが勝手にそう思い込んでいるだけでなく、ラインゴルド自身、そう公言してくれている。
弓聖が戦友なればこそ、ラインゴルドはこうして生き延びることができたのだ、と。
ラインゴルドがサランを丁重に扱ってくれるから、イシカでのサランの立場は盤石であり、弟子の育成に時間を費やすことができたといってもよかった。国王みずからが後ろ盾になってくれているからこそ、自由に振る舞うことができるということだ。ラインゴルドという理解者がいなければ、サランは星弓兵団を作り上げることなどできなかっただろう。もっとも、そのサランの個人的な努力のおかげでイシカは小国家群でも類を見ないほどの弓兵軍団を持つことができたのだから、サランの手前勝手な行動も決して無駄ではなかったはずだ。
星弓兵団は、イシカ最強の戦闘軍団なのだ。
『そなたの弓に射抜けぬものなどあるまい。皇魔すら、そなたの弓の前では赤子同然というではないか』
『神は……射抜けませぬよ』
サランは、いつになく褒めそやしてくるラインゴルドに違和感を覚えた。些細な違和感。ラインゴルドは、臣下の活躍は素直に褒め称えることが多い。だからこそ、冷厳なるラインゴルドの下でも、だれもが生き生きとしていられるのだろう。ラインゴルドほど、臣下をよく見ている王もいないのだ。しかし、いや、だからこそ、サランは違和感を抱いた。彼はそのころ、活躍らしい活躍などしていなかったからだ。
戦場を離れて、久しい。
クルセルク戦争が最後の戦場となっていた。魔王軍との戦いが終結してからというもの、サランが戦場に出るようなことはなかった。そもそも、イシカが戦いを起こすこともなければ、攻め込まれることもなかったからだ。国内の皇魔対策に弓聖が駆り出されるようなことなど、そもそもありえない。そこまで深刻な事態に発展したことがないからだ。
敵対関係にあったメレドとは、同盟国ガンディアを通して友好的な関係を持ち始めている。メレドがガンディアという大国の後ろ盾を得、強引に北進を推し進めようとしたのを、イシカもガンディアと同盟を結ぶことで、押し留めたのだ。頼りにしているガンディアの同盟国には、さすがのメレドも侵攻できないということだ。果たして、メレドはイシカへの侵攻は諦め、逆に友好国になる道を模索し始めた。それはイシカにとって望むべくもない道であり、イシカは、メレドとの同盟すら視野に入れていた。
その場合、メレドは長らくの夢であった北進を諦めざるを得ないが、ガンディアとの同盟を破棄するかどうかを考えれば、北進を諦めたほうがましだと判断するだろう。それに、西に迂回して北に進むということもできなくはないのだ。メレドはおそらくそう考え、イシカとの同盟に応じるか応じまいか苦慮しているに違いなかった。
そういうこともあって、イシカそのものが戦いから遠のいていた。
弓聖サラン=キルクレイドたるもの、戦場での活躍を褒め称えられることはあれど、平時、賞賛されるようなことはそうあるものではない。だから、奇妙なのだ。
『では、獅子はどうだ?』
ラインゴルドが、目を細めた。凍てついたようなまなざしは、深いしわが幾重にも刻まれたラインゴルドの表情をことさらに厳しいものにする。冷厳という言葉が彼ほど似合う人物を、サランは知らない。
『獅子など、容易く射貫いてみせましょう』
『頼もしいな。さすがは我が戦友よ』
玉座に腰を下ろした王は、穏やかな口調でそういってきた。サランは内心安堵した。いつものラインゴルドがそこにいたからだ。普段と何ら変わらない。冷厳でありながら、人心を忘れず、臣下の心を捉えて離さない名君。イシカが小国ながらも繁栄しているのは、ラインゴルドという名君を王として戴いているからにほかならない。
『ならば、隻眼の獅子を射て見せよ』
『……はて。隻眼の獅子……でございますか?』
サランは、ラインゴルドの言葉の意味がわからず、首を捻った。国内の事件や事故のうち、国民を騒がせるようなものはすべてサランの耳に入っている。弓聖サラン=キルクレイドは、イシカ軍の中でも特別な地位にあるといってもよく、国内の情報という情報が彼の元に集められるのもそういう理由からだった。
そういった情報を鑑みても、隻眼の獅子が国内を騒がせているという話はなかった。そもそも、イシカ国内で獅子を見ることはない。皇魔ギャブレイドが獅子によく似ているものの、ギャブレイドならばギャブレイドというだろう。隻眼の獅子などという遠回しな言い方はすまい。
『そうだ』
『隻眼の……』
もう一度つぶやいたとき、その言葉がなにを暗喩しているのか、サランははたと気づいた。そして、全身に緊張が走るのを認めた。手が震え、喉が渇く。鼓動さえ、早くなる。それほど衝撃的なこともない。正気なのか、と彼は思い、主君を見やった。
冷厳王は、相も変わらぬ冷ややかな表情で、こちらを見ていた。そのまなざしは超然とし、固い決意が込められていることがわかる。
『近々、隻眼の獅子が月神に会いに来るという。だが、月神の元を去らねばならぬ時がくる。そのとき、そなたは神弓を用い、獅子を射るのだ』
冷厳王の言葉は、暗喩に満ちている。月神とは即ちマルディアのことであろう。マルディアが現在、内乱状態にあるという話はサランの耳にも入っている。そのマルディアにガンディアが軍を差し向けるというのか。
『すべては小国家群の安寧のため。イシカのため。我らのため』
ラインゴルド・レイ=イシカは、みずからに言い聞かせるようにいった。
『彼は少々やり過ぎたのだ』
彼。
つまり、レオンガンド・レイ=ガンディア。
サランは、その日から、眠れぬ日々を過ごすこととなった。
夜風が頬を撫でる。
風は、決して強くはない。が、遠距離から矢を射るのであれば、その程度の微風すらも計算に入れ無くてはならない。
ただひとり丘の上を歩きながら、彼は考える。
(陛下は、すべてを知っておいでだったのだ)
すべて。
マルディアの内乱がジゼルコート・ラーズ=ケルンノール・クレブールの謀略であり、救援軍の結成はともかく、ガンディア軍がマルディア領内に派遣されることさえ、ジゼルコートの思惑のうちだということも、認識していたに違いない。つまりラインゴルドは、ジゼルコートの共犯者なのだろう。同調者というべきか。ジゼルコートの謀叛に同調し、行動を起こした。
ジゼルコートの謀叛が判明すれば、ガンディア軍はなんとしてでも転進し、王都奪還を急がざるを得ない。マルディアの奪還などしている場合ではないのだ。そして、そうなれば、混乱が起きる。少なくとも、大騒動になるのは目に見えている。だれもが冷静さを失うだろう。
その混乱に乗じ、レオンガンドを暗殺するのが、サランに与えられた使命だった。
やがて、サランは野営地本陣を見下ろす場所に辿り着いた。木々の枝葉が傘となり、月影と星明かりからサランの姿を隠し通してくれている。
『そなたは、死ぬだろう』
たとえ暗殺に成功しても、失敗してもだ。
ガンディア軍が、国王の暗殺者を生かしておく理由がない。たとえ生きたまま拘束されたとしても、のちに処刑されるだろう。処刑して当然だ。サランがガンディア側の人間だったとしてもそうするだろう。
『だとしても、やり遂げねばならぬ。でなければ、小国家群に属する国々は、隻眼の獅子によって蹂躙され尽くし、なにもかも失うだけだ』
ラインゴルドの考えもわからないではなかった。
ガンディアの急成長と見境のない拡大路線は、ラインゴルドが警戒心を抱くのに十分過ぎる理由があった。しかも、レオンガンドは小国家群統一を目指しているという。小国家群をひとつにすることで、三大勢力に対抗しうる勢力を形勢し、四大勢力による均衡をつくり上げるという途方も無く巨大な野望。野心。
小国家群がこのままでは、いずれ三大勢力が動き出した時、為す術もなく飲み込まれてしまうに違いないからこそ、小国家群そのものを四つ目の大勢力に仕立てあげようというのがレオンガンドの考えだった。それも、わからなくはない。確かに、統一が上手く行けば、四大勢力による均衡は構築できるだろう。そして、均衡が維持される間、平穏が続くことになるだろう。だが、簡単なことではない。困難を極めるだろう。
小国家群の統一ということはつまり、小国家群のすべての国をガンディアの支配下に置くと同義だ。レオンガンドは、そうはいってはいないが、そういうことなのだ。いずれかの国が主導権を握らなければ、統一などできようはずもない。となれば、レオンガンドの国であるガンディアが主導権を握ろうとするのは当然のことだ。道理といってもいい。なにゆえ、わざわざ他国が主導権を握るためにガンディアが率先して小国家群の統一を成し遂げる必要があるのか、ということだ。
そして、ガンディアが主導権を握るための統一となれば、反発が起きるのは必定。もちろん、大国化したガンディアに逆らうのは無意味だと白旗を上げる国もあるだろうが、中には、小国といえど、ガンディアに一矢報いんとする国もあるだろう。そういった国々が協力し、ガンディアと敵対することだって十二分にありうる。
現にイシカがそうだ。
レオンガンドの暗殺を企んでいる事自体、レオンガンドのやり方への反発なのだ。
急激な拡大は、周辺諸国に危機感を与え、危機感は反発を呼び、反発は攻撃となる。
だから、このような状況になってしまったのだ。
本陣には、篝火が焚かれている。篝火によってその周辺が明るく照らし出されており、レオンガンドが参謀局の室長たちと話し合っている様子が窺えた。エイン=ラジャールとアレグリア=シーン、それに彼らの部下もいて、レオンガンドの側近もいる。きっと、明日以降のことを話し合っているのだろう。シール川を越えさえすれば、マルディア領内を脱するのは難しいことではない。きっと、そういうことを言い合っているに違いない。
殺すのは、レオンガンドだけでよかった。エインもアレグリアも放っておけばいい。優秀な人材で、敵に回せば恐ろしいことこの上ないが、ジゼルコートの謀叛が成功すれば、関係なくなる。そしてそれは、レオンガンドさえ暗殺することによって完全なものとなるのは、間違いない。それで彼の役目は終わる。人生も終わるが、特に問題はない。
長く生きた。
生き過ぎたといっていい。
この数十年、余生を過ごしてきたのだ。
(長かった……)
背に帯びた弓を手に取り、ゆっくりと息を吐く。呼吸を整えながら、精神統一を図る。あらゆる感覚を総動員して、狙撃の準備に入る。対象との距離、角度、風の強さ――それらを計算しながら、静かに矢を番える。
夜の闇の中、風が草木を揺らす音や夜鳥の鳴き声が聞こえていた。
(やはり、一筋縄では行かんか)
サランは、目標を見やりながら、目を細めた。
遥か下方でくつろぐ対象の周囲に鉄の糸が張り巡らされているのがわかる。知っている。王宮特務に属するアーリアという女が作り上げた糸の結界。複雑に絡みあった無数の鉄の糸が、レオンガンドを完璧に近く守っている。が、もちろん、鉄の糸の防壁が完璧などであろうはずもない。必ず隙間がある。矢の一本が通るか通らないかのわずかな隙間。それを見出すことができれば、サランの勝ちだ。
放たれた矢は、一瞬にしてレオンガンドを射抜くだろう。
「なにやってんだ、じーさん」
不意に背後から投げられた声に、サランは、呼吸を止めた。