第千三百四十二話 シール川を前に
ガンディア解放軍は、レコンドールで一日、休息を取った。サントレアからレコンドールまでの強行軍は、全軍に途方もない消耗を強いたからだ。マルディアからガンディア本土までの長旅。急いで本土まで戻らなければならないものの、強行軍を続けていけるほどの距離ではなかった。じっくりと休み、疲労を回復させなければ、本土に到着する前に壊滅の憂き目に遭うだろう。
イシカの星弓兵団と合流したことで戦力を増強した解放軍ではあったが、ジベルがジゼルコートに通じており、またベレルの協力は期待できなかった。ベレルは、王女イスラ・レーウェ=ベレルを人質として王都に差し出していた。王都を制圧したジゼルコートがイスラ王女を捕らえないわけがない。人質として丁重に扱いはするだろうが、それによりベレルの援護は期待できなくなったどころか、ベレル軍が攻撃してくる可能性さえ出てきていた。
「問題は、マルディアだがな」
レコンドール南東の丘陵地帯での休息中、レオンガンドは、参謀たちと話し合っていた。シール川を目前にして、ちょうど夜になったのだ。マルディアを南北に二分するシール川を越えさえすれば、アバードは近いのだが、物見の報告によれば、シール川に架かる橋という橋はマルディア軍が封鎖しているということだった。
ガンディア軍に対する明確な敵対行動といっていい。
つまり、マルディアは、ジゼルコートの謀叛に同調しているということであり、マルディアがガンディアに救援を要請したことそのものも、ジゼルコートの策謀の一手だったということにほかならない。マルディア軍聖石旅団の反乱さえも、ジゼルコートの企みなのかもしれない、と、参謀たちは考えているらしい。レオンガンドたちを嵌めるためにそこまでするのか、と思うのだが、ジゼルコートはやり手の政治家だ。それくらいのことはしてもおかしくはなかった。
彼の政治手腕、外交手腕は、並外れている。
だからこそ、レオンガンドはジゼルコートが敵に回ったことが悲しかったし、苦しかった。彼ほどの政治的才能を持った人物は、現状、ガンディアにはいない。おそらく、傑出した才能であり、小国家群でも有数の政治家なのは間違いなかった。
二十年だ。
レオンガンドの父にして英傑と謳われた先王シウスクラウドが病床に伏してから、レオンガンドが即位するまでの二十年。ジゼルコートは影の王として王宮に君臨し、野心も野望も持つことなく、ガンディアを支え続けた。レオンガンドという“うつけ”の王子を擁したことで、臣民の心は王家から離れかけていたものの、それでもガンディアが国としての体裁を保ち、滅びを免れることができたのは、ジゼルコートという傑出した政治家がいてくれたからにほかならない。もしジゼルコートがいなければ、ガンディアを取り巻く状況は大きく変わっていたことだろう。レオンガンドが“うつけ”を演じている暇はなく、シウスクラウドやアルガザード、ナーレスの教えのままに王子として成長し、ガンディアの国政に関わるようになっていたかもしれず、その場合、周辺諸国はガンディアの惨状を見逃さず、攻め滅ぼさんとした可能性も低くはなかった。
それほどまでにジゼルコートという人物の果たした役割は大きい。
彼がいたからこそ、ガンディアはここまでこれたといっても過言ではないのだ。
それは、彼が王宮に復帰してからもいえることだ。レオンガンドもナーレスも、ジゼルコートの政治手腕を大いに活用した。ジゼルコートほどの政治家が王宮にいて、国政を取り仕切ってくれているということの安心感は極めて大きく、彼がいてくれたから、ガンディアは国土拡大に邁進できたといってもよかった。
ジゼルコートがいなければ、ガンディアは大国化できてなどいなかっただろう。
そのジゼルコートが裏切った。
裏切り、王宮を制圧し、王都を掌握した。
ガンディア本土そのものが彼の支配下に入った。おそらく、ログナー方面、ミオン方面にもその魔手は伸びているだろうし、いくらかはジゼルコート軍の支配地と化しているだろう。ジゼルコート軍の戦力は、彼の私設軍隊のみではない。クルセルク方面軍がデイオン=ホークロウ指揮の下、ジゼルコートの配下に入っているし、ルシオン軍もまた、ハルベルク・レイ=ルシオンともども、ジゼルコートに協力しているという。
信じがたいことだ。
ジゼルコートの謀叛は、予測していたことだ。
そもそも、この度のマルディア救援は、王都をがら空きにすることで、ジゼルコートの反乱を誘発させることが目的だった。反乱の発生直後に鎮圧するべく、戦力を手配してもいた。それがデイオン将軍率いるクルセルク方面軍であり、ルシオン軍だったのだが、それらはすべてジゼルコートの同調者であり、共謀者だった。
ジゼルコートの裏切りさえ、本心としては受け入れがたいことであるにも関わらず、左眼将軍デイオン=ホークロウ、側近のエリウス=ログナーまでもがレオンガンドを裏切り、さらに長年の同盟国であるルシオンまでもがジゼルコートの反乱に同調するとは、とても信じられないことだった。
あのハルベルクが裏切り、レオンガンドの敵に回るなど、想像できるわけもない。そもそも、ルシオンからは白聖騎士隊がマルディア救援軍に参加しており、王妃リノンクレアみずからが隊長として隊を率いていた。王妃リノンクレアは、ハルベルクがレオンガンドを裏切ることを知らなかったのだ。リノンクレアにとっても寝耳に水の話であり、信じられない出来事だった。彼女は、いまも信じてはいない。いちはやくガンディア本土に辿り着き、ハルベルクの潔白を示すことに躍起になっている。
『兄上、わたくしにはとても信じられません。まさか、ハルベルクが、陛下が、兄上を、ガンディアを裏切ることなど、あるわけがございませぬ……!』
リノンクレアの青ざめた顔は、思い出すたびにレオンガンドの胸を締め付ける。
リノンクレアは、レオンガンドの最愛の妹であり、そんな彼女を王子妃として迎え入れたハルベルクは、レオンガンドにとっては血の繋がらない弟のようなものであり、ふたりの結婚後は名実ともに義弟となった。それ以前もそれ以降も、レオンガンドはハルベルクを尊重してきていたし、ルシオンを大切にしてきたつもりだった。
同盟国だ。
ミオンとともに結んだ三国同盟の絆は、そう簡単には壊れないはずだった。互いに協力し、いずれかの国が窮地に陥れば、必ず助け合ってきた。どのようなときでも、それは変わらなかった。
歯車は、どこで狂ってしまったのか。
まず、ミオンが裏切った。
ミオンの宰相マルス=バールがラインス=アンスリウスとともにガンディアの敵となり、彼の処遇を巡ってガンディアとミオンは対立した。ガンディアは、立場上、ミオンの暴挙を許すことはできなかった。マルス=バールの首さえ差し出してくれればそれでよかったというのに、ミオンの若き国王イシウスは、それを良しとしなかった。マルス=バールがあってこそのミオンだという彼の言葉が記録に残っている。ミオンを征討し、三国同盟は崩壊した。
しかし、ルシオンとガンディアの関係は、続く。むしろ、結束はより強くなり、絆はより深まったはずだった。ガンディアはルシオンを大切にしていたし、ルシオンもガンディアとの関係を重視しているようだった。互いに必要な国だ。関係は、今後も変わらないだろう。
そう信じていた矢先の出来事だ。
なぜハルベルクがジゼルコートの謀叛に同調したのか。
なぜルシオンがガンディアの敵に回ったのか。
なぜ。
ルシオン反乱の報せが入って以来、そのことばかりを考えている。
ジゼルコートそのひとの裏切りについても考えさせられるのだが、彼については、半ばあきらめていたことでもあった。様々な情報が、ジゼルコートが敵となる可能性を示唆していた。エイン=ラジャールなどは、ジゼルコートがレオンガンドの敵だと断言してさえいた。ナーレスが生きていれば、ジゼルコートを謀殺するために手を打ったに違いないとさえ。
しかし、謀殺は避けた。
ジゼルコートがレオンガンドの敵に回る可能性はあっても、確実ではなかった。それに、ガンディア国内のレオンガンドの敵は、なにもジゼルコートひとりではないのだ。ジゼルコート以外にも多数の敵が潜伏している。味方のふりをしている。敵を炙りださなければならない。
だからこそ、ジゼルコートに反乱を起こさせたのだ。ジゼルコートが反乱を起こさないのであれば、それでいい。反乱を起こしたとあれば、彼の同調者ごと一網打尽にすれば、ガンディアからレオンガンドの敵を一掃することができる。
マルディア救援とは、そういう考えのもとに起こされたものだった。
だが、そのマルディア救援さえもジゼルコートの策謀であり、ジゼルコートが自分の勝利のためにベノアガルドの騎士団さえも利用しているとは、想像もつかなかった。
「斥候によれば、橋は厳重に封鎖されているようですね。橋を渡ろうとすれば、戦闘にならざるをえません」
「マルディア軍が敵対するというのであれば、戦闘もやむを得ん」
できれば、戦いたくなどない。戦闘に発展するということは、消耗するということだ。戦力も、時間も。どちらかというと時間のほうが惜しい。一刻も早く王都に辿り着かなければならないのだ。ジゼルコート単独の謀叛ならばまだしも、ジゼルコートには多数の同調者がいて、精強なルシオン軍がついている。時間をかければかけるほど、解放軍が不利になる。
「もちろんそうなんですが、気になるのは、サントレアですね」
「セツナが危うい……か」
「サントレアに滞在中のマルディア軍を率いるスノウ様には、まだ、マルディア政府の指令は届いていないようですが、いずれ、届くでしょうね。おそらく、セツナ様を攻撃しろというものか、捕縛しろというものが。もちろん、セツナ様がマルディアの兵士たちに捕まるわけもありませんが、サントレアにとどまってはいられなくなるのは間違いありません」
「かといって、サントレアから離れきるということもできない、か」
「騎士団がいますからね」
セツナは、騎士団の追撃を食い止めるためにサントレアに残ったのだ。マルディア軍が政府の指令によって敵に回ったとしても、サントレア近辺から離れることはできない。サントレアから離れるということは、騎士団の攻撃を許すということになるからだ。サントレアの北に逃れれば、騎士団とマルディア軍に挟まれることになり、南に逃れれば、マルディア軍と騎士団の双方と対陣することになる。
騎士団がジゼルコートの同調者であるというのであれば、マルディア軍と協力し、セツナと戦うことだって十二分に考えられた。
セツナが孤立するということだ。
幸い、セツナはひとりではない。小飛竜のラグナがついてくれているというし、戦鬼グリフという巨人がセツナに助勢してくれていた。巨人の圧倒的な力は、騎士団相手にも十分通用するだろう。戦力的には申し分ないのだが、問題は、セツナもまた、ただの人間だということだ。
「マルディアが敵だということが明らかになった以上、マルディアの都市を守る必要はなくなったわけですから、騎士団や反乱軍にいくら蹂躙されようが、目を瞑ればいいんですし、せめて我々がマルディアを突破するまでの時間稼ぎさえしていただけたのなら、サントレアから離脱し、そのままマルディアからも脱出していただくのが一番でしょうね」
「そうだな……マルディア突破の目処が立った頃合にでも、伝令を届けさせよう」
レオンガンドは、エインの考えに賛同した。脳裏には、サントレアでのセツナとの会話が浮かんで、消えた。




