第百三十二話 矛の役目
「戦争が始まるそうだな」
威厳に満ちた声に話しかけられていることに気づいて、セツナは瞼を開けた。
「また、殺すか」
灰色の空が視界の彼方に浮かんでいる。流れる雲も、雲の向こうの一面も、太陽さえも、灰色に塗り潰されている。ここはどこだろう。考えるまでもなく思いつく。夢の中だ。
夢の中で、仰向けになって寝ている。
「何人殺す? 俺としては何人でもいいが……多い方がいいのか?」
声は、たぶん、足の方から聞こえてきている。冷厳で高圧的な声だ。しかし、耳によく馴染んでいて、不快感はない。むしろ、もっと聞いていたくなるような安心感があった。
「だれだよ、突然話しかけてきてさ。そうまくし立てられたって返事できねえっての」
セツナは、ぼやきながら体を起こした。そして、息を呑む。
前方にいたのは、一匹の竜だ。竜としか形容詞用のない存在だった。全長何メートルあるのだろう。とてつもなく巨大で、膨大な質量を誇る漆黒の化け物。黒い巨躯の表面は奇妙にうねり、一方向へと流れているようにみえる。巨大な一対の翼は折りたたまれているにも関わらず、圧倒的な威圧感が逢った。いや、威圧的なのは翼だけではない。その流動体のような肉体もさることながら、太い腕や足、さらにその先に伸びた強靭な爪は、一撃でセツナを惨殺するだろう。
長い首が持ち上がり、こちらに伸びてくる。巨大な頭部は、鋭利な兜のようであり、前面に瞬く無数の赤い光は、それの眼なのだと理解できる。複眼のドラゴン。開かれた口には無数の牙が並び、その奥には闇が横たわっていた。
深淵を覗いた気分になる。
ドラゴンの頭は、二メートルほどの手前で止まった。首の長さ的にはまだまだ余裕がありそうだったが。
「威勢だけは良いな、おまえは」
声はドラゴンから聞こえるものの、その口が動いているわけではなかった。空気を振動させて、音声を作り出しているようだ。もっとも、分析するまでもなく、これは夢だ。なんだって起こりうる。
「……だけで悪かったな」
強気に言い返せたのも、夢という認識があるからだ。夢の中ならば、どうとでもなる。そんな無意味な自信が、セツナの背を押した。数歩歩き、立ち止まる。ドラゴンの頭は目の前だ。流動体のような肉体と、甲冑のような頭部の違いがはっきりと分かった。そして、甲冑のような部位は頭部だけではないということも把握する。胸部は肩、腰回りも装甲に覆われていた。
「自覚しているのならば、いい」
無数の眼が、セツナを射抜くように見ている。冷ややかな視線。普段なら直視することもままならないほどの圧力を感じるのだが、夢という前提が、セツナの足を踏ん張らせた。
ドラゴンが、眼を細めた。
「カオスブリンガー……大層な名前だ」
「かっこいいだろ」
セツナは胸を張ったが、ドラゴンは鼻で笑った。鼻の穴は、ちゃんと開いているようだ。
「よくはない」
「なんだよ、ひとがせっかく考えたのに」
「思いつきだろう」
「なんでわかるんだよ……」
セツナは肩を落としたが、ドラゴンはその様子がおかしかったのか、小さく笑った。
「おまえの考えそうなことくらい、わかるさ」
ドラゴンは、喉を鳴らしたらしい。
振動が波紋のように広がり、夢の世界を震わせた。
セツナは、軽く弾き飛ばされていた。
夢の景色は、どこまでも灰色だった。空も雲も、地も地平の果てまでも、灰色一色に染め上げられている。セツナ自身もだ。その中で、ドラゴンだけが黒点のように存在している。地面に叩きつけられて起き上がるまでに見た光景は、そのようなものだった。
夢の中。痛みはない。
もう一度起き上がると、ドラゴンは翼を広げていた。巨躯が、さらに何倍も大きく見えた。天に飛び立つつもりなのかもしれない。
セツナは、さっきのドラゴンの言葉をいまさらのように反芻する。
「カオスブリンガー……って、まさか……」
「察しの悪さも中々だな」
漆黒のドラゴンはセツナを笑う。だが、そこに侮蔑的な感情はない。ただ、笑っている。
「黒き矛なのか……?」
セツナは、ここが夢の中だということも忘れた。黒き矛。イルス・ヴァレに召喚されて以来、酷使し続けてきた召喚武装。いわれてみれば、漆黒のドラゴンと黒き異形の矛は似ている気がしないでもない。それは造形的な意味ではなく、感覚的なものだが。
「ようやく言葉をかわすことができたな……我が主よ。だが、時間切れだ」
竜が、吼えた。漆黒の肉体から光が溢れ、セツナの視界を白く染め上げていく。セツナには抗うこともできない。ただ光に晒され、意識までも消し飛ばされそうになるのを受け入れるしかない。
「また、いつか――」
はっと目を開けると、見知った天井があった。マイラム宮殿の一室で、《獅子の尾》隊にあてがわれた部屋だ。そこに用意されたベッドの上で眠り、夢を見ていたようだ。悪い夢ではなかった。余韻が強く残っていて、まるで酔っているかのような感覚があった。意識が判然としない。夢の中で見た光景が、未だに網膜を離れない。
灰色の世界。
いま見ている視界には色彩がある。腕を伸ばしてみれば、血色のいい自分の手が見えた。体を起こし、視線を巡らせる。室内にはほかに誰もいない。ファリアもルウファも出ているらしい。仕事だろうか。
「あ」
セツナは、いまがどういう状況なのかを思い出すと、ベッドから飛び降りた。軽くふらついたが、それも一瞬のことだ。つぎの瞬間には立ち直っている。
現状を思い出せたおかげで、夢の余韻も消え失せていた。
見下ろすと簡素な私服だったが、セツナはとくに気にもせず部屋を飛び出した。と、ファリアが前方から歩いてくるのが見えた。彼女は王立親衛隊の制服を着ており、遠目からでもよくわかる。
ファリアはこちらに気づくと、小走り気味に駆け寄ってきた。
「起きたのね、ちょうど呼びにきたところだったのよ」
「俺に用事?」
「たいしたことじゃないけどね」
そういって、彼女はウインクを飛ばしてきた。
宮殿五階のテラスからは、マイラムの市街が遠方まで見渡せることができそうだった。マイラムの宮殿はガンディオンの獅子王宮に高さでは勝り、広さでは負けている。その高度が遺憾なく発揮されているのが、このテラスからの風景に違いない。かつてログナーの首都として権勢を誇った街並みは、ガンディアの国旗や紋章によって彩られ、ガンディアの都市のひとつであることを盛大に主張している。が、都市そのものは先の戦争でもなんら損害を出しておらず、市民の多くも、以前と変わらぬ生活を続けているのだという。
マイラムが戦場にならなくてほっとしているのは市民だけではない。セツナだってそうだ。こんな街の中でカオスブリンガーを振り回すなど、考えるだけでぞっとしない。
いい都市だと思う。立ち並ぶ建築物の様式はガンディアと然程変わらないし、住み慣れたガンディオンとも遜色のない街に見える、ガンディオンはガンディオンで面白い都市ではあったが。
ファリアがセツナをここに連れだしたのは、曇天の下に広がる街並みを見て欲しかったからではあるまい。
それは、テラスに出て、街を見下ろした時にわかった。
マイラムの市街地の大きな通りを行進する軍勢があった。それもひとつだけではない。テラスから見て前方以外にも、左側や右側からも戦争用の装備をした軍勢が行軍してきていた。鉛色の空の下、陽光はほとんどない。しかし、行軍中の兵士たちが身につけた甲冑は僅かな光を反射して、鈍く輝いている。
沿道の人々は、戦争の予感に身を震わせたり、声援を送ったりしているようだ。
「あれは……」
「ログナーの軍勢よ。各地から集まってきているのよ」
「ガンディアからもこっちに向かってきているんだよな」
レオンガンドが全軍の集結を命じたことで、ガンディア全土に散らばった兵力がこのマイラムに集うことになった。しかしながら、ここを拠点としてザルワーンと戦争するわけではない。戦うのは、敵地で無くてはならない。それがレオンガンドから告げられた鉄則であり、セツナたちもそれを念頭に置いて行動することになっている。
国内を戦場にすれば、思わぬ被害が思わぬ影響を与えるかもしれない。兵站に関しては上手く行くかもしれないが、国外に撃退しただけの勝利は、真の勝利ではない。結局、敵の国土に踏み込まなくてはならなくなる。ならば、最初から敵地に攻めこむのが良い――ということらしい。
セツナにも、なんとなくはわかった。
「ガンディア方面軍四千五百、ログナー方面軍四千、《蒼き風》百五十、《白き盾》百――これがガンディアが現在自由に使える兵力だそうよ」
「防衛戦力を除いてもそれだけ使えるんですねえ」
ルウファが、うんうんとうなずく。以前のガンディアの倍する兵力と見ていい。先の戦闘で失った兵力のいくらかは回復できたのだ。もちろん、死者が蘇生したわけではない。兵員を補充しただけのことだ。
セツナの甘さが奪った命は、二度と戻ってこない。
「ルシオンとミオンからの援軍がどれほどのものか。レマニフラの約五百人がどれくらいの戦力になるのか、そこら辺が気になるところね」
ルシオンからはハルベルク王子とリノンクレア王子妃が援軍を率いてくるという話だった。レオンガンドが喜んでいたのは、気心の知れたふたりになら安心して任せることができるからだろう。ミオンは、バルサー要塞奪還戦でも参戦したギルバート=ハーディ将軍を派遣してくれるらしく、彼の率いてくる戦力は相当なものだという話だった。期待してもいいのかもしれないが、かといって同盟国に頼ってばかりの現状には歯がゆさを感じずにはいられない。
レマニフラの戦力だってそうだ。ナージュ王女が幸福に包まれているのは構わないのだが、彼女が連れてきた五百あまりの人数すらも当てにしなければならない。
(もっと俺が強かったら)
そう思う。
それは思い上がりなのか、どうか。
セツナがこれまでしてきたことを冷静に振り返ってみても、思い上がりとは考えられない。が、愚考だということもわかっている。たったひとりで戦局を勝利に導けたのは、幸運に恵まれていたからだ、ということをセツナは理解しつつあった。
バルサー平原での戦いも、事前にカランの大火を吸い尽くしていたから出来た芸当だ。ログナー戦争を終わらせたのは、アスタルの決断にほかならない。どちらも、セツナと黒き矛の力だけではないのだ。
そういうことが、見えてきた。
「ガンディア軍の総兵力は九千くらいってことか」
「ちなみにザルワーンの総兵力は一万八千だといわれているわよ」
ファリアがあっさりと告げてきた衝撃の事実に、セツナは唖然とした。レオンガンドは、倍する敵と戦おうというのだろうか。
「え……」
「とはいっても、それは防衛戦力を含めた数よ。実際に動かせる数ではないわ」
「なんだ……びっくりした」
「それでもこちらより遥かに多いわ。武装召喚師の数もね」
セツナは、ファリアの言葉に拳を握った。敵武装召喚師の相手こそ《獅子の尾》の役目となるだろうことは、早くからわかっていた。召喚武装という強大な力を秘めた兵器と戦うには、召喚武装をぶつけるしかない。もちろん、武装召喚師は無敵ではないし、物量で押し潰せるに違いないが、武装召喚師ひとり殺すために何百人もの兵士を失うのは得策ではない。それならば、武装召喚師同士で相殺させるほうがいいだろう。
「そんな中、バルゼルグ将軍の離反がザルワーンの動きを鈍らせているのは運がいい」
(バルゼルグ……将軍か)
セツナは、ルウファが口にした名前の人物を思い出した。
あれはログナー潜入時のことだ。ルウファの兄ラクサスの大胆不敵ともいえる策によって、アーレス軍に占拠されていたレコンダールに入り込み、グレイ=バルゼルグと対面した。武人という言葉を体現するかのような巨漢の威厳に満ちた姿は、思い出すだけでも震えが来るほどだった。彼はザルワーンに所属していたのだが、ログナーとガンディアの戦いが終わったころ、ザルワーンに反旗を翻したという。
「三千人の離反……痛いわよねえ」
「三千人っていうけど、ガンディア方面軍が四千五百だろ? すごすぎないか?」
「一小国に匹敵するだけの戦力を有しながら、彼はザルワーンに敵対するだけの道を選んだ。ほかにいくらでも生きていける道があったのにな」
頭上から聞こえた声に、セツナは目が飛び出そうになるくらいに驚いた。
「陛下!?」
レオンガンド・レイ=ガンディアは、セツナの背後に立っていた。気配を消して近づいてきた、というわけでもあるまい。セツナたちが会話に夢中になりすぎていて、注意が散漫になっていたのだろう。
「王立親衛隊の制服は目立つ。ほかの連中が噂していたんだよ、親衛隊が高みの見物してるってね」
「高みの見物……って、なんだか失礼な物言いですね」
ファリアが憮然としたのは、彼女にはそんなつもりがなかったからに違いない。ファリアは、地位を笠に着るような人物ではないのは、セツナも理解している。
「こんなところからログナーの軍勢が入城してくるのを見ていたんだ。そう思われても致し方あるまい?」
「それもそうですけど」
「それに、君たちの立場なら、高みの見物で問題ない。ふんぞり返ってくれても構わんよ。わたしの親衛隊なのだからね」
それは、レオンガンドの自負でもあったのだろうが。
ファリアが、穏やかに抗議した。
「それでは陛下の権威が傷つきます」
「その程度で傷つくような権威など、元より傷だらけに違いないさ。わたしの目指すものは、そんな程度のものではないよ。が、ザルワーンを下さねば、権威がどうだという前に国が滅ぶ」
負ければガンディアという国は地上から消えるだろう。ログナーという国が消えたのは、記憶に新しい。セツナもよく覚えている。ひとつの国が歴史に埋没していくさまというのは、儚く、恐ろしいものだ。ログナーはガンディアの一部となった。一地方となった。名は残る。歴史にも刻まれる。しかし、国は滅んだのだ。ログナーのひとびとは、そういった喪失感を抱いて生きているのか。
ガンディアが滅びたとき、セツナはその喪失感に耐えられるのだろうか。不穏な想像に、セツナは頭を振った。告げる。
「そんなこと、させませんよ」
「期待している。君が頼りだ」
レオンガンドが、セツナの目を見て、いった。青い眼。美しく透き通った瞳は、彼がただ者ではないことを示すかのようにきらめき、セツナを魅了する。そして王の声は、鼓膜を震わせるだけでなく、頭の中で反響し、魂までも揺らすようだった。きっと、レオンガンドという男に魅せられているのだ。そしてそれは決して悪いものではない。心地よい高揚感がそれを肯定する。
「セツナ、これは守りの戦いではない。攻めの戦だ。守りには盾が肝要だが、攻めに重要なのは矛だ。つまり君なんだ。それは、これまでと同じなんだ。いつだって君を必要としてきた。君がいたから、わたしはここにいることができる」
レオンガンドの語気は強い。まるでセツナの心に叩きつけるように烈しく、そして、眩しい。
セツナは、全身全霊でレオンガンドの声に耳を傾けていた。震えているのは心であり、魂だ。感極まるとはこのことだろう。視界が不自然に揺れて、目頭が熱くなる。
レオンガンドの言葉は、終わらない。
「君がこの国をここまで押し上げた。君のおかげで、ガンディアはザルワーンと戦えるのだ。君がいなければ、ここを制圧するのにさえ何年かかっていたのかわからない。君だ。君が先陣を切ってくれるから、わたしたちは戦えるのだ」
セツナは、あふれる涙を止めようとも思わなかった。なにも恥ずべきことはない。心が震わされ、感情が堰を切ってあふれているだけだ。
そして、レオンガンドのまなざしは、真剣そのものだ。涙を拭うために一瞬でも視界を塞ぎたくはなかった。
「わたしは、君が開けた風穴を進んでいこう」
それは、セツナたちが先陣を任せられるということにほかならない。