第千三百三十二話 夢追う者(二)
「馬鹿な……ありえぬ」
レオンガンドが、愕然とつぶやいた。
「あってはならんことだ。ルシオンがジゼルコートにつくだと。わたしを裏切ったというのか。ハルベルク陛下が……」
信じられないといった様子なのは、なにもレオンガンドだけではなかった。司令室にいるだれもが衝撃的な報告に打ちのめされ、茫然としていた。セツナ自身、頭の中が真っ白になるくらいの衝撃を受けていた。
ルシオンは、ガンディアの同盟国だ。ミオンとともに三国同盟を結んでいたころから、ガンディアにとってルシオンは特別な国であり、ルシオンの軍事力を頼りにしていた時期は長い。そんなルシオンとの紐帯を強くするべく、ガンディアは獅子姫と謳われた王女リノンクレアを当時王子だったハルベルクに嫁がせたのだ。以来、両国の関係はより深くなり、その結びつきは、レオンガンドとハルベルクが健在の間は壊れるはずがないと信じられていた。
その信頼を裏切ったのだ。
衝撃も然ることながら、背信行為への怒りとも哀しみともつかぬ感情が渦巻き、司令室に集まった救援軍首脳陣のうち、ガンディアの軍人たちは顔を蒼白にさせていた。
この状況、参謀局にも想定外のことだったらしく、エインもアレグリアも沈痛な面持ちだった。だが、ふたりのことだ。そのような表情をしながらも脳裏では打開策を考えているのだろうことは想像に難くない。そういうところがふたりの頼りになるところであり、セツナは、彼らのような心の強さを持つべきだとみずからを叱咤した。
ルシオンが裏切ったからといって、思考停止に陥っている場合ではない。
「そのようなこと、あるはずがありません! きっとなにかの間違いです!」
声を荒げたのは、リノンクレアだ。興奮した彼女は椅子を蹴倒すほどの勢いで立ち上がり、机の上に身を乗り出していた。長い髪が、彼女の感情のままに荒ぶり、乱れた。
「陛下も御存知のはずです。我が夫にしてルシオン国王であるハルベルクは、だれよりも陛下を慕われておいででした。陛下とともに歩むことを夢とし、陛下のお力になることこそ、ハルベルクの夢でした。そのハルベルクが国王となったいま、ルシオンがガンディアを裏切る理由など、ひとつとしてないのです!」
「そ、そうだな……確かに、そうだ。リノンのいう通りだ。ハルベルクがわたしを裏切る理由など、なにひとつない。ハルベルクがジゼルコートにつき、わたしに敵対するなど、道理に反することだ。ルシオンがガンディアと敵対して得られるものなど、なにもない。なにひとつ」
リノンクレアの発言に、レオンガンドが顔を蒼白にさせたまま、まるで自分に言い聞かせるようにいった。しかし、その言葉に迫力はなく、自分でも信じていないのではないかと思われるほどの儚さがあった。
「陛下、ルシオンを信じてください。ハルベルクを、我が夫を!」
リノンクレアの叫びは、心からの咆哮のようなものであり、セツナは、彼女の中の複雑な感情に胸を打たれる想いがした。リノンクレアとしては、嫁ぎ先であり、最愛の夫が国王を務めるルシオンの裏切りなど信じられるわけがないのだ。そもそも、妻であるリノンクレアを救援軍に同行させておきながら、自分はレオンガンドを裏切るなどということをハルベルクがするとは、すこしばかり信じがたい。誤報だと想いたい気持ちは、痛いほどわかった。だが、誤報の可能性がどれほどあるのか。
ガンディオンからの報告なのだ。誤報とは、思い難い。
「信じて……いる。そう、裏切ることなどありえぬ」
レオンガンドが、リノンクレアの目を見つめながら、静かにうなずいた。だれかが息を呑む音が聞こえる。それくらいの静寂の中、エインが口を開く。
「しかし、報告が事実ならば、ガンディア方面軍だけでは対処できないでしょうね」
「事実ではないといっている!」
リノンクレアが睨むが、エインは涼しい顔で告げた。
「偽報であれ、虚報であれ、マルディアはサントレアにいる以上、真実を確かめる方法はありません。長年の同盟国であるルシオンを信じるのはもっともですが、そういう報告がある以上、捨て置くわけには参りません」
「っ……」
「ガンディアからの情報を待っている間にジゼルコート軍によって、ガンディアの領土がつぎつぎと落とされていってはたまりませんからね」
と、エイン。確かに、ここで新たな報告を待ち続けるというのは、愚策に思えた。ルシオンが裏切るはずはないと信じるのはいいが、報告が真実だった場合、取り返しの付かないことになる。現在でさえ、ガンディア方面が落ちているのだ。
ガンディア方面にはいくつかの都市があるが、王都ガンディオンにマルダール、バルサー要塞がジゼルコート軍の手に落ちたという。そしてクレブールとケルンノールは元々ジゼルコートの領地だ。つまり、ガンディア方面は完全にジゼルコートの支配下にあるといっていい。もちろん、ルシオン軍が裏切っていなければその限りではないが、裏切ったという前提で考えるのであれば、そうなる。
ジゼルコート軍がつぎにすることは、領土の拡大だろう。ログナー方面、ミオン方面を制圧し、さらにザルワーン方面にまでも支配圏を伸ばさんとするに違いない。クルセルク方面は、どうとでもなるだろう。クルセルク方面軍は、デイオン=ホークロウ将軍によって掌握されているのだ。そのデイオンがジゼルコート軍についたというのであれば、クルセルク方面はジゼルコート軍の手に渡ったと見るべきだった。
残された時間は、少ない。
その事実を認識した司令室の面々の表情に焦りが見え始めた。
「どうするというのだ」
「先程の決議通り、王都奪還に向かわなければなりません。しかしながら、ルシオン軍がジゼルコート軍に加勢していると仮定した場合、ガンディア方面軍だけでは戦力不足というほかありません。道中、ザルワーン方面軍を集ったとしても、ミオン方面軍に同調するよう命令を飛ばしたとしても、まだ足りない。相手はルシオンの精兵ですからね。相当な戦力が必要となるでしょう」
「戦力……か」
「陛下!」
リノンクレアが、声高に叫ぶ。彼女の表情は様々な感情が入り混じって、複雑なものになっていた。ハルベルクを信じ、報告を疑いながらも、不安を解消しきれず、なんとも言い難い苦悩に満ちた表情。
「ガンディアへは、わたくしたちも同行させていただきます。ルシオン軍が裏切るはずなどありませんが、この目で真実を確かめなければなりません」
「ああ、わかっている。そうだな、そうだろうとも」
レオンガンドは、リノンクレアの心労を察してか、つとめて優しい口調でいった。こういう状況でも相手のことが気づかえるのは、さすがは国王というべきなのかどうか。セツナはそんなレオンガンドの心労こそ、察するほかない。
「こうなった以上、救援軍を解散し、全軍でガンディアに戻られては?」
そう提案したのは、スノウ・ザン=エメラリアだ。
「スノウ殿……それは……しかし……」
「妙案ですね。現状の全戦力ならば、たとえルシオン軍が敵に回っていたのだとしても、対応できるでしょう」
「妙案というより、ほかにないというべきですが」
エインとアレグリアが妙に嬉しそうな声でいった。救援軍の解散を提案できるのは、ガンディアに救援を求めたマルディアの人間をおいてほかにはいないのだ。スノウが提案してくれなければ、救援軍を解散するという考えを出すことはできなかっただろう。
「救援軍が解散すれば、反乱軍が再びマルディアの地を脅かすでしょう」
レオンガンドが、スノウを見やる。
「そうなれば、再び救援軍が到来する日を信じて、耐え凌ぎますよ」
スノウはそういって、微笑を浮かべた。マルディア政府軍だけで撃退すると言い切れないところが、反乱軍の怖さなのだ。反乱軍そのものが恐ろしいのではない。現状、反乱軍だけならば、政府軍でもなんとでもなるだろう。しかし、反乱軍の背後には騎士団がついている。ベノアガルドの神卓騎士団。十三騎士という脅威の存在が反乱軍を圧倒的に強くしているのだ。反乱軍は追いつめられ、ベノアガルド領シギルエルに後退したとはいえ、救援軍がマルディアより姿を消したとあれば、まず間違いなく再度侵攻してくるだろう。そのときは、騎士団も帯同し、十三騎士たちが凶悪な力を振るうに違いない。政府軍だけでは、太刀打ち出来ない。
それは、セツナにもわかることだ。
「報告!」
兵士が司令室内に駆け込んでくるなり、声高に叫んだ。声が上ずっているのは、緊急の報告だったからだろうが。
「つぎはなんだ……!」
レオンガンドが声を荒げた。
「騎士団が国境を越え、サントレアの北に布陣! サントレアへの攻撃の構えを見せております!」
司令室に衝撃が走る。
「なんだと……!?」
「馬鹿な……」
「どういうことだ!」
「なるほど……そういうことですか」
「奇妙な動きもこれで納得ができますね」
驚く面々の中、参謀局のふたりの室長はきわめて冷静だった。レオンガンドが怪訝な顔をふたりに向ける。
「どういうことだ?」
「ベノアガルドがジゼルコート伯と繋がっていた、ということですよ」
エインがしれっとした顔でいった。
「アルベイル=ケルナーの件から疑いのあったことが、事実だったと証明されたわけです。これで正面切ってジゼルコート伯を糾弾できますね」
「そんなことをいってる場合か!」
「怒らないでくださいよ。怒っても、焦っても、状況は変わらないんですから」
エインは飄々とした態度で言い切ると、静かに言葉を続けた。
「おそらく、我が方に届いた王都及びガンディア方面陥落の情報は、騎士団にも届いたのでしょう。我々よりも多少早く。そこで、サントレアにいる我々に戦力を差し向けてきた」
「なんのために?」
「当然、我々の動きを止めるためですよ」
「それこそ、ジゼルコート伯の反乱を援護するためでしょうね」
エインの言葉をついで、アレグリアが告げた。ふたりの軍師候補の脳内には、既に様々な戦術が描き出され始めているのだろうが、司令室内の緊張は高まるばかりであり、ふたりの冷静さはひどく浮いていた。
「たとえ、我々が騎士団を黙殺し、ガンディア方面に向かおうとしたところで、騎士団は我々の後背を突いてくるでしょう」
エイン=ラジャールの冷酷な宣告に、司令室内はさらなる緊張に包まれた。
「これで……良かったのですな?」
バルベリド=ウォースーンの質問の意図がわからず、彼は視線を虚空に彷徨わせた末、相手を視界に捉えることに成功した。バルベリドの角ばった顔が、何時にもまして厳しく見える。気のせいではあるまい。バルベリドは、彼のこの行動を良しとはしていないのだ。だが、バルベリドは彼の命令に従い、ここまでついてきた。なにひとつ文句をいわず、批判をせず、否定をせず。ただ、唯々諾々と従ってきた。それがバルベリドという男なのだ。彼がバルベリドをルシオン一の忠臣と定める理由でもある。
石造りの広間に、彼はいる。彼とバルベリド、そして彼の養子ハルレイン=ウォースーンの三人だけが、この広すぎる空間を占拠していた。
「ああ。これでいい」
ハルベルク・レイ=ルシオンは、ようやく、バルベリドの言葉を理解し、告げた。
「これで、わたしの夢は一歩、前進した」
バルサー要塞の大広間。
かつて、ガンディア領最北の護りの要として、難攻不落の要塞として知られたバルサー要塞は、難なく落ちた。いや、落ちたというほどのものでもない。ルシオン軍がバルサー要塞に入ったのは、ガンディア国王レオンガンド・レイ=ガンディアの要請によるものなのだ。そのまま、ルシオンのものとしただけのことであり、バルサー要塞の住人たちはなにが起こったのかもわからぬまま、支配者が変化したことを知ったのだ。その後、暴動が起きたが、すぐに鎮圧された。
それ以来、バルサー要塞は平静を保っている。
「陛下の夢……ですか」
「ああ。夢だよ、ハルレイン」
ハルベルクは、仮面で顔を隠した少年を見やって、告げた。火傷をして醜くなった目元だけを隠す仮面の奥で、少年の目が鈍く輝いている。
「夢だったんだ。これが、わたしの」
ハルベルクは、自分に言い聞かせていることに気がついて、苦笑した。言い聞かさなければならないほどのことなのか。それほどまでに自分は臆病で、惰弱だとでもいうのか。
(そうなのだろう)
ハルベルクは、胸中、認めた。認めるほかない。今日に至るまで、動悸が収まったことなど一度足りともなかった。ジゼルコートの反乱に応じ、バルサー要塞とマルダールを支配下に収めてからというもの、ハルベルクの胸は高鳴り続けていた。
興奮とも、恐れともつかぬ鼓動の速さ。
(どうする、義兄上……いや、レオンガンド)
隻眼の獅子王の姿が脳裏に浮かぶ。不注意によって片目を失ったことで、彼は威厳を得たといってもいいのかもしれない。ただ美しいだけの若者だったのが、ガンディア、ログナー、ザルワーンを束ねるに相応しい王者へと変貌したのは、隻眼となったからだ。戦いの傷は、場合によっては箔付けとなりうる。無論、レオンガンドが王者としての風格を持ったのは、片目を失ったからではない。度重なる戦いの経験が、彼を“うつけ”の君から若き獅子王へと変貌させ、偉大なる獅子王へと昇華させたのだ。
だからこそ、ハルベルクは彼を追い続けた。彼とともにあらんとした。彼とともに歩み続けていれば、自分もまた、いつかは彼のようになれるのではないかと思ったのだ。
そう、信じていた。
だが。
『陛下……いや、ハルベルク!』
耳朶に、ジルヴェールの叫び声が残っている。
ジゼルコートに挨拶するべく獅子王宮に入り、もののついでに、幽閉されたジルヴェールと面会したときのことだ。
『あなたの夢は、陛下とともにあるのではなかったのか!』
ハルベルクを糾弾するジルヴェールの気持ちは、痛いほど伝わってきた。
『そう、約束したはずじゃあなかったのか……!』
『そういえば……君もいたな。ジルヴェール』
ハルベルクの言葉に、ジルヴェールが身動ぎした。幼少のころ、レオンガンド、リノンクレアの遊び友達のひとりにジルヴェールがいた。彼の実弟ゼルバードもそのひとりであり、ハルベルクともよく遊んだものだった。あるときを境に疎遠になったのだが、ハルベルクは、自分を糾弾するジルヴェールにそのことを思い出したのだ。
『君にいわれたくはないな。暗愚を演じていた陛下の本質を見抜くこともできず、勝手に失望し、陛下の元を去っていった君にはね』
ジルヴェールは、なにもいわなかった。いえるわけがないのだ。彼がレオンガンドの“うつけ”ぶりに嫌気が差し、ケルンノールに篭ったのは事実なのだから。いまでこそレオンガンドの側近のひとりとして大手を振っているものの、以前は、反レオンガンド派に入っているのではないかといわれるほど、レオンガンドを毛嫌いしていた。
『わたしは、違う。わたしは、陛下の本質を知っていた。陛下は、わたしにとって光だった。物心ついたときには、わたしは陛下に光を見ていた。太陽だったのだ。わたしは、陛下という太陽に照らされ、生を実感していた。陛下とともにありたいと思い続けた。陛下という太陽と、リノンクレアという月が、わたしのすべてだった。だから、夢を共有した』
レオンガンドと並び立ち、戦野を駆けるという、夢。
『太陽と月に照らされたわたしはただの星だ。ただの星が太陽と並び立つには、どうすればいい? 太陽はあまりに眩しく、あまりに烈しい。星のままでは、近づくだけで焼き尽くされてしまう』
並び立つには、同じだけの熱量を持つ星にならなければならない。
太陽に。
でなければ、月を愛する資格さえないのだ。
(このままでは、あなたの国は、あの男のものになってしまうぞ。そうなれば、あなたの夢は終わる。夢を終わらせるか。終わらせられるわけがないだろう)
ジゼルコートの反乱。
そこに大義があるわけもない。正義もなければ、なんの意味があるのかもわからない。冷静に考えれば悪というほかなく、ガンディアのことを思えば、断罪するべきものだ。もっとも、ジゼルコートはこの反乱に大義など掲げていない。正義など信じてもいない。やるべきことをやっているだけのことだ。
彼にとってこの反乱こそ、ガンディアのための一手なのだから。
そして、ハルベルクにとってのこの反乱は、夢のための一手だ。
(なあ、レオンガンド)
レオンガンド・レイ=ガンディア。
(わたしの夢よ)
彼と並び立つには、相対し、相剋しなければならないのだ。