第千二百七十八話 レコンドール開戦
セツナが自前の軍勢とともにマルディオンを出発したのは、三月十五日のことだ。
シールウェール奪還成功の報せを聞いたセツナたちはすぐさま準備を整え、ユノ・レーウェ=マルディアを始めとするマルディオンのひとびとに見送られながら北に旅立った。マルディオンをひたすら北へ。セツナたちを乗せた馬車と馬に乗った黒獣隊は、第二別働隊に追いつくべく道を急いだ。
道中、セツナたちとの連絡役にと残されていた部隊を合流し、さらに北へ向かう。
シール川にかかった大橋を渡り、陸路を進むうち、マルディア救援軍第二別働隊の陣地が見えてきた。シールドール南東に広がる森の南側に設営された陣地では、セツナ軍の到着をいまかいまかを待ちわびているという様子だったらしく、セツナたちが陣地に辿り着くと、第二別働隊の将兵がわらわらと寄り集まってきたものだった。
その中には第二別働隊の指揮官である右眼将軍アスタル=ラナディースの姿もあり、彼女の身軽さにセツナは少しばかり笑ってしまった。
ともかく、そんな風にしてセツナたちが第二別働隊に合流することができたのは、二日後の十七日のことであり、その日の夕、灰色の雲が頭上を覆い始めていた。
レコンドール奪還戦は、荒れるかもしれない。
そんな予感を抱かせる空模様だった。
第二別働隊は、右眼将軍アスタル=ラナディースを指揮官とし、ログナー方面軍第二、第三軍団、イシカの星弓兵団、そしてセツナ軍によって構成されている。総兵力約五千の軍勢であり、第一別働隊と部隊の規模としては同程度といっていい。兵力的にも同等だが、戦力の内実は大きく違うというべきだろう。
「レコンドールは、反乱軍によって制圧されてからというもの、反乱軍によって防備を固められているというのが情報として入っている。実際、斥候によれば、レコンドールを囲う城壁が一般的なものよりも遥かに高く、分厚いということだ」
「城壁を増築した、ということですな」
「でしょうな。そうすることで鉄壁の守りを手に入れた、と反乱軍側は考えている。浅はかな考えだ」
アスタルが吐き捨てるようにいって、地図に目線を落とした。
第二別働隊の陣地に辿り着いたセツナたちは、別働隊将兵たちに歓迎されたのち、休む間もなく本陣天幕に案内された。黒獣隊の隊士たちやミドガルドこそ休息に入ったものの、セツナ、レム、ラグナ、シーラ、ウルクの五名は、軍議に参加しなければならなかったのだ。
通常、レムやラグナ、ウルクが軍議に呼ばれることなどありえないのだが、第二別働隊の戦力を考えれば、彼女らが参加を要請されるのも分からないではない。
軍議には、アスタルほか、第二別働隊の上層部が顔を揃えている。ログナー方面軍第二軍団長レノ=ギルバース、第三軍団長アラン=ディフォン、イシカ星弓兵団長イルダ=オリオン、それにイシカの弓聖サラン=キルクレイドだ。そこにセツナたち一行が加わっているのだが、どうにも違和感があったが、仕方のないことだ。
机の上に広げられた地図には、レコンドール周辺の地形が事細かに書き記されている。レコンドールは、アスタルの発言通り分厚い城壁で覆われているということが図で示されており、図を見る限り、通常の何倍もの分厚さらしいことが伺える。城壁が分厚いということは、城門もそれなりに強固に補強されていると見るべきだろう。
「普通ならば、それだけ城壁を強化すれば十分でしょう。通常戦力が相手ならば、難攻不落の要塞ともなりましょうな」
「こちらにはセツナ殿がいる」
「ええ、もちろん、わかっていますよ。ですから、普通ならば、と申し上げたまで。第二別働隊は、現状、普通ではありませんからな。常識の枠にとらわれてはいけない」
「それがわかっているのであれば、結構」
サランの言葉に、アスタルは満足気にうなずく。それから、彼女はセツナを見つめてきた。
「救援軍第二別働隊の主戦力は、セツナ殿、当然あなたになります」
「ええ。理解しています」
セツナは、アスタルの凛とした目を見つめ返しながら、静かにうなずいた。アスタル=ラナディースは、美人であるが、美しいというよりは格好いいという言葉がよく似合う女性だった。彼女に憧れる女性士官が多いのも納得だったし、セツナをして、惚れ惚れしてしまうほどの格好良さを彼女は持っている。そんな彼女に頼られているのは、悪い気がしなかった。
「セツナ殿のみならず、セツナ軍そのものが第二別働隊の主力といってもいでしょう。我々は、セツナ軍を援護することに主眼をおいて行動します。それが我が第二別働隊の戦い方となるでしょう」
アスタルは、セツナ軍に頼り切ることを明言した。ログナー軍人にあるまじき言動に思えたが、むしろ、だからこそアスタルの軍人としての器の大きさ、将器を感じさせた。彼女は、ログナー軍人としての誇りや自負、自尊心よりも、第二別働隊としての勝利を取ったのだ。ログナー軍人の誇りの赴くままに、ログナー方面軍を主力に据えることもできなくはない。第二別働隊の指揮官は彼女だ。彼女の思い通り、軍勢は動く。しかし、そうすることにより利点は、ログナー軍人の自尊心が満たされるだけであるかもしれず、余計な損害を被るかもしれない。
アスタルはそれから、レコンドール攻略のための部隊配置を伝えた。セツナ軍を主力に据えた部隊配置は、セツナたちがレコンドールの分厚い城壁をたやすく打ち破ることを前提とした布陣であり、ログナー方面軍、星弓兵団は、まさに援護に徹するという配置だった。
軍議を終えると、夜になった。
頭上、雨雲に覆われていて、星ひとつ見当たらない。時折、雲間から覗く月がまばゆい輝きを見せたものの、それもあっという間に隠れてしまった。天候が悪い。明日、明後日には雨が降り出すかも知れず、雨の中の戦いになる可能性が高かった。
別に雨が嫌い、というわけではないが、雨の中での戦闘というのは普段よりも気をつけなければならないことがあった。雨に濡れた地面に足を取られることもあれば、雨水を吸った衣服が動きを鈍らせることだってありうる。雨風は、戦闘に少なからず影響をあたえるのだ。
とはいえ、天気の心配ばかりをしてもいられない。
篝火の焚かれた陣地内を、セツナたちのために用意された天幕に向かって歩く。そこかしこから香ばしいにおいが漂ってきており、ちょうど夕食時になったのだということを知る。
「主力は俺たちか。気合が入るな」
先頭を歩くシーラが体ごとこちらに向き直りながら、いってきた。そのまま後ろ向きに歩いていくのが危なっかしいのだが、注意したところでどうもなるまい。彼女は、セツナを見て、笑っている。新生黒獣隊としての初めての戦場なのだ。彼女の気合が入るのも当然だった。新入隊士たちが実戦でどれだけ働けるのか、シーラには気がかりも多いだろう。
「頼られるというのは悪くはございませんが、御主人様への負担ばかりが増えるのは困りものでございます」
「いつものことだ。気にすんな」
セツナが言い放つと、レムは不承不承、納得したような、していないような顔をした。普段の彼女らしくないのは、セツナと黒き矛の状態を知っているからだろうし、黒き矛の現状からなんらかの影響を受けているからかもしれない。彼女は、黒き矛の能力によって生きているといっても過言ではない。以前、黒仮面を呼び出したことで影響を受けたように、黒き矛の状態によってなんらかの影響を受けることもありえないことではなさそうだった。ここのところの静かさを見ていると、なおのこと、そう思う。ときどき、思い出したように大暴れするのだが、それも不自然だった。
やはり、黒き矛の調子の悪さが影響しているのだろうか。
「そうじゃなあ。だれもかれもおぬしを頼っておる。それだけおぬしが頼りがいのある男子ということじゃ。わしも下僕として鼻が高いぞ」
「下僕としてか」
セツナは、ラグナのいいようがおかしくて、笑ってしまった。ラグナとのやりとりは気分が解れることもあって、セツナは彼が側にいてくれることに度々感謝した。ラグナのちょっとした一言がセツナの笑いを誘う。笑いが、沈みがちな心を浮かせてくれる。
それだけで、少し、救われる。
「しかし、レコンドールの城壁を突破するのは簡単ではありません」
とは、ウルクだ。彼女はセツナの背後を護るように歩いている。
「そうだな……」
「黒き矛が眠っておるからのう」
ラグナがセツナの頭の上で丸まりながらうめくようにいった。
黒き矛は、眠りについている。
ラグナいわく、そういうことらしい。
黒き矛は、完全な状態になった。エッジオブサーストを破壊し、その力のすべてを取り込んだことで、完全体となったのだ。完全な黒き矛は、以前までの黒き矛とは比較しようのない力を持っているということは、握っただけで明らかになった。なにもかもが違った。世界が変わるとはこのことだ。次元が違うというべきかもしれない。そして、その力を使いこなすのは至難の業だということにも、セツナは直面していた。
膨大かつ莫大な力を制御するのは、簡単なことではない。全感覚を総動員して全周囲から収集する情報量の膨大さは、一瞬にしてセツナの思考を停止させるほどのものだった。それくらいの五感強化。そのままではまともに戦うことはおろか、矛を振ることさえできないのは明白だ。このままでは逆流現象に遭う可能性が高い。黒き矛と相性のいいはずのセツナをしてそうなのだ。ほかのだれかが手に触れればどうなるものか、想像に難くない。
もうひとつ、大きな問題がある。
黒き矛は、完全化してからというもの、その能力を使うことができなくなっていたのだ。
黒き矛には多数の能力がある。
それこそ、召喚武装の中でもこれだけの能力を有したものは見当たらないのではないかというような多様な能力。ブリークの雷球を跳ね返した能力に、炎を吸収し、放出する能力、精神力を光線に変えて撃ち出すこともできれば、血を媒介に別の場所に転移することもできる。マスクオブディスペアやエッジオブサーストの能力も含めると、とんでもないことになるが、黒き矛のまま使えるわけではないため、除外するとしても十分すぎるだろう。
特に空間転移は血を媒介にする必要があるとはいえ、使い勝手がよく、何度となく使っている。なければ危うかったときもあるし、あの能力があればこそ打開できた局面もある。
そういった能力が一切使えなくなったのは、黒き矛が完全体となったことの反動のようだった。
ラグナはそれを眠っていると表現した。ラグナには、黒き矛が眠りこけているように見えるのだという。ラグナはドラゴンだ。セツナとは違うものが見えているとしても不思議ではない。案外、黒き矛の化身が見えているのかもしれない。黒き竜か、黒い男か。いずれにしても、それらが眠りこけている光景というのは想像もつかない。
だが、黒き矛が眠っているといわれると、納得できた。
確かにそんな感じがする。
「眠ってる……か。叩き起こせば、起きるのかな?」
「どうだろうな。師匠とエスクに叩き起こしてもらおうとしたけど、無駄だったからな」
セツナは、シーラの疑問に対し、脳裏にある出来事を思い描きながらいった。ある出来事というのは、ガンディオン出発前、ルクスとエスクに戦闘をふっかけられたときのことだ。セツナがふたりの相性があまり良くないと思うきっかけとなった戦いは、黒き矛が眠りにつき、消沈していたセツナをルクスなりに気遣ってくれた結果起きたものであり、苛烈な戦闘は、黒き矛を酷使するものだった。だが、何度となく“剣鬼”と“剣魔”の攻撃を叩きこまれても、黒き矛は反応を見せず、目覚めることはなかった。
セツナの意識が高揚したという意味では、無駄な戦闘ではなかったのだが。
「あのふたりで無理なら、俺じゃあもっと無理だな」
「わたくしも、無理そうでございますね」
「わしも無理じゃな。全盛期なればまだしも」
口惜しそうなシーラとレムに比べ、ラグナはどことなくどうでも良さげだった。先程から頭の上で身じろぎしていることから、眠たいのかもしれない。寝心地の良い体勢を探して身じろぎしているのだ。
「おまえの全盛期っていつだよ」
「そうじゃなあ、五百年くらい前かのう」
「五百年……?」
「大分断以前? それとも、大陸統一以前なのか?」
「さあのう。そこのところ、よくわからぬ」
「わからないって……自分のことだろ?」
シーラが不思議そうな顔でラグナを覗き込む。背伸びをしてセツナの頭の上を覗きこむものだから、彼女の胸が目の前にきて、セツナは足を止めた上、視線を逸らさなければならなくなった。そのまま歩いていれば、彼女の胸に顔を埋めることになっただろう。
「記憶がのう、さだかではないのじゃ」
ラグナがどこかぼにゃりとした口調で、応える。眠たいのかもしれない。だから、というわけではないが、セツナはふと思いついたことを口にした。
「記憶……そうか」
「なんじゃ?」
「歳も歳だからな」
すると、頭の上でドラゴンが暴れだした。頭髪や頭皮が傷つくのではないかと思う反面、彼がそんな乱暴なことをするわけもなく、安心してもいた。
「な、なにをいうのじゃ! わしはこの間生まれ落ちたばかりではないか! 産まれたてなのじゃ! 若いのじゃ!」
「そりゃあ肉体は若いかもしれんが」
「転生竜、だったっけ」
「ああ。死んでも死んでも生まれ変わる奇妙な生き物らしい」
「奇妙な生き物とはなんじゃ! いくら御主人様とはいえ、いっていいことと悪いことがあるぞ!」
ラグナの非難の声は次第に大きくなり、夜の野営地に響き渡る。篝火に集う兵士たちがこちらに注目しはじめていることがわかって、セツナはバツの悪い顔になった。ラグナは、いまやガンディアにおいて有名人といってもいい。有名竜というべきか。なんにせよ、ラグナは、セツナの下僕となったドラゴンとして知れ渡っており、セツナの名を高める一因ともなっていた。
竜を使役しているということなのだ。
竜、ドラゴンは、ラグナが公言してやまないとおり、この世界においては万物の霊長として知られている。すべての生物の頂点に君臨する存在なのだ。そんな生き物を支配下に置く人間がいることなど到底信じられる話ではないし、多くの場合、セツナの名声を高めるための虚構として受け止めていることだろう。しかし、現実にラグナの姿を目にしたものは、ラグナという竜の実在と、ラグナとセツナの関係性を認めざるを得なくなる。
今回、救援軍に参加したガンディア軍人の多くは、ラグナの存在を認知し、セツナの支配下にあるということも把握したことだろう。
まさか、万物の霊長たるドラゴンが人間と口論するような存在とは、想像もしていなかっただろうが。
「ああ、悪かった悪かった。言い直すよ。変な生き物だったな」
「へ、変な……じゃと!?」
愕然とするラグナの様子があまりにも哀れだったのか、レムが割り込んでくる。
「御主人様、そこらへんにいたしませんと、ラグナが可哀想でございます」
「そうだな……」
レムがいつにもまして優しいことが気になって、セツナは彼女を一瞥した。死神メイドは、いつものように微笑みを浮かべているだけだ。青白い肌に黒い髪、赤い瞳は相変わらずで、普段との違いは、声音から感じるしかなさそうだった。感じた結果、違和感を覚えるのだから、きっと不調なのだろう。彼女のためにも早急に休むべきかもしれない。
そんなことを考えながら、頭上に手をやる。ラグナを両手で掴み、目の前まで持ってくる。彼は飛び離れもしなければ、抗いもしなかった。夜の闇の中、飛竜の外皮は淡く輝いている。美しい緑色の輝き。照明代わりにもなるが、そんな扱いをすれば彼は怒るに違いない。
セツナは、彼の瞳を覗き込んで、いった。
「冗談だよ、ラグナ」
「そんな冗談、聞いたこともないわ」
「悪かったって。ごめん」
「謝られても嬉しくないのじゃ」
ラグナは、セツナの手に抱えられたまま、そっぽを向いた。セツナはラグナを片腕で抱え込むようにすると、怪訝な反応を見せる彼の眉間から首筋にかけて、優しく撫でた。
「だから機嫌なおしてくれって」
「そ、そんな風に撫でられても、なんとも思わんのじゃ……」
ラグナは強い口調でいってきたものの、途中から気が抜けたようになった。指圧が心地良いのだろう。セツナは、ラグナがどこを撫でられると気持ちいいのか、知り尽くしていた。昨年の五月から十ヶ月、ほとんど一緒にいて、相手をしているのだ。ラグナの弱点ぐらい、わからないわけがなかった。
「なんつーか、セツナとラグナって仲良いよな」
「シーラ様もラグナのように撫でられとうございますか?」
「そ、そんなこといってねえし」
「わたくしは、撫でられたいのでございますが」
「へ、へえ……」
シーラがなんともいえないような声を上げるのが聞こえた。
レコンドール攻略戦を目前に控えたセツナたちは、そんなふうに、普段通りの過ごし方で時間を潰していった。