第千三百二話 泥の海に泳ぐ
雨が上がると、上天を覆っていた雷雲が瞬く間に押し流され、ヘイル山上空のみに広がっていた晴れ間が、世界中に広がるかのように拡大していった。
抜けるような青空が戦場の頭上を包み込んでいく。豪雨によって泥沼と化したのは、平原だけではない。ヘイル砦が築かれていたヘイル山も全体的に水浸しであり、どこもかしこも泥だらけという状態だった。
戦いは、終わった。
それも、救援軍の圧倒的な勝利によって幕を下ろした。
もちろん、無傷ではない。
ガンディア軍もメレド軍もルシオン白聖騎士隊も、マルディア政府軍もそれぞれに犠牲を払った上で、圧勝という形に収めることができたのだ。
敵は、反乱軍というよりは騎士団だった。
騎士団は、強敵だ。兵士ひとりとっても、とても同じ人間とは思えない力量を持っている。だが、多勢に無勢。数の力は偉大であり、前線の戦場は、終始、救援軍が押していたという。兵力差が勝敗に直結したということであり、兵の質を数少ない武装召喚師たちが埋め合わせたともいえる。ガンディア、メレド、マルディア、そしてルシオンにもそれぞれ武装召喚師か召喚武装使いがいる。それらが上手く機能したということだ。
そして、勝敗を決定づけたのは、ヘイル砦全域に破壊をもたらしたあの光だ。
ヘイル砦を廃墟同然にした光は、前線においても大きな影響を及ぼした。騎士団を混乱させ、救援軍を勢いづけたというのだ。アルガザードは、その機を見逃さなかった。騎士団を蹴散らしてヘイル砦に到達し、反乱軍幹部ジード=アームザイストを討ち取った。
これにより勝敗は完全に決した。
反乱軍の残兵のうち五百人近くが投降し、数百人が姿を消した。騎士団ともどもサントレアに逃れたものと想われている。
騎士団の撤退における手際の良さはあざやかというほかなかった。騎士団は、救援軍がヘイル砦に至るとすぐさま部隊を纏め上げ、ヘイル平原の戦場から引き上げたのだ。
サントレアへ。
もちろん、二名の十三騎士もだ。むしろ、十三騎士が撤退を命じたに違いない。騎士団の部隊は、十三騎士によって率いられるのが常らしいのだ。指揮官の命令もなく撤退するわけもない。
つまり、十三騎士はヘイル砦の陥落が防げないものと判断したのだろうし、これ以上の戦闘は無意味だと断定したのだろう。正しい判断というほかない。
救援軍は、壊滅状態のヘイル砦を制圧したことで、ヘイル砦の奪還を完了させた。
「奪還……といっていいものかどうかわかりませんが」
アルガザードが苦笑交じりにいってきたのは、レオンガンドがヘイル山内殻部に足を踏み入れてからの事だった。ヘイル砦は、砦として機能する外殻部と、避難場所として機能する内殻部に分かれており、砦住人は内殻部に避難していた。住人の多くは救援軍の到来を喜んだが、中には反乱軍の敗北を嘆くものもいたようだ。反乱軍の正義を信じるものも、いないわけではないということだろう。
内殻部は、光の柱によって破壊されることはなかったようだ。
光の柱は、ヘイル山の表層部を掃除したといってもいい。
「いや、よい。我々の目的は、反乱軍の魔の手からマルディアを救援することにある。その過程で都市や砦が損壊しようと、仕方のないことだ。反乱軍に制圧されるよりはましだと諦めてもらうほかなかろう。そうでしょう? 天騎士殿」
「ええ。マルディアの正義のためです。陛下も納得されるでしょう。それに、ヘイル砦の住人には被害は及んでいませんから」
スノウ・ザン=エメラリアは、そういって、ささやかに微笑んだ。
ヘイル砦はマルディアの軍事拠点だが、もちろん、軍人だけが生活しているわけもない。将兵の家族も住んでいれば、その家族たちのために商売するものもいる。家族以外に普通に生活しているものも少なくないし、砦とはいいながら、ひとつの都市として機能しているということだ。それは、ガンディアのバルサー要塞も同じだ。要塞でありながら、住人がいて、普通の生活を営んでいる。
それは、戦争が恒常化した小国家群ではよく見られる光景だった。
レオンガンドとしても、光の柱による破壊でもっとも恐れたのは、住人への被害だった。反乱軍兵士や騎士団兵はともかく、一般市民を巻き添えにしてしまうことなど、あってはならない。それは、救援軍の正義に泥を塗る行為だ。だから、一般市民に被害が及んでいないという報告を聞いたとき、レオンガンドはほっと胸を撫で下ろしたものだった。
反乱軍が一般市民を戦いに巻き込まないよう配慮してくれたことに感謝したい気分だった。
反乱軍としても、大義を掲げる以上、一般市民を巻き込むわけにはいかないという想いがあったのだろうが。
「ともかく、ご苦労だった。つぎの戦いまでは時間もあるだろう。皆にゆっくりと休むよう伝えてくれ」
レオンガンドはそう伝えると、彼のために用意された椅子に腰を下ろした。
戦いは終わったばかりで、情報が錯綜している。救援軍の損害がどの程度のなのか。だれがどのような戦果を上げ、武功を立てたのか。情報が精確なものになるまでには少しの時間がかかるだろう。負傷者は多く、死者も少なくない。それらの対応にも追われることになるだろう。また、砦が壊滅状態ということもあり、野営地を設営もしなければならない。ヘイル山の内殻部には、救援軍本隊を収容し切るだけの空間はなかった。
(しばらくは休む間もない……か)
レオンガンドは、自分の下した命令がいかにも手前勝手に思えて、苦い顔をした。
雨が上がり、頭上には快晴の空が広がっている。
見渡す限りの青空は、ついさっきまで猛威を振るっていた雷雲を忘れさせるものだった。まばゆいばかりの青さ。太陽が強く輝いているからこその青空だ。どこか滲んだように見えるのは、雨上がりだからというわけではないが。
イルス・ヴァレの空は、いつも滲んだように見える。
見慣れた光景だ。セツナに指摘されるまで気にしたこともなかった。いわれてみれば確かに、どこか滲んだように見える。滲んだような青。指摘されれば、どこかすっきりしない。違和感が残る。それでも青空は青空だし、美しいと思えるのだからどうでもいいことかもしれない、とも思う。
雨が上がってくれたことには感謝していた。降りしきる雨の中を探し回るのはただひたすらに辛い。武装召喚術の行使によってただでさえ消耗しているというのに、さらに体力を奪われ続けなければならなくなっていたかもしれないのだ。生まれ変わったような青空に心の底から感謝しながら、重い足を引きずるようにして泥沼化した平原を進んでいく。
どこもかしこも泥だらけの平原を歩くのは、ファリアひとりではない。反乱軍幹部ジード=アームザイストの戦死とヘイル砦の制圧によって戦いは終わりを告げたものの、すべての兵士が収容されたわけではなかった。負傷し、戦場に取り残されたままの兵士たちを収容するべく、捜索隊が動き回っていた。
かくいうファリアも隊士を捜索している最中だった。もちろん、彼女が探しているのは、この勝利の立役者といっても過言ではない人物だ。彼女は敵の攻撃目標になることを恐れ、主戦場から遠くはなれたところに移動しており、ファリアは彼女を見つけ出すためだけに歩きまわる羽目になっていた。
とはいえ、それほど悪い気分ではないのは、ミリュウが想像以上のことをやってのけてくれたからであり、救援軍が最小限の損害で勝利することができたからだろう。早くミリュウを見つけて、活躍を褒め称えたいという気持ちが大きい。
「青ーい空。広ーい海。この世はどうしようもなく美しー……」
突如として聞こえてきた脳天気極まりない声にファリアは目をぱちくりさせた。それから視線を巡らせ、目を凝らす。平原のまっただ中で仰向けになって寝転がっている女がひとり、彼女の視界に飛び込んでくる。
「海?」
「そう、海よ、海。広くて大きくて深くて遠くて、なにもかも包み込む広大な青の世界」
「一体なんの話?」
ファリアは、泥の海に浸かったままわけのわからないことをいう女に困惑するしかなかった。なんの脈絡もない話だった。彼女の中では繋がりのある話なのかもしれないが、ファリアにはまったく理解できない。
ミリュウだ。半身を泥沼化した地面に浸からせたまま、ぼんやりと空を見上げている。先の戦いで消耗し尽くし、疲れ果てたのであろうことは想像できる。疲れ果て、泥の中に倒れこんだのだろうが、そのまま起き上がる気力が沸かなかったに違いない。髪も鎧も隊服も泥にまみれ、汚れてしまっているが、どこか美しい。なぜだろう。戦いが終わったあとの風景に溶け込んでいるからなのか、どうか。
「そういえば、ファリアって海を知らないのよね」
「海くらい知ってるわよ。塩辛いとかいう水溜まりよね?」
「水溜まりってあーた、湖なんかよりずっと広くて深いのよ」
「知ってるってば」
「知識だけよね?」
彼女は、こちらを一瞥するなり、面白そうに笑った。別段勝ち誇っているわけでもないのだが、ファリアはミリュウの言い分に引っかかりを覚えて、肩を竦めた。
「ミリュウ……あなたもでしょ」
海は、存在する。
イルス・ヴァレと呼ばれるこの世界においてたったひとつの大陸と名付けられたワーグラーン、その外周にはどこまでも続く大海原が広がっているという。
海がどのようなもので、どれほど広く、どれほど深いかといった話や、海水は塩辛いとかいう疑わしい知識は、大陸の果てから小国家群に伝わってきたものであり、それが本当のことなのかを調べようとすれば、大陸の果てまで長旅をしなければならず、なにも確かなことなどないとさえいってよかった。だから、海の水がしょっぱいというのも信じようがない。
「そうだけど……実感として知ってるのよね、あたし」
「実感……?」
「セツナの世界だと、海はとても身近なものなのよ。信じられないでしょうけど」
ミリュウは、セツナの世界といった。彼女がかつてセツナの記憶を覗き見、彼と同一化しかけたときに知ったのだろう。ミリュウは、セツナの記憶から、セツナの世界に関する知識を得ているのだ。しかし、それらの知識を披露することはほとんどない。それは、セツナの記憶を暴露するのと同じようなものだ。ミリュウにとってこの上なく大切な人であるセツナの大事な思い出を踏みにじるような行為をするわけもない。
だから、たまにこうしてセツナの世界の話をされると、ファリアは少しばかり戸惑った。もちろん、ファリア自身、セツナの世界について興味が無いわけではないし、セツナ自身から聞いたこともある。セツナが生まれ育った世界について知ることは、セツナを知ることにも繋がるからだ。だから、知りたいと思わないではない。しかし、無理やりにでも聞き出そうとするのは、止めていた。セツナが話したくなったときに話せばいい。でなければ、セツナに嫌われてしまうかもしれない。そんな風に思う。
「そうね。信じられないわ。でも、あなたがそんなことで嘘をつくわけもないし」
「信じてくれるんだ?」
「いったでしょ。あなたを信じるって」
「うん」
ミリュウはうなずいて、柔らかな笑みを浮かべた。それから、大きく息を吐き出して、告げてくる。
「やったよ、あたし……」
「やったわね。驚いたわ。わたしも、みんなも。あれがあなたの新しい力なのね」
「そうだよ。あれがあたしの力。セツナのための」
ミリュウは、そんな風にいった。
(セツナのための力……か)
ミリュウは、徹頭徹尾、そうだった。
セツナのため。
それが彼女の原動力であり、活力であり、生命力の根源とさえいっていいのだから、なにもいうことはない。ただ、羨ましいと想うだけだ。彼を想う純粋さだけであれだけのことをやってのけられるのだ。羨ましいという他ない。ファリアには、真似のできないことだ。ファリアだけではない。ほかのだれにも、あのようなことはできない。
あんなことができるのは、ミリュウだけだろう。
神罰の如き光の柱。
まるで魔法のようだった。
(魔法……)
ミリュウの愛用する召喚武装ラヴァーソウルは、磁力を操り、引力や斥力を発生させる能力を持つ刀だ。それだけでも十分強いというのに、そこに魔法染みた力を駆使する能力が加わったというのであれば、向かうところ敵なしといっていいのではないか。
無論、無敵の力ではない。
準備に時間がかかる上、準備の間、無防備になるという欠点がある。だからファリアとルウファで時間稼ぎをしなければならなかったのだし、その間、ミリュウは動くことさえできなかったのだ。
「役に立てるかなあ」
「立てるわよ」
「喜んでくれるかな」
「きっとね」
「早く逢いたいなあ」
ミリュウが心の底からそう想っているということは、ファリアにも実感として伝わってきた。ファリア自身が想っていることだからだろう。同じ想いが共鳴しているのが、なんとはなしにわかる。セツナに逢いたい。少しでも早く、一瞬でも長く。彼の側にいたいと思うのは、彼のことが好きだからだ。ミリュウは彼への好意を隠さなかったし、ファリアも隠しているつもりはない。隠す必要がない。ミリュウのように大っぴらにしないだけのことだ。それでも周囲のひとびとに茶化されるくらいにはわかりやすいらしい。
「すぐに逢えるわ。だから、さっさと泥の海から上がってらっしゃい。洗い流して綺麗にしておかないと、嫌われちゃうわよ」
ファリアは、ミリュウの側に歩み寄ると、彼女の顔を覗き込んだ。青い目に映り込む空の色がとにかく美しい。空を直接仰ぎ見るよりも綺麗かもしれない。
「そうだね。もう少ししたら、浮上するよ」
ミリュウの反応が妙に気になった。彼女らしくない気がする。
「ミリュウ……どうしたの?」
「どうもしてないよ。ただ、静かなんだ」
彼女は、予期せぬことをいってきた。静か。確かに、戦いの終わったヘイル平原は、静寂に包まれている。味方を探す兵士たちの声も、遥か遠くに聞こえていて、ミリュウの周囲はきわめて静かだ。静かで、吹き抜ける風が心地いい。
「とても静かで、なんだかこのまま眠りたい気分……」
「泥に溺れないでよ」
「大丈夫。溺れるならセツナの腕の中にしてるから」
なにが大丈夫なのか――などと問い返す気力もなく、ファリアは、ミリュウの笑顔を見つめながら、小さくため息を浮かべた。
結局、ファリアとミリュウがヘイル砦跡地に辿り着いたのは、夕刻、ルウファが迎えに来てくれたからだった。