第千三百二十五話 急報
結婚に関することで頭の中がぐるぐると回転している。
エインもいっていたが、もちろん、いますぐ結婚しろ、ということではない。ただ、考えておかなければならないことであるのは確かだ。
セツナは、ガンディアにおける有力者なのだ。妻を娶り、子を成すのは義務といっていい。たとえセツナ自身が結婚なんてしたくないといったところで、周囲がそれを許さないだろう。国王みずから命令してくる可能性もある。そして、その場合、セツナは思いもよらぬ相手と結婚することになるかもしれない。政略、政治にセツナの結婚が利用されないとも、限らないのだ。
エインによれば、アバードとの関係をより良くするため、当時王女だったシーラをセツナの結婚相手として娶るという話も、なくはなかったらしい。しかし、セツナの立場を考えれば、アバード一国では釣り合いが取れないということで、水面下で動くよりも前の段階で立ち消えたということだ。もしアバードの国土がもっと広く、(ガンディアの考え的に)セツナと釣り合いの取れる国であったならば、セツナはシーラと結婚していたかもしれないのだ。
シーラは、良い女性だ。
美人だし、性格もさっぱりしていて、明るく、なにより他人想いだ。自分よりも他人を優先するところがあり、そういうところには好感が持てた。そして、シーラ自身、セツナへの好意を隠そうともしていない。言動の端々に愛情を感じる。嬉しいことだ。ありがたいことだ。だからセツナも愛情を込めて接するのだが。
(結婚……ねえ)
シーラと結婚していた場合、セツナの周囲は、どのように変化していたのだろうか。
結婚したからといって、大きく変わるものだろうか。
変わることもあるだろうし、変わらないこともあるだろう。
変わらないことの代表は、いまのセツナの立場であり、役割だ。結婚していようといまいと、最前線に出て、強敵を相手にすることに変わりはあるまい。ガンディアの領伯として、黒き矛のセツナとして戦い続けることだろう。
周囲の人間関係は、多少なりとも変化するかもしれないが、それも大きなものだったかどうか。
レムやラグナは変わらず下僕壱号弐号として振る舞ってくれただろうし、ミリュウもセツナへの依存を止めようとはしないだろう。ウルクも、セツナの護衛としてあり続けたかもしれず、ルウファやほかの仲間との関係も大きく変わるようなことはあるまい。
ただ一人、彼女との距離感は、変わったかもしれないが。
「ひとりでなにしてるのかしら?」
不意に呼びかけられて、セツナははっとした。脳裏の思い描いた女性の声だったからだ。ついに声まで想像して、脳内に響かせてしまったのかと思うほどの瞬間だった。
「ちょっと、夜風に当たりたくてさ」
セツナは、振り返り、声をかけてきた相手を視界に収めようとした。
三月二十九日、夜。
頭上には満天の星空が広がっていて、数多の星々と月の光が雨のように降り注いでいた。穏やかな闇の海にたゆたう星々は、さながらマルディアに散らばる宝石群のようでもある。この宝石に彩られた国は、どこを見ても宝石ばかりであり、サントレア北側のどことなく武骨な風景を見るとほっとしたものだった。サントレアは北と南でその風景を著しく変化させる。マルディアそのものたる南側と、騎士団領に侵食された北側。セツナが見て落ち着くのは北側だが、マルディア軍施設があるのは南側であり、軍施設もマルディアそのものといっていいくらい宝飾品に埋め尽くされていた。
そんな宝飾品に埋め尽くされた基地の一角、セツナ軍に充てがわれた建物の屋上にセツナはいた。彼女にもいったように、夜風に当たりたくなったのだ。それもひとりで、だ。ラグナとレムにはセツナの部屋で待機しておくように命じ、ウルクには、ミドガルドの元で躯体を検査してもらうようにいった。それによってようやくセツナはひとりになることができたのだ。
考え事をするには、ひとりがいい。
レム、ラグナ、ウルクがいると賑やかで楽しいのは間違いないのだが、考え事をするには不向きだった。そこにミリュウ、シーラが関わってくると、さらにややこしくなる。幸いにも今夜のミリュウはおとなしく、シーラも静かだった。どういう風の吹き回しなのか、セツナにはわからない。が、そのおかげでひとり夜風に当たることができているのだから、喜ぶべきなのだろう。
「夜風に……ねえ」
彼女は、少し不思議そうに微笑んできた。月明かりが彼女の姿を夜の闇の中に浮かび上がらせている。青みがかった髪と緑色の瞳が特徴的な女性。身の丈はセツナよりも上だったか。《獅子の尾》の隊服を着込んでいるが、隊服の上からもわかる胸の豊かさは、ミリュウやシーラにも負けていない。
ファリア・ゼノン・ベルファリア=アスラリア。
「なにかあったの?」
「まあ、俺にだって色々あるんだよ」
「そりゃあそうでしょうけど」
ファリアがくすりと笑いながら、近づいてくる。セツナは、彼女が静かに距離を詰めてくるのを認めると、視線を元の方向に戻した。軍施設内ではなく、サントレアの町並みを見ていた。宝石に彩られたサントレア南部の町並み。夜ではあるが、真夜中ではないためか、人気がないわけではなさそうだった。街路に立ち並ぶ魔晶灯が光を発し、その冷ややかな光によって照らされた道を歩くひとびと。サントレアのひとびとにしてみれば、反乱軍から解放された以上、夜に出歩いてもなんの心配もいらないだろう、ということなのかもしれない。
救援軍は、まだ戦いが終わったとは思っていないが、救援軍の都合など、一般市民が理解しているわけもない。
「わたしにだって色々あるし、ミリュウにだって色々あるものね」
ファリアは、セツナの隣に辿り着くなり、そういってきた。ファリアの色々について知りたかったが、それよりもまず、ミリュウのことが気になった。ミリュウはここのところ、夜になると元気がなくなっているようなのだ。だからセツナは夜に部屋を抜けだすということができたのだが。
「そういえば、ミリュウはどうしたんだ?」
「夢の中よ。疲れが残ってるみたいでね、すぐに寝ちゃったわ」
「そうか」
返事をして、はたと気づく。
「疲れってあれか。ヘイル砦の?」
「そうみたいね」
「ってことは、相当無理してたんだな。サントレアの戦い」
ヘイル砦攻略の際の消耗がいまになっても響いているということは、サントレア攻防でも体力も精神力も回復しきっていない状態だったということにほかならない。多少なりとも回復していただろうが、十三騎士との激しい戦闘がさらに消耗させ、疲労させたのだろう。だが、セツナと合流してからの彼女は、そういった事情を窺わせないくらいに元気であり、だからセツナもサントレア攻防における彼女の投入に反対ひとつしなかったのだ。
「そりゃあそうよ。だって、セツナがいるんだもの。あの子が無理しないわけないでしょ」
ファリアが当然のようにいってくる。
「そっか……そうだよな」
セツナは、ファリアの言葉を肯定するほかなかった。思い当たることはいくらでもある。ミリュウは、セツナのためならばどのような無茶も無理もしかねないところがある。それくらいセツナに依存しているということであり、それくらい、逆流現象影響は大きいということだ。
「うん。かなり無茶なことをしていたみたいね」
「……そんなに凄かったのか? ヘイル砦」
「凄いなんてものじゃないわよ。黒き矛顔負けの破壊っぷりだったわ。恐ろしいくらいにね。ミリュウが消耗し尽くしているのもわかるもの」
「そんなにか……」
「だから、ミリュウが君に甘えるの、黙認してあげてるのよ」
彼女は冗談めかしくいって、笑った。
「もっと甘えても許されるくらいのことをしたもの、ミリュウ」
「そうだな。うん」
うなずいて、考えを新たにする。
ミリュウはもう少し甘やかしてもいいのかもしれない。どういう風に甘やかせればいいのかはわからないが、甘えてくる彼女を邪険にするべきではないことは確かだ。ファリアが褒めちぎるほどなのだ。ミリュウ本人はそのことについて触れたがらないが、ファリアがいうのだから、彼女の活躍は凄まじかったということだろう。
もちろん、ファリアだけがミリュウを賞賛しているわけではない。ヘイル砦攻略に参加した面々の多くが、ヘイル砦の破壊の光景は終生忘れることはないだろうというほどだった。
なにがミリュウをそこまで駆り立てたのかといえば、それもまた、セツナだった、という。
セツナに早く逢いたい一心で、彼女は戦いを手早く終わらせるべく動いたのだ。その結果、あっという間に決着がつき、救援軍の大勝利に終わったのはいまさら振り返ることでもない。
そんなことを考えていると、ファリアが想わぬことをいってきた。
「でも、それは君にもいえることよ、セツナ」
「俺にも?」
「君も、散々――それこそミリュウとは比較にならないくらいのことを成し遂げてきたわ。だから、だれかに甘えても、いいのよ。君は、そういうこと、恥ずかしがって全然しないけれど」
ファリアの微笑みに魅入られそうになりながら、頭を振る。
「恥ずかしいとか、そういうことじゃなくてさ」
「ん?」
「わからないんだ」
「わからない?」
「甘えるってこと」
セツナが本心を告げると、ファリアは沈黙した。驚いたのかもしれない。
「俺さ、物心ついたときには父さんと死に別れててさ、母ひとり子ひとりだったんだ。だから、甘えられなかった。甘えるわけにはいかなかった。母さんが頑張ってるのに、甘えてなんていられるわけがないだろう?」
幼少の記憶。
父のことなど、ほとんど覚えていない。あるのは母親の姿ばかりだった。自分を育てるために全霊を注ぐ母の背中を見ていると、母に迷惑をかけてはならないと思うようになった。どんなことがあっても、たとえだれかに傷つけられたとしても、母にはいわなかった。すべて心の内に封じ込めて、仕舞い込まなければならない。そうしなければ、母に負担をかけてしまう。甘えてはならない。
不意に、抱き竦められて、セツナは驚きのあまり一瞬、呼吸を忘れた。正面から、抱きしめられている。そのことに気がつくと、さらに愕然とした。なにが起こっているのか、どうしてこのような状況になったのか、まるでわからない。
「大変だったね」
ファリアの声が、手が、心が、ことごとく、優しい。
「……そうでも、ないよ」
セツナはそう返すので精一杯だった。突如として目頭が熱くなっている。降って湧いたような感情の激流。止まらない。止めようがない。悲しくもないのに、涙がこぼれてしまう。拭おうにも、手が動かせない。ファリアの腕の中、身動きが取れないのだ。
「ふふ、本当、強がりなんだから……」
ファリアはそういうと、手をセツナの後頭部に回してきた。ふと彼女の視線に気づき、見ると、ファリアの顔が間近にあった。鼻息がかかるほどの至近距離。深い睫毛に縁取られた美しい緑色の瞳が、わずかながら潤んでいるように見えたのは、セツナの目が涙で濡れているからなのかどうか。細めの眉、鼻筋も通り、形のいい唇には当然、口紅などついてはいない。化粧さえしていないが、肌は瑞々しく、傷も見当たらない。見れば見るほどひとつの感情が湧き上がってくる。ここまで彼女のことを想っているということを認識したのは、初めてのことかもしれなかった。
と、不意に、彼女がセツナから離れた。
セツナがえっと思ったとき、屋上への階段を駆け上がってくる靴音が耳に届き、ファリアが素早く距離を取った理由を察した。セツナが靴音に気づくのが遅れたのは、きっと、彼女に魅入られていたからに違いなく、彼は、階下から現れた人物を見つめながら、内心、苦笑するほかなかった。階下から現れたのは、ガンディア軍の兵士だった。軍服からガンディア方面軍であることが窺える。彼は、セツナを見つけるなり、満面の笑顔で敬礼してきた。
「こちらにおられましたか! セツナ様!」
「あ、ああ。俺を探していたのか?」
「はい! 陛下から緊急のお呼び出しです!」
「緊急の?」
「セツナ様にはすぐにでも司令室までご足労願いたいとのことです!」
兵士の反応から、それ以上詳しくは聞かされていないことがわかる。レオンガンドのことだ。情報の漏洩に細心の注意を払っているのだろう。
「ああ、わかった。すぐにいく」
「では、確かにお伝えいたしましたので」
「ご苦労」
「はっ」
兵士は敬礼とともにまた階段を駆け下りていった。レオンガンドの元に報告に向かうのだろう。
セツナが、兵士がいなくなった虚空を見つめていると、ファリアが予期せぬことをいってきた。
「いいところだったのにね」
「え?」
振り向く。
彼女は、微妙な笑みを浮かべていた。
「ううん、こっちの話」
「あ、ああ……」
それで、話は終わった。
ファリアに見送られながら、セツナは屋上をあとにした。
そのまま建物から抜けだし、司令室のある建物に向かう。広い敷地内。迷うことがないのは、滞在中、何度となく足を運んだからだ。これまでも、レオンガンドに何度か呼びだされている。移動中、グリフに話しかけられた。グリフは不眠の呪いを患っている。目を閉じてはいるが、常に起きているのだ。彼は、セツナとファリアが抱き合っているのを横目に見ていたらしく、そのことを茶化してきたので、セツナは黙殺したのだった。まさか巨人に茶化されるとは思っても見なかったし、グリフにそのような面があるとは考えたこともなかった。グリフが冗談を飛ばしているところなど見たこともないからだ。
ともかく、巨人の横を素通りして、軍施設の本部と呼ばれる建物に辿り着く。警備の兵士たちと敬礼を交わし、中に入ると、まっすぐ司令室に向かった。
司令室は王立親衛隊《獅子の牙》の隊士たちによって警護されていたが、セツナが辿り着くと、敬礼して扉を開いてくれた。レオンガンドから事前に連絡されていたのだろう。
司令室内に入ると、レオンガンドが待っていた。レオンガンドのほかにはアーリアしかおらず、側近や軍幹部はおろか、参謀局の面々さえいなかった。
「セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルド、ご用命に応じ、馳せ参じました」
「ご苦労。待っていたよ、セツナ」
レオンガンドは、いかにも臨戦態勢という格好で、セツナを迎え入れた。夜中だというにも関わらず、軍服を着込んでいるのだ。これから戦いにいくか、戦いの最中であるかのような様子だが、軍施設にいるのだから当然といえば当然かもしれない。アーリアは相変わらずの黒装束だった。セツナが彼女を見ると、彼女は見られているのが気に喰わないのか、机の影に隠れてしまった。アーリアには他人には認識できないという異能を持つのだが、なぜか、セツナには効かなかった。どういう理由なのかはわからないが、そのことでセツナはアーリアに嫌われているのは間違いなかった。
「ついいましがた、急報が届いてね。君にまっさきに知らせようと思ったんだよ」
レオンガンドはそういうと、セツナを司令室の奥の卓に案内した。セツナは彼に導かれるまま司令室内を歩く。
「急報? それにどうしてわたしだけに?」
「君がガンディアの英雄だからだよ」
「はあ」
レオンガンドの返答は、いまいち要領を得ない。
「まあともかく、聞いてくれたまえ」
「はい」
「ついに彼が馬脚を現したのだ」
レオンガンドは、卓の上に広げた書簡を手に取るなり、冷ややかな声で告げてきた。
「ジゼルコートだよ」
「は?」
セツナは、彼がなにをいいたいのかわからず生返事を浮かべるしかなかった。
「ジゼルコートが反乱を起こしたのだ」
獅子王の隻眼が、鈍く光を放っていた。