第百二十七話 セツナとクオン(一)
ガンディアと傭兵集団《白き盾》の二度目の交渉が行われたのは、最初の交渉から二日後の事だった。日を開けたのは、考える時間が必要だろうというガンディア側の配慮であったが、《白き盾》はその日のうちに結論に至っていたらしい。
マイラムの宮殿で行われた交渉に参加したのは、ガンディア側からレオンガンド王と側近バレット=ワイズムーンとゼフィル=マルディーン、《白き盾》側からは団長クオン=カミヤに副長のスウィール=ラナガウディという初回と同様の面々であり、大きな問題もなく交渉は進んだ。
セツナは、前回と同様、部屋の外で交渉が纏まるのを待っていた。ファリア、ルウファも一緒だったが、護衛の必要はなかっただろう。今回は宮殿の中であり、無防備ということもなかった。それでも王命に従い、交渉の行われている広間の外で待機しているのは、王立親衛隊としての使命だからだ。
そして、セツナたちの対面には、同じように交渉の終了を待つ《白き盾》の面々がいる。今回はあの女性武装召喚師はおらず、筋肉男と貴族然とした男のふたりだけだった。警戒する必要もないという判断だろうし、それはまず間違いではない。ガンディアとしては《白き盾》――中でもクオン――の協力を必要としており、害をなすつもりなど最初からないのだ。ましてや、クオンたちを敵に回すつもりもない。だからこそ、初回の交渉前に起きた襲撃事件も不問に付されたのだ。
「今日は落ち着いているわね」
ファリアに耳打ちされて、セツナは苦笑を漏らした。
セツナは、確かに落ち着いていた。精神的に安定していて、初回の交渉前からの不安はなんだったのかと思うほどだった。冷静に状況を把握できているし、ついさっき、クオンと目があった時も、動揺さえ生まれなかった。なにか大きな変化があったわけではないのだが、心に余裕があった。漠然とした不安は、具体的な形を取っていなかった時点でくだらないものだったのだろう。
無論、アスタル=ラナディース右眼将軍に励まされたことが大きかったのは間違いない。あのとき、あの墓地で彼女に出会わなかったら、いまでも鬱屈とした感情を抱えたまま、交渉の終わりを待っていたのかもしれない。そう思うと馬鹿馬鹿しくもあり、ほっとするようでもあった。
交渉は、思った以上にあっさりと終わった。二時間もかかっていない。広間から出てきたレオンガンド側もクオン側も晴れ晴れとした表情をしていたのは、交渉がうまくいったからだろう。セツナはいまや、ガンディアにとって最良の結果ならそれでいいと思うようになっていた。
自分の居場所はガンディアにあり、揺るがない。そう信じることができれば、心が揺れることもない。なにかに怯えることも、脅かされることもないのだ。
だから、だろう。
セツナは、じっくりとクオンの顔を見ることができた。まじまじと見たのは久しぶりだった。元の世界でも、こうまでしっかりとは見なかったかもしれない。綺麗な顔立ちだ。自分と同じ人間とは思えないというのは、昔から思っていたことだが。艶のある黒髪に青い瞳。サファイアのような青さが、彼の視線をときにまぶしく感じさせた。その目が、セツナを見た。セツナのまなざしがこそばゆいのか、彼は照れたように笑った。その笑顔は、多くのひとを魅了するものに違いない。昔から彼の周りには常にひとがいて、だからセツナも彼の庇護下にいたのだ。
過去を思い出しても、心は揺れなかった。踏みしだいてきた死の重みが、いまのセツナを支えている。
「契約は締結された。これで我がガンディアの勝利は間違いないな」
レオンガンドが軽口を飛ばしたのは、交渉の結果に余程満足したからだろう。契約の詳細こそわからないが、その言葉から、《白き盾》がガンディアの傭兵となったことは間違いない。無敵の盾、無敗の軍団を手に入れたのだ。契約中は、まさに鉄壁の守りを得たことになる。
そして、攻めにはセツナがいる。
(そうだ。そこに俺の居場所がある)
セツナは、拳を握った。最初から小難しく考える必要はなかった。盾と矛。用法は違うのだ。たとえ、レオンガンドが盾を気に入り、必要としても、矛の価値は変わらない。黒き矛の力は、セツナが一番よく知っている。
「我ら《白き盾》、これからは陛下の盾として勇を振るいましょう」
クオンがレオンガンドの前に傅くと、ほかの団員たちもそれに習った。セツナたちはその様子をレオンガンドの後方から見ている。若き獅子王と不敗の傭兵団。悪い景色ではなかった。それは、ガンディアのこれからの可能性を感じさせるものだった。
「よろしく頼むぞ」
レオンガンドは鷹揚に頷くと、側近たちになにごとかを指示した。側近たちは、スウィールとともにこの場を離れていく。事務的な話でもするのかもしれないが、セツナにはよくわからない。団長のクオンはついていかなくていいのだろうか。
「セツナ」
「は」
レオンガンドに呼ばれて、セツナはかしこまった。いままでだらけていたわけではないが、主君に名を呼ばれるといつも以上に緊張が生じる。が、待っていてもなにもいってこないので、見ると、レオンガンドはセツナに側に来いといっているような目をしていた。慌てて駆け寄る。
「クオン殿が君と話をしたいらしいのだが、だいじょうぶか?」
レオンガンドが他人には聞こえないように囁いてきた言葉に、セツナは目を丸くした。そして、感激する。
(陛下……!)
まさかレオンガンドが、そこまで気にかけてくれているとは思いもよらなかった。レオンガンドの発言は、セツナがクオンに関することで思い悩んでいたということを察したものなのだ。それはレオンガンドがセツナの様子がおかしいことに気づいていたということに他ならず、いまのいままで気にしてくれていたということなのだ。もちろん、セツナがレオンガンドに相談したことはないし、クオンに対してわだかまりがあるという態度を見せたこともない。それくらいは弁えてきたつもりなのだ。
それなのに、レオンガンドは、理解してくれていた。
セツナは、感激のあまり返事をするのを忘れるほどだった。最初から悩む必要などなかったのだ。レオンガンドは常にセツナのことを気にかけてくれていたのだ。ただの兵器としてではなく、ひとりの部下として、ひとりの人間として、しっかりと見てくれているのだ。クオンのことなど気にする必要はなかった。彼への態度を見て、不安がることもなかったのだ。レオンガンドは、確かにセツナを見てくれていた。
それがわかったとき、セツナの中で未だ蠢いていたさまざまな感情が蒸発してしまった。
「もう、だいじょうぶです!」
セツナが全力で答えると、レオンガンドは拍子抜けしたようではあったが。
ときは、静かに流れている。
時計の針が刻む音色は正確で、ふたりの間に横たわる沈黙の深さを嘲笑うようだ。いや、ときがそんなものを笑うこともない。ただ淡々と、ときを刻んでいくだけだ。
広い空間にふたりきりだった。
セツナとクオン。
互いに目を合わせてもいない。
広い部屋だ。室内に置かれた調度品の類から、戦前はさぞ高貴な人物の部屋だったのだろうと推測される。部屋の主人はいまもマイラムにいるのかどうか。ログナーの貴族のいくらかはガンディオンに移り住んだらしいという話もある。ガンディオンは王都、ガンディアの首都なのだ。王侯貴族を集めておくのも悪くはないのだろう。軍人のいくらかもガンディア方面に移り住み、逆にログナー方面に映されたガンディア人もいる。
戦後、ガンディアを取り巻く状況は大きく変わった。
セツナ自身、立場が変わっている。その立ち位置が微妙にわかりづらいのはともかく、ただの一般人ではなくなったのは事実だ。王宮召喚師にして《獅子の尾》隊長セツナ・ゼノン=カミヤ。大仰な肩書は、責任の重さでもある。
一方、クオンの立場に変化はない。傭兵集団《白き盾》団長クオン=カミヤ。無敵の盾にして不敗の軍団。負けを知らない軍団を必要とする国は数多あり、ガンディアもそのひとつだった。彼がガンディアと契約した理由は、条件が良かったから、だけではなさそうだった。
ふたりは、テーブルを挟み、対面のソファに座っている。
セツナの心に不安はなかった。《白き盾》との交渉開始以来感じていた動揺は消え去り、いつも以上に冷静に状況を把握できている。元の世界にいたころよりも堂々と出来ているかもしれない。足場が安定していると、こうも感じ方が違うものなのかと、セツナには不思議でならなかった。その安定もレオンガンドという大樹があったればこそ、ということもわかっているのだが、クオンの下にいたときとはまるで違う世界にいるような感覚があった。
最初に口を開いたのは、クオンだった。彼は、気を使うように笑顔を浮かべてくる。
「セツナ=カミヤが本当に君だとはね」
少しだけどきっとしたが、それも一瞬だけだった。
クオンの顔を、真正面から見ることができている。さっきよりも近い距離で、さっきよりも真っ直ぐに見ている。
「それはこっちの台詞。クオン=カミヤがおまえだったなんてさ」
「でも、ぼくはなんとなくそうなんじゃないかって思ってた」
「俺も……そんな気はしていた」
同じことを考えていたことに驚きは覚えない。
寄る辺なき異世界で、よく知った名前を耳にし、それが本当に知っている人物どと嬉しいと思うのが普通だ。そして、そうであればいいと願い、想うのだろう。セツナは、クオンが別人であってほしいと願ったこともあった気もするが、いまは本人であってよかったと思い直している。彼がよく知っているクオンだから、こうして話し合えるのだ。
彼といるだけで、懐かしい世界を思い出せる。
「君も?」
「驚くことか?」
「そうだね……別段、不思議じゃない」
彼は、セツナの態度に微笑を漏らした。昔と変わっていないことが余程嬉しかったのか、おかしかったのか。
セツナは、クオンが昔と変わらないことになんの不思議も抱かなかった。彼ならば、変わらずにやってこられただろう。クオンほどあらゆる意味で強い人間を、セツナは知らなかった。どんな苦境に立たされても彼は諦めず、前進し、制圧するだろう。そういう人間だった。
「君もアズマリアに召喚されたんだろう?」
「うん……一月ほど前にね」
「ぼくはその半年前さ。いろいろあったよ」
彼が苦笑したのは、そのいろいろが本当に盛り沢山だったからかもしれない。ただの高校生が異世界に召喚されて、傭兵団を結成し、諸国を流浪する。並みの人生ではない。並みの精神力でもない。セツナが彼の立場だったら、どこかで諦めていたかもしれない。セツナは、ファリアに出会い、レオンガンドに見出されるという幸運があったからこそ、戦い抜いてこれた。
「俺も、いろいろあった……」
「噂には聞いてるよ。初陣で、バルサー要塞を奪還したんだよね。あの要塞、ぼくが落とすのに協力したんだけどなあ」
クオンが嘆息するのも無理はないのだが、かといって同意できる話でもない。ガンディアにとっては半年もの間回復できなかった領地であり、あのまま放置しておけば、レオンガンドの立場は悪くなり、ガンディアという国そのものも危うかったという。ザルワーン・ログナーの南方進出への橋頭堡でもあり、奪還できなければ、ガンディアの領土はさらに奪われていっただろう。
「そんなこといわれても……」
「ごめんごめん。でも、あの一戦で君の名は諸国に広まった。ガンディアの黒き矛、セツナ=カミヤ! たったひとりで戦局を動かした武装召喚師の名は、ぼくの耳にも飛び込んできた」
クオンがいつにも増して饒舌な理由は、セツナにもなんとなくわかる気がした。あんなにわだかまりを感じていた相手なのに、いまはもっと話したいと思っている。ようやく逢えた元の世界の知人なのだ。こんな感情は、この世界にきて初めてだった。懐かしくて、嬉しくて、涙腺が緩みそうになる。
「本当はすぐにでも逢って確かめたかったんだけどね。こっちにもいろいろ事情があったし、すぐには動けなかった」
「契約とか?」
「そういうこと」
セツナは、彼の話を聞いて、少なからず安堵した。いまの時期でよかったのだと思った。レオンガンドの信頼も勝ち取れていない時期に逢っていれば、ファリアに対してしたようなことをほかのひとにもしていたかもしれないし、自分の居場所を見失っていたかもしれない。そして、要塞奪還直後だと、自分の居場所を再確認するきっかけとなったアスタル将軍は敵だった。
そう考えると、クオンと逢うにはちょうどいいタイミングだったのだ。
「君はすごいね。ぼくには戦局を覆すようなことはできない。ぼくにできるのは負けない戦いだけ。それでも十分に誇れることだと思っているし、実際、いろんな国から声をかけてもらえる。無敵の盾だなんてね」
クオンは、他人を褒めることに臆面がなかった。昔からそうだ。思ったことをさらっと口にしてしまうものだから、褒められたほうも照れる必要がない。素直に受け入れてしまう。ただ、セツナは違う。彼に褒められることほど警戒しなければならないことはないと思っている。
「俺が……すごい?」
「そうさ。たとえ君と同等の力を持っていたとしても、ぼくにはできなかったかもしれない。ひとを殺すというのは辛いことだろう?」
クオンは、世間話でもするように、肺腑を抉ってくる。だから油断はできないし、隙を見せてはいけないのだ。
セツナが胸に痛みを覚えたのは、クオンの目が、やけに澄んでいたからかもしれない。
「ぼくはひとを殺したことがない」