第百二十九話 ある死が呼ぶもの
死を覚悟するのは大したことではない。
もとより、生き延びたのは運が良かっただけだ。多くの仲間が絶望の中で死んでいった。苦しみ、もがき、呪詛をまき散らしながら、血反吐を吐いて死んでいく。そんな光景を飽きるほど見てきた。やがて、仲間の死にもなんの感情も湧かなくなった。つぎに死ぬのは自分かもしれない。そう考えると、なにもかもがどうでも良くなった。
外法機関。
ガンディアの先の王シウスクラウドが、未知の病から逃れようと伸ばした魔手が作り上げた、冥府魔道への入り口。非人道的な人体実験を繰り返すその組織に捕らわれたら最後、生きて陽の光を見ることなど叶わない。泣いても、叫んでも、絶望的な未来を覆すことなどできなかったのだ。
闇の中で慰めあっても、心は晴れなかった。むしろ閉ざされ、深淵へと沈んでいった。それでもなにもしないよりはましだったのかもしれない。なにもせず、座して死を待つよりは、余程。
光明が差して、彼らは地上に出た。陽の光を見て、生を実感した。だが、死ぬことへの恐怖が復活するようなこともなかった。生への執着など、消え去っていた。
静かに伸びをする。あくびが漏れた。これが人生最後のあくびかと考えると、感慨深いものがある。苦笑する。感慨もなにもあったものではないのだが。
機密書類はすべて処分した。ヒースとの交信記録の類だ。交信記録の内容そのものは、レオンガンドらの手によって丁重に保管されているか、不要となって処分されているのだが、彼の手元に残っているものもあった。残しておくべきものではない。彼の存在共々、歴史の闇に葬られるべきものだ。
レオンガンドとナーレスの策謀の数々が記録された書類なのだ。いかにしてザルワーンを疲弊させ、ガンディアにとって有利にさせるか。ログナーを骨抜きにさせるのは上手く行っているのか。ザルワーンの内乱の進捗状況は。レルガ兄弟の長距離交信能力を存分に利用した悪事の数々は、その中継点であったキースにとっても愉快極まりないものだった。
レオンガンドとナーレスが、たったふたりで大国を潰そうとしていた。もちろん、関わったのはふたりだけではないし、キースたちの存在がなければできなかったことだ。
(いや……)
ナーレスは、レルガ兄弟が存在しなくとも、ザルワーンに乗り込んだだろう。その場合、ガンディア側と連絡を取ることは不可能に近くなりはしたに違いないが、それでも、ある程度の成果は上げたはずだ。彼はそういう男だった。
レルガ兄弟が機能したことで、レオンガンド側とナーレス側の連携はそれなりに上手くいった。ガンディアはログナーを制圧し、ザルワーンへと接近した。
北進。
レルガ兄弟にとって憎むべき魔王シウスクラウドの念願が、叶いつつある。
「皮肉だね」
呪われた王が死の床に描いた夢を叶えるために、その呪縛の結晶たるレルガ兄弟が死ななければならない。ここでキースが生きようとすれば、ヒースは拷問にかけられるか、薬漬けにされるだろう。ザルワーンとしては、少しでもガンディアの内情を知っておきたいはずだ。そのためならなんだってするだろう、ザルワーンが持ちうる限りの外法を尽くしてでも、吐き出させようとするはずだ。
半身を苦しめたくない。
「うん、だいじょうぶ」
キースは、半身に向かって言葉を飛ばした。死は、恐ろしいことではない。
ただ無念なのは、レオンガンドに見た光の行き着く先がどんな世界なのかがわからないということだ。
そして、ウルに別れを告げることができないのも、キースには辛いことだった。彼はその時間をくれるといったのだが、その好意に甘んじるのは、キースの感情が許さなかった。ヒースにだって、別れを告げたい女性のひとりやふたりはいたはずなのだ。
自分だけが満たされるなど、生死を共有するものとしてはあるまじきことではないか。
「そうだね、ただの自己満足だよ」
キースは、外法機関印の自殺剤を口に放り込んだ。
「《白き盾》との契約は、無事締結された。これで対ザルワーンの戦力に大幅な増強が約束されたわけだ」
レオンガンド・レイ=ガンディアは、大任を終えた気分になっていた。マイラム宮殿内、レオンガンドが仮に使っている部屋だ。華美た装飾が施された室内は、享楽的かつ退廃的とさえ思えるのだが、それもこれもレオンガンドたちが仕向けてきたことの成果にほかならない。キリル=ログナーを酒色に溺れさせ、国そのものが破綻するように仕向けた。
もっとも、結果は知ってのとおりだ。義憤に駆られた将軍が反旗を翻し、キリルに迫った。当時王子だったエリウスに王位を譲らせただけではなく、ザルワーンからの独立さえも図ろうとしていた。おおきな混乱は起きなかったものの、ガンディアが攻めこむには絶好の機会ではあった。大義名分はあとで考え、公布している。
ログナーの混乱を収め、人心を安んずるため。
我ながら悪辣極まりない言葉だとは思ったが、ログナー制圧後の国内情勢を見る限り、人心の安定は間違いなく上手くいっている。
マイラム宮殿の寂光殿は現在改築中であり、終了次第レオンガンドはそちらに移る予定だったが、移動面を考慮するならばこの部屋のほうが便利だった。ただ、人数を入れるには狭すぎるし、やはり改築後の寂光殿を司令部としたほうがいいかもしれない。もっとも、改築が終わる頃にはマイラムで指揮を執ることなどなくなっているかもしれないのだが。
「《蒼き風》との契約期間も延長しております。団長のシグルド=フォリアーがガンディア出身ということもあり、ガンディアを贔屓してくれている様子」
「《蒼き風》を軍に組み込むということを一度は考えられましたか?」
バレット=ワイズムーンが目を光らせる。
《蒼き風》は総勢百名足らずの傭兵集団だ。ガンディア出身の傭兵シグルド=フォリアーが十年前に結成した組織であり、長い間諸国を流浪していたらしい。最近はガンディアに居着いているようで、ゼフィルの言葉通り贔屓にしてもらっているのかもしれない。単純に、金払いがいいから、という線も捨てきれないが、それはそれで構わない。むしろ金額しか信奉しない傭兵のほうが、レオンガンドとしても交渉しやすくて助かるのだ。
クオン=カミヤのように金銭以外のなにかを契約条件に含めたがる相手は、本来ならば雇いたくはなかった。今回だって、セツナがいなければ契約できなかっただろう。クオンはセツナに執心の様子だったし、セツナはセツナでクオンに対し複雑な感情を抱いているようなのだ。《白き盾》に実力がなければ、交渉する必要もなかった。
セツナが力を発揮できる場所を作る――それこそ、レオンガンドに課せられた使命のひとつだと思い始めている。
「傭兵の矜持がそれを許さないだろう。ザルワーンとの戦いが終われば、打診してもよいが……」
打診したところで、素気なく断られるのが目に見えている。一応、考えてはくれるだろうが、傭兵であることに矜持を見出した彼らには、軍に所属するということになんの魅力も感じないだろう。正規に軍に所属すれば、金銭面での心配はなくなる。身分も保証され、生活も安定するかもしれない。しかし、彼らを突き動かすのは金銭欲ではなく、自由への渇望なのだ。国に縛られるよりも、契約に縛られる方がマシだと考えている。
「《蒼き風》は戦闘力もさることながら、バルサー要塞以来、ガンディア軍の正規兵への影響が強く、正規軍として組み込んでも問題なくやっていけるでしょうな」
ゼフィル=マルディーンが興味深いことを口にした。
「影響?」
「なんでも、バルサー要塞駐屯中、《蒼き風》が臨時的に訓練所を開催していたようでして」
「ほう、初耳だな」
「そこで訓練を受けた連中の隊は、ログナーでの戦いでほかの部隊よりも良い動きをしていたという報告があります」
「ふむ……」
レオンガンドは、その話を聞いてセツナのことを思い出した。セツナは、黒き矛の使い手としての高みを目指すために訓練相手を探していたのだ。その話をシグルドに相談したのは、顔の広い傭兵団長ならばセツナの望みに適合する人物を見つけられるのではないかと思ったからだ。結果、《蒼き風》の突撃隊長“剣鬼”ルクス=ヴェインがセツナの師となった。セツナはガンディオン滞在中毎日のように彼の元に通い、疲労困憊になるまで訓練に明け暮れていたらしい。セツナはまだまだ強くなるのだろう。それはガンディアにとって喜ぶべきことだが、彼自身への負担を考えると悩ましいところではあった。
セツナの例を考えれば、《蒼き風》に兵の訓練を行ってもらうのもいいかもしれない。もちろん、契約を見直す必要はでてくるだろうが、それくらいならシグルドも乗り気でやってくれるかもしれない。《蒼き風》主催の訓練でガンディアの弱兵が少しでも強くなってくれるのなら御の字だ。もちろん、傭兵風情に鍛えられてたまるか、という声も出るだろうが、結果も出せないものには発言権などないのだ。
結果がすべてだ。だからこそレオンガンドはセツナを愛し、重用している。そして、セツナが積み上げて結果を越えるような人材が出てくるようなことはないだろう。彼を第一に考えるのは、それが念頭にあるからだ。
バルサー要塞の奪還こそ、当初の予定通りであっても問題はなかったものの、セツナという想定外の存在のおかげで、ガンディア側の損害は予定したよりも遥かに少なく済んだものだった。ログナーでのヒース救出作戦では、ログナーをかき回してくれることを期待していたのだが、ガンディア軍を崩壊から救い、戦争を終結に導くという偉業まで成し遂げた。そんな彼を遇せずしてだれを遇せよというのか。
つぎの戦いでも大いに活躍してくれることは間違いない。それこそ、《白き盾》のクオン=カミヤという存在がいい刺激にはなってくれるだろう。
クオンは、セツナと同じ世界から召喚された異世界の存在、異世界人だった。その事実を知ることができたのは、セツナが異世界人だということを知っているものだけだろう。ふたりの再会の場にいた人間の中で、ガンディア側の人間は全員、その事実を認識している。レオンガンドもふたりの友人も、ファリアもルウファも、セツナが異世界から召喚された存在だということを知っていて、その上で付き合っている。
彼は、普通の少年だ。人並みに考え、人並みに感じ、人並みに傷つき、人並みに成長する。人間への敵意をまき散らす皇魔とはまったく異なる存在なのだ。圧倒的な力も、彼自身の力というよりは、武装召喚術によるものだといえる。
セツナ本人は、哀れなほど普通の人間だった。だから、訓練にも打ち込まなくてはならない。
つまり、クオンも普通の少年なのだろう。普通の少年が、この世界に召喚されたことで、戦わざるを得なくなったのだ。が、彼の実力は紛い物ではない。交渉するにたる価値はあったし、契約が結べたのは有意義だ。無敵の軍団、不敗の傭兵、《白き盾》。負けないことが、彼らの最大の特徴だ。確保した拠点の防衛などには持って来いといえる。
一方、セツナ自身は、クオンに対して複雑な感情を抱いていたようだった。クオンとの対面以降の言動を見ていれば、彼の心が揺れていることくらい、レオンガンドにだってわかった。しかし、レオンガンドが彼にしてやれることなど、ほとんどなかったといっていい。やらなくてはならないことがあまりにも多すぎた。
が、先ほどの態度を見る限り、もう心配する必要はなさそうだ。この二日間でなにがあったのかはわからないし、どういう心境の変化なのかもはっきりしないのだが、問題がなくなったのならなにもいうことはない。いまはふたりで昔話でもしている頃合いかもしれない。
扉が、外から軽く叩かれた。
レオンガンドがバレットと目を合わせると、彼は困ったように苦笑した。だれが訪ねてきたのか想像できているという表情だった。それはレオンガンドも同じだったが、困るようなことではない。むしろいい機会だと思った。立ち上がり、みずから部屋の出入口に向かう。広い部屋の片隅に男が三人集まって話し合うだけでは、どうも息苦しい。いや、いつもよりはましかもしれない。普段なら、ガンディオンに置いてきたふたりも加わって、男五人だけの会議となるのだ。それもとっくに慣れたことではあるし、気の置けない友人たちと雑談するような調子で国の将来を考えるのも大きな問題があるわけではないのだが。
もちろん、この空間にもアーリアはいるのだろう。彼女は、レオンガンドにすら認識できず、当然、ほかの連中にもわからない。存在自体が幻想なのではないかと思うこともあるのだが、実在を否定することはできない。
「なにか御用ですか?」
「ひゃあ」
レオンガンドが扉を開けると、さすがのナージュもびっくりしたのだろう――素っ頓狂な声を上げて、後ずさった。すると、いつものように背後にいた侍女たちが、くすくすと笑う。ナージュ・ジール=レマニフラは、半眼になって三名を見回した。確か、肌の白い少女がサリシャ、背の高い少女がミルフェ、胸の大きい少女がトリシュだったはずだ。
「なにも笑うことないでしょ」
「だって姫様」
「ひゃあって、ひゃあって」
「ひゃあ様かわいいです」
個性的な三人娘が口々にいうものだから、ナージュも閉口するしかなかったらしい。
「……本気で怒らせたいのかしら」
レオンガンドは、むさ苦しい世界に舞い降りた天使たちのような彼女らのやりとりを眺めているのも悪くはないと思った。が、放っておいていいものではない。
「ナージュ姫?」
「あ、ええ、とレオンガンド陛下におかれましてはご機嫌麗しく……」
「取ってつけてような挨拶は逆効果ですよ、姫様」
「そうですよ、姫様。そこはひねらないと」
「ひゃあ様がんばって」
「あなたたちうるさい!」
ナージュらしからぬ剣幕で怒鳴ったものの、三人の侍女は意に介してもいないようだった。彼女たちにとっては慣れたことなのだろうが。王女で遊ぶ侍女というのは、ガンディアでは考えられないことだ。リノンクレアを同様に扱えば、間違いなく血を見ることになっただろう。
リノンクレアは一時期、ガンディアの希望だった。
「……本当になにをしに来たのかな?」
「ああ、すみません、陛下。実は、折り入ってお話が……」
「同盟のことかな?」
「ええ、陛下のお考えを伺いたく」
「では、入り給え。少々むさ苦しいがな」
「わお、入っちゃっていいのですか?」
ナージュは軽躁なところがあるが、レオンガンドにとってみれば、そういうところこそ新鮮に映った。白いドレスで際立たされた褐色の肌にも目が行く。美女だろう。それもそんじょそこらの美女ではない。王族という貴種に貴種を積み重ねてきた血の結晶であり、並大抵の美貌では太刀打ちできまい。それはレオンガンドも同じことだ。ある種の自負もある。
「立ったままのほうがよろしいのでしたら、そのように致しますが」
「まさかまさか」
「では、こちらへ」
レオンガンドが室内を示したとき、バレットとゼフィルは既に席を移動していた。広いテーブルで、レオンガンドの対面に彼らは座っていたのだが、いま見ると、レオンガンドの両隣に移動している。対面の席は、ナージュに捧げられたのだ。仕事の早いことだと感心するが、彼らにしてみれば当然のことで、褒められるようなこととも思っていないに違いない。
レオンガンドは、ナージュたちを席まで案内しながら、自分の考えを口にした。
「わたしとしては、レマニフラとの同盟によって得られる利益は、同盟しないことよりも大きいものだと考えています。距離こそ遠く離れてはいますが、互いにとって利するものがある」
「ええ、ですから、父上もこの国を同盟相手にお選びになられた」
「しかし、よろしいのですか? いつもの御仁が見当たりませんが」
レマニフラの対ガンディア外交は、グロウン=メニッシュとかいう白髪交じりの男に任されていたはずだった。
「ガンディオンに置き忘れてきましたもの、仕方ありませんわ」
ナージュは悪びれもしない。
レマニフラニとっても同盟が結べるのなら構いはしないかもしれないが、今後のこともある。レオンガンドは、彼女とは深い話はしないことに決めていた。深い話をすれば、政略結婚についても触れなくてはならなくなる。もちろん、それだけでレマニフラとの紐帯が強くなるというのなら、レオンガンドとしても望むところなのだが、ナージュの意思はどうだろう。
リノンクレアを他国に送り出した人間の考えることではないとは思うが、隣国と、遠く離れた異国の地では同じようであってまるで違うものだろう。もっとも、彼女の意向を知ったところで、同盟を結ぶのなら、結婚も者に入れておくべきだった。
レオンガンドがいままで娶ってこなかったのは、こういうときのためだ。
彼は、自分の人生も、ガンディアの将来に捧げている。
対面の席に座ると、ナージュの笑顔が眩しかった。彼女はこういう場であっても、常に笑顔を絶やさなかった。いや、こういう場だからこそ、だろうか。会議や交渉などの席は、暗くなりがちが。そういう場に、彼女の笑顔のような光があるだけで、空気は変わるものだった。
「ところで」
ナージュが急に真剣な表情になったので、レオンガンドも気を引き締めた。
「陛下は、どのような女性が好みなのでしょうか?」
ナージュの問いは、さっきまでの空気をすべてぶち壊すものであり、レオンガンドたちはテーブルに突っ伏しかけた。
レオンガンドが、キースの死を知ったのは、それから二日後のことだ。
状況は、大きく動き始めていた。