第千二百九十五話 獅子の尾が揺れる限り(一)
雨が降り始めていた。
大陸暦五百三年三月二十日。
夜明けの暗闇の中、魔晶灯を翳した大軍勢が一斉に動き始めた。
救援軍本隊が展開したヘイル平原の上空は、雨雲に覆われており、朝の日の光が地上を照らしてくれることもなければ、気温が上昇することもなかった。春先の肌寒さの中、降り始めた雨がさらに体温を奪っていく。それでも軍隊の行動は迅速を極め、雨脚が強くなるのと合わせるようにして、両軍、激突した。
ヘイル平原最北、ヘイル山麓にて、ガンディア方面軍第二、第三軍団と騎士団が衝突したのだ。第二、第三軍団の総数は三千。それに加え、大将軍の供回り二百五十が付随し、騎士団の千人の優に三倍を越える兵力を誇った。
どれだけ騎士団兵が強力であっても、数は力だ。
「数では我らが上回っている! 押せ押せ! 押し潰せ!」
アルガザードは、前線で馬を走らせながら、兵士たちを鼓舞し続けた。ガンディア軍人は弱兵ばかり。その弱兵を強兵にすることはできなくとも、戦わせることはできるのだ。しかし、そのためにはだれかが背中を押してやらなければならない。そしてそれこそ、大将軍のようなものの役割なのだということをアルガザードは知っている。吼え、鼓舞し、発奮させる。とにかく、兵士たちの弱腰を叩いて起こすしかない。そうやって戦いが始まれば、戦場の狂気に飲まれ、弱兵も一端の戦士になりうるのだ。
「閣下、前に出るのもほどほどになされませ」
「そういうわけにはいかん。これこそ、我が軍人生涯最後の戦いなのだからな」
ガナン=デックスの気遣いに感謝しながらも、アルガザードは大笑した。周囲の兵士たちに聞こえるように、笑ったのだ。
「勝利をこの手で掴む!」
アルガザードが長柄戦斧を振り翳すと、供回りの兵士たちが鬨の声を上げる。前線の士気は高い。しかも騎士団との戦いを有利に進めつつある。数で押しているからだ。このまま前線を維持しつつ、両翼の部隊がヘイル砦を攻め上り、落としてくれればいいのだが。
「そういうの、嫌いじゃないですけどね」
声は、正面、頭上から聞こえた。仰ぐと、上空に稲光が走り、蒼白の騎士が飛びかかってくるのが見えた。アルガザードは反射的に戦斧を振るった。大気が唸りを上げ、大斧が蒼白の騎士を襲う。しかし、騎士の右腕の盾が大斧を受け止め、左手の剣がアルガザードに殺到する――。
アルガザードは、不思議なことに、焦りひとつ覚えなかった。
爆発的な光が騎士を飲み込み、つぎの瞬間、アルガザードの視界から消え失せていた。光の発生源を見やると、青の武装召喚師が巨大な弓を構えているのがみえた。ファリア・ゼノン・ベルファリア=アスラリア。アルガザードは、感謝の言葉を述べようとしたが、彼女はすぐさま飛び離れていた。
「いまのは……いったい」
「あれが武装召喚師と、おそらく十三騎士の戦いだ」
騎士団の兵士たちとは動きの異なる蒼白の騎士は、まず間違いなく十三騎士だろう。十三騎士の危険性については周知徹底されていたのだが、まさか、アルガザードの長柄戦斧の一撃さえ通らないとは、想像もしていなかった。
見ると、盾に叩きつけた斧刃が欠けているのがわかった。
普通の盾ならば腕諸共粉々に粉砕するはずだったがのだが。
アルガザードは、十三騎士の相手は《獅子の尾》に一任するというアレグリアの考えの正しさに目を細めた。
開戦と同時にルウファは飛翔していた。
シルフィードフェザーの飛行能力は、戦場を広く見渡すには適している。飛行能力と召喚武装の五感強化による感知範囲の広さは、他の追随を許さないだろう。少なくとも、ファリアとミリュウよりはずっと広範囲を索敵することができる。
《獅子の尾》は、戦場となるヘイル平原北部のやや東に配置されていた。開戦と同時に飛翔した彼は、あっさりと敵軍の動きを掴むとともに、ガンディア方面軍第二、第三軍団と騎士団部隊が激突するのを目の当たりにした。
敵は、ヘイル砦から複数の部隊を進撃させている。籠城戦をする心積もりはないらしい。
(籠城するには援軍が期待できそうにない、か)
アレグリア=シーンの推察通りの展開だった。アレグリアは、ヘイル砦の反乱軍は、援軍を期待できない以上、打って出てくるしかないと断定していたのだ。その断定を元に部隊配置を決定したのが彼の父アルガザードであり、その父の大将軍として最後の戦争となるこのマルディア救援を成功裏に収めるべく、ルウファは奮起しなければならないと考えていた。
心より尊敬する父のためにも、実の息子たる自分が発奮しなければならない。
長年、家のことを放置して修行にかまけていた自分を当然のように受け入れてくれたのが、アルガザードなのだ。アルガザードが父親でなければ、ルウファは勘当されて当然の身だった。にも関わらず、アルガザードはルウファの苦労を感じ取ったのか、家への帰着を泣いて喜んでくれたものだった。兄は、冷たかったが、むしろその反応のほうが普通だったし、ルウファが武装召喚師としてガンディアに貢献するようになると、ラクサスも喜んでくれるようになった。ロナンはいつもなにを考えているのかわからなかったものの、王立召喚師学園に入ったのは、セツナや自分に憧れたのだろうということがわかって、それが嬉しかったりもした。
ルウファは、そんなバルガザール家が好きだった。
家のために、長年家を支え続けてくれた偉大なる父アルガザードのために、ルウファは全力を挙げて戦うつもりだった。
そういった意気込みが、彼の全神経を今まで以上に活動させる。
籠城を拒否し、決戦を挑んだヘイル砦の反乱軍ではあるが、ヘイル平原に突出してきた敵戦力は、騎士団の部隊のみだった。反乱軍の戦力は、ヘイル砦を防衛するという役目があるのだろうが、だとすれば騎士団に頼り過ぎな気がしてならない。そんなことを言い出せば、マルディアも救援軍に頼りすぎといわざるをえないが、それは敵戦力を考えれば、当然の結果だ。マルディアの戦力では、騎士団を主力に据えた反乱軍を撃破することなどできない。
(ガンディア軍でさえ、騎士団相手はきついんだよなあ)
雨が降り始めた空と大地の狭間を飛翔しながら、ルウファは敵の動きを見ている。
騎士団部隊は、三つ、ある。ヘイル山正面に展開し、ガンディア方面軍第二、第三軍団と激突した千人程度の部隊。その側面をつくために展開したらしいふたつの部隊は、それぞれ、メレド白百合戦団、マルディア政府軍に進路を阻まれ、戦闘を始めていた。
ちょうどそのころ最前線に動きがあった。大将軍みずから前線指揮を取るアルガザードを十三騎士と思しきものが襲いかかり、ファリアによって阻止されたのだ。
ルウファはほっと胸を撫で下ろすとともに、視界の隅を空中を滑るように移動する物体を目撃した。(あれは……)
蒼白の鎧を纏い、外套を翻しながら滑空するのは、十三騎士以外のなにものでもなかった。少なくとも、騎士団兵士があのような人外の動きを見せたことはない。特異な能力を持つのは十三騎士の特徴であり、召喚武装にも匹敵するかそれ以上の力を見せるそれがどのような由来のものであれ、脅威にほかならなかった。
ルウファは即刻、滑空する騎士を追走した。目的は、わかっている。
(いきなり王手はなしでしょ)
しかし、それが反乱軍にとって効果的な一手であることに疑いの余地はない。救援軍の総大将であるレオンガンドを討つことができれば、救援軍の戦意を著しく下げることができるだろう。救援軍の存続自体、危うくなるかもしれない。救援軍は、ガンディアの影響力によって作りあげられたといっても過言ではないのだ。
十三騎士が大将軍を狙ったのも、それだ。大将軍はガンディア軍の偉大なる指揮官だ。アルガザードを討てば、ガンディア軍の士気はたちまち低下する。少なくとも前線は崩壊するだろう。それ故、大将軍のような要職は後方にいてしかるべきなのだが、アルガザードはむしろそれを逆手に取ったのだ。敵がアルガザードを狙って動くのは間違いないと見た。
反乱軍が救援軍の総大将や指揮官を討つことで戦いを有利に運ぼうとするように、救援軍は十三騎士を封殺することで戦いを有利に進めようと考えたのだ。アルガザードを狙って十三騎士が動けば、それを狙い撃ちに攻撃すればいい。武装召喚師ひとりでは十三騎士を斃すのは困難だが、護りに徹すれば、動きを止めることくらいは可能だ。
ルウファとファリアは、時間を稼げばいいのだ。
その間にヘイル砦を落としてしまえば、十三騎士といえど、撤退せざるを得なくなる。
ルウファは、全速力で飛翔した。強くなる一方の雨脚を黙殺し、地上すれすれを滑走するかのように移動する騎士へ、風弾を発射する。空気を圧縮して撃ち出した弾丸は、あっという間に騎士に到達したが、騎士には当たらなかった。騎士はこちらを振り返ることもなく回避し、さらに前進を続けた。だが、回避したことで余計な動きが生じ、騎士とルウファの距離を縮めさせるに至る。ルウファはさらに風弾を連発した。シルフィードフェザーは周囲の大気を支配し、飛翔する。その大気を練ることで弾丸にするのだが、そうやって撃ちだした風弾の威力はそこまで高くはない。しかし、牽制には十分すぎるほどに効果を発揮する。
風弾の雨嵐には、風のように疾駆する十三騎士も閉口したらしく、彼はようやく足を止めた。既に平原中央に近い。本陣まではまだ距離があるものの、ガンディア方面軍第四、第五軍団の目前に迫っていた。第四、第五軍団は、騎士団騎士とルウファの接近に驚いたことだろう。
ルウファは彼らに害が及ばないよう、敵騎士の動きを誘導しなければならないと考えた。通常戦闘ならば戦力として期待してもいいが、十三騎士が相手ともなれば、一切の期待は許されなかった。無為に殺されるだけのことだ。足止めにもなるまい。
「一足飛びに王手というのは、甘い考えだったか」
騎士は、こちらを見るなり、ため息混じりにいってきた。酷く老いを感じさせる口調だったが、落ち着いているといってもいいのかもしれない。戦いの熱に浮かされておらず、そこには寂しげな静けさがある。
ルウファは、ゆっくりと相手との距離を詰めながら、地上に降下し始めた。無論、常に細心の注意を払って相手の動きを見ている。騎士とはいえ、敵は敵だ。隙を見せれば、瞬時に襲い掛かってくるかもしれない。
「そういうこと。獅子の尾が揺れる限りはね」
「貴殿はルウファ・ゼノン=バルガザールだな。そしてそれがシルフィードフェザーか」
兜の下に輝く目は、どこまでも落ち着いている。嵐の前の静けさを思い起こさせるような、そんな錯覚を抱いて、ルウファは目を細めた。
「よくご存知で。十三騎士殿?」
「我が名はシヴュラ・ザン=スオール。十三騎士がひとりにして、“疾風”」
蒼白の甲冑に身を包んだ騎士は、名乗るとともに三叉の槍で背後を薙ぎ払った。瞬間、竜巻が巻き起こり、彼の後方でこちらの様子を伺っていた第四軍団の一部が巻き込まれた。
「貴様っ」
ルウファは叫びながらも前進し、自分の反応が遅れたことを悔やんだ。竜巻によって打ち上げられた兵士は十数人。千五百人の軍団からみれば端数に過ぎないが、それでも戦力は戦力だ。無駄に失う必要はない。
「敵戦力を少しでも減らすのは、戦いの常識だろう」
「そうですね」
ルウファは、シヴュラにうなずくと、翼を広げた。竜巻によって打ち上げられた兵士たちの落下地点に分厚い大気の膜を形成し、受け止めさせる。竜巻そのものによる負傷は防げなかったものの、落下死だけは防ぎきったのだ。
「味方戦力を少しでも護るのも、常識ですがね」
「ほう」
シヴュラが、兜の奥で目を細めた。
三叉槍の穂先に小さな竜巻が渦巻いていた。