第百三十話 ナーレス
外が、騒がしい。
ナーレス=ラグナホルンは、通路を走り回る兵士たちの足音や飛び交う怒号に眉を潜めた。彼が投獄されてまだ一日ほどしか経過していない。
彼は、龍府の地下牢に幽閉されていた。通気性の悪い空間ではあったが、牢屋そのものは広く、快適とさえいえた。冷たい石の床には木の板が敷き詰められていたし、寝台さえ用意されている。用を足すときには看守にいえば外に連れて行ってもらえたし、日に二回の食事は貧弱なものではない。至れりつくせりとはこのことで、あとは暇潰しの書物さえあれば文句もなかった。
ミレルバスは、余程自分を殺したくないのだろう。ナーレス=ラグナホルンという才能を愛しているのだ。それは、いままで何度も実感してきたことでもある。腕を振るうたび、彼の慈愛に満ちた目を見た。才能を発揮したものには、相応の態度と恩賞で望むのがミレルバスだったのだ。
ミレルバスはひとの上に立つ器としては、レオンガンド以上のものがあるかもしれない。そう思うこともあった。
そもそも、ナーレス自身、レオンガンドに惹かれて戦っているわけではなかった。自分という人間を見出してくれたシウスクラウドへの恩義を果たすためだけに生きている。レオンガンドが病床で何度も語ってきた言葉をいまも忘れない。
『ナーレス……君だけが頼りだ。君がレオンガンドを支え、盛り立ててやって欲しい』
ナーレスの身には過分な言葉だった。同時に、命を懸けるに値する言葉だ。その一言で、ナーレスの運命は決まった。シウスクラウドとの約束を守るために、そのためだけに命を使い果たそう。そのためにレオンガンドの力となり、彼の国を盛り立てていこう。
そうやって、ここまできた。
露見すると思わなかったわけではない。いままで、何度も危ない橋を渡ってきたのだ。そうしなければ、この大国を内部から破壊することなどできなかった。が、危険を顧みずにやり抜いた結果がこれだ。笑うに笑えない。
埋伏の毒は露見した。浄化は速やかに行われるだろう。彼が成したことの多くが水泡に帰す。しかし、すべてがなかったことになるわけではない。毒を利用したミレルバスの反対勢力の一掃は、ザルワーンの意思統一においては上手く働くだろうが、戦力の低下は免れない。骨抜きになったログナーは内紛の末ガンディアの手に落ちた。そして、ザルワーンの最高戦力は敵対の意思を明確にしている。
状況は、必ずしもガンディアにとって悪くはないのだ。
「旦那様」
呼び声に視線を向けると、鉄格子の向こう側に少女が立っていた。ミレルバスの妻から多くのものを受け継いだのであろう可憐な少女は、ナーレスの無事を確認できてほっとしているようだ。いつにも増して質素な格好だったが、だからこそ可憐さが映えるのだろう。彼女自身もそれを理解した上で、衣服を選んでいるに違いない。
「メリルですか」
ナーレスは、彼女の姿を目撃した瞬間こそ驚いたものの、行動力そのものにはなんの疑問も抱かなかった。メリル=ラグナホルンは、そういう女性だ。ミレルバス=ライバーンの娘であり、いうなればザルワーンの姫君なのだが、この国の体制上、彼女は王女ではなかった。もっとも、五竜氏族ライバーン家の一員であることに違いはないし、彼女の地位が王女に準じたものであることは疑いない。しかし、姫君というよりも偶像のように親しまれており、彼女を敬愛するものは、ミレルバス信奉者にも多い。
ナーレスが鉄格子に近寄ると、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「とんでもないことをなされたようですね」
「ええ。あなたには隠していましたが、わたしはこの国にとっては敵だったんですよ」
臆面もなく告げると。メリルはむしろその程度のことか、とでも言いたげな表情を浮かべた。
「そうでしょうね。旦那様がわたくしにこの国を語るときの目は、獲物を見る狩人のそれと同じでございました」
メリルの思いもよらぬ切り返しに、ナーレスは今度こそ驚いた。しかし、表情には出さず、うなる。
「まさかあなたに見抜かれていたとは……。露見するのも当然でしたか」
メリルはナーレスの感想が気に食わなかったのだろう。目を細めて、告げてくる。
「……わたくしは三年間、ずっと旦那様の隣にいたのです。その程度の感情も理解できず、なにが夫婦なのですか?」
「それもそうですね。あなたはわたしを売らなかった」
「当たり前です。三年前のあの日、わたくしはナーレス=ラグナホルンの妻として生きると誓ったのですから」
「父を、国を、裏切ってもですか?」
「ライバーンの名を背負っていたのなら、また話は違ったのかもしれません」
メリルの表情に少しばかり影が差したように見えたのは、牢内が暗いせいだけではあるまい。彼女には彼女なりの苦悩があり、葛藤があったのだ。そのすべてを察することなどできるはずもないが、少しくらいなら触れることも可能だろう。
「そうでしたね……あなたはわたしの元に嫁いできた」
「旦那様を好きになれなければ、刺し違えてでも殺すつもりでしたのに」
そういうと、メリルは屈託なく笑った。彼女は本気でいっているのかどうか。しかし、結婚が決まったあと、彼女に笑顔で刺されて死ぬのも、それはそれで悪くはなかったかもしれない。シススクラウドとの約束は果たせなくなるが、人生とは往々にしてそのようなものだ。
「あなたの言動には驚かされる」
「ふふ、それはお互い様です」
「それもそうでしたね」
ナーレスは、自分のしでかしたことを思い出して、大いに笑った。看守たちがこちらを一瞥したものの、メリルに対しては強く言うこともできないのだろう。そして彼女は、そういう自分の立場を理解した上で、堂々とここに入り込んできたのだ。ライバーン家の令嬢に過ぎなかったはずの少女は、ナーレスの元で随分としたたかになったらしい。それは父のミレルバスにとっては嘆くところかもしれず、夫のナーレスとしても喜ぶべきことではないのかもしれない。
しばらくして、ナーレスはメリルに尋ねた。
「外が騒がしかったようですが、なにかあったのですか?」
「そうでした。それを申し上げに来たのです」
彼女は笑顔を消すと、鉄格子に顔を近づけてきた。ナーレスも耳を寄せる。
「ヒース様が亡くなられたそうです」
「……そうですか」
ナーレスに衝撃はなかった。驚くべきことではない。ナーレスの策が露見したときから予期していたことだ。遅かれ早かれ彼は死ぬだろう。それも、拷問によってではなく、彼の半身の判断によって命を落とす。いや、命を使うだろう。使命を果たすために。
果たして、彼らは死んだ。これで、ヒースの口から情報が漏れることはなくなった。ミレルバスが気が変わらない限りは、ナーレスを拷問にかけるような真似はしないだろう。尋問はあるかもしれないが、それくらいは切り抜けられる自信がある。例え、メリルが人質に取られたとしても、ナーレスが口を割ることはない。その結果、メリルが命を落としたとしても、ナーレスは表情ひとつ変えないだろう。
それが、彼の役目だ。
大事を成すために命を使う。躊躇などしていられない。感傷も不要だ。心の痛みでなにかを成すことなどできない。
前に進むためには、必要なだけの犠牲を払わなければならない。
それがこの世の不文律だ。
「旦那様……?」
ナーレスの反応の無さが気になったのだろう――メリルは、小首を傾げた。その可憐さに、ナーレスは抱きしめたい衝動に駆られたが、あいにくここは牢の中で、彼女は牢の外にいた。
感情とは困ったものだ、とナーレスは嘆息する。メリルの命すら道具のように見ているくせに、人一倍の愛情を抱いている。その感情は、彼の中では矛盾していないのだが、他人には到底理解のできないものだろうとも思っていた。
人間とはそこそこ複雑で、それなりに単純な生き物だ。