第千二百七十五話 マルディアの王族
セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルド率いるセツナ軍が王都マルディオンを出発したのは、十四日午後のことだった。
セツナ軍と銘打たれた軍勢を構成するのは、セツナとその従者であるレム、ラグナ、シーラ率いる女性ばかりの黒獣隊に、ウルクという女性、ミドガルドという男性、である。ウルクとミドガルドは生粋のガンディア人でもなければ、ガンディア軍に所属しているわけではないらしいが、セツナには信用のたる人物であるらしい。ユノがガンディオンに滞在しているときにそう聞いている。ウルクはとてもこの世のものとは思えないような美貌を持った女性であり、セツナを取り巻く女性たちの中でももっとも美しい女性といっても過言ではなく、その上、常にセツナの側に待機することが許されていた。ユノは、そんな彼女を何度羨ましいと思ったのかわからないくらい、ウルクを羨んだが、それはセツナ軍を見送ったいまも同じだった。
セツナ軍の出発には、大勢のひとびとが立ち会い、ひとびとは手に手を取って声援を送った。マルディア救援軍の中でも、セツナの活躍がもっとも期待されているのは当然といえるだろう。黒き矛のセツナの名は、マルディアでも知れ渡っている。ガンディアを中心として救援軍が結成されたという報せがマルディアに届いたとき、マルディアのひとびとの心を励ましたのは、ガンディアの英雄セツナがマルディア救援軍の戦力の筆頭に挙げられていたことだ。ガンディアの躍進を支えた英雄は、必ずやマルディアの地より反乱軍を根絶し、マルディアを取り戻してくれるだろうと期待された。ユノがそういった評判を伝えると、セツナは少し照れくさそうにしながら、力強く約束してくれたものだった。
『必ずや、マルディアの地を奪還してみせますよ』
無論、セツナ個人の力ではなく、救援軍の力で、と彼は付け足したものの、彼はひとりでもやる気であるかのような口振りだったし、ユノはそんなセツナをひたすら頼もしく想った。セツナがいてくれるだけで勇気が湧いたし、心強く思えた。
ユノは、セツナの本当の戦いというものは、知らない。ユノの中のセツナ評というのは、大半が話に聞いたことばかりだった。ガンディア躍進の立役者としての英雄の活躍の数々。そのすべてが実際のものなのかはわからないし、中には誇張も混じっているかもしれない。しかし、セツナの訓練や、式典での演武を見た彼女には、それら活躍の数々には嘘ひとつ混じっていないのではないかと思えた。演武でさえ圧倒されたのだ。本当のセツナはもっと強く、もっと烈しい、とレオンガンドがいっていたこともある。
ユノは、セツナの戦いを一目でもいいから見たいと想ったが、それは叶わぬ願いとなった。
遡ること一日前、シールウェールからの報告を待つセツナ軍の様子を見ていたユノは、あることを思いついた。それは、救援を依頼した王族としてある意味では当然のことだと思え、思いつきとはいえ、決して悪いことではないはずった。むしろ、絶対的に必要なことだ。ユノの中の正義はそういっている。
ユノは、兄ユリウスとともに、父親にしてマルディアの国王であるユグス・レイ=マルディアと会っているとき、その思いつきを口にした。
「父様……」
「なんだ、ユノ」
ユグス・レイ=マルディアは、国王としては若い部類に入る人物だった。まだ三十代の後半に差し掛かったばかりであり、外見からも若々しさが漲っている。もちろん、二十代の国王であるレオンガンドに比べれば年を取っているのは当然だが、三十代の国王というのも十分に若すぎる部類に入るのだという。若く、どこか神経質そうなところのある人物であるが、ユグスの国王としての有り様は尊敬に値するものであり、ユノは、心の底から父を敬い、愛していた。
国民のための国造りを標榜とするユグスは、国民の声を行政に反映することを心がけており、控えめにいって名君といわれるべき国王だった。贔屓目に見すぎていることは承知だが、ユグスが王位を継承して以来、マルディアには善政が敷かれ続けており、国民が王家や政治に翻弄されるということは一切なかった。そのことは、ユノにとって誇らしいことであり、マルディア王家の人間としての自負を植え付けるに至る。
だからこそ、彼女はユグスに提案したのだ。
「わたくしも、セツナ様に同行したいのですが」
「……同行?」
ユグスは、眉をピクリとさせた。北方人特有のきめ細やかな白い肌は、ユノとユリウスにも受け継がれている。
「はい。それこそ、マルディア王家に名を連ねるものの務めと存じ上げます」
「務め……務めか。務めならば、レオンガンド陛下にも申し上げた通り、我が国からも戦力を提供しているよ」
「まさか、それだけで済ませるおつもりですか」
「そうはいうがな、ユノ。この状況下で戦力を提供するということは、王都を丸裸にするも同然なのだぞ」
ユグスがいうように、王都マルディオンの防衛戦力はほとんど残されていない。そもそも、マルディアが保有する戦力の半数が反乱軍に身を投じている。残る半数の戦力のすべてを王都に集めるなどという芸当ができるわけもない以上、王都の戦力は少なくならざるをえない。にも関わらず今日まで王都を維持し続けることができたのは、幸運というほかない。もし、反乱軍がシールウェールではなく、マルディオンに戦力を寄越してきていればどうなったものか。
王都が制圧されていた可能性だって、十二分にある。
それくらい、王都の戦力というのは少なく、物足りなかった。そのなけなしの戦力を救援軍に差し出したのだ。ユグスとしては、それで十分だとでもいうのかもしれないが、ユノには、納得できることではない。
「戦場になるのは、王都ではなく、各地各都市です。後方の王都が安全なのはだれの目にも明らか。素人のわたくしにもわかります」
「なにがいいたいのだ」
「わたくしもセツナ様に同行することで、マルディア王家の人間も戦場に出ているのだということをマルディアのひとびとに知らしめたいのです」
「それが王家の務め、というのか?」
「わたくしは非力です。戦うことはできません。しかし、セツナ様とともに――」
「ならぬ」
「父様?」
「ならぬ」
「なぜです?」
「マルディアからは戦力を提供したのだ。あとは、救援軍を信じ、勝利の報せを待つことこそ、我らの務め。救援軍の勝利を疑うわけではあるまい?」
「もちろんです。セツナ様はお約束してくださいました。必ずやマルディアを取り戻してくださると。セツナ様はお約束を守ってくださるでしょう。セツナ様だけでありません。ガンディアの皆様、救援軍に参加してくださった国々の方々、だれもが命を賭けてこのマルディアの戦場を訪れてくれております」
勝利を疑うことなど、ありえない。
戦いとはどういうものか、ユノはよく知らない。しかし、使節団として行動をともにした文官たちにいわせれば、勝利すること間違いないくらいの戦力が得られた、ということだった。戦の勝敗を決めるのは、多くの場合、戦力差だという。救援軍は二万近い将兵によって構成された大軍勢であり、これだけの兵力があれば、さしものベノアガルドも相手にはならないだろう、と文官たちは息巻いていた。
ユノは、そういった文官たちの話や、セツナへの信頼もあって、救援軍の勝利を確信していたし、だからこそ、戦場への同行を願い出たということもある。セツナの側にいる限り、身の安全は確保されるだろうと思えるからだ。
「ならば、信じて待つことだ」
ユグスは、にべもなく告げてきた。
冷ややかな声音は、どこか空々しくもある。まるで他人事のような響きが混じっていて、それだユノには解せない。だから彼女は食い下がるのだが。
「しかし……」
「ユノが駄目ならば、わたくしでは?」
ユリウスが話に割り込んでくるのは、想定外のことではなかったものの、彼の発言内容そのものは予想外のものだった。まさか彼がそのようなことをいってくるとは思えなかったのだ。
「兄様?」
「ユノは剣を扱うこともできませんが、わたくしは、剣も、武装召喚術も使えます。ぼくなら、戦力にもなりうるし、ユノのいう王家の務めを果たすこともできましょう」
ユリウスの発言は、正論のように思えた。ユノと違うのは、戦う力の有無だ。それだけだが、それこそ絶対的な差といえるものだろう。
ユノに戦う力がないのは、王女として育てられたから当然であり、王子として、次期国王として育てられたユリウスが戦うための力を身につけているのも当然だった。その上、ユリウスはみずからの意思で武装召喚術を学んでいる。
「……ならぬ」
「父上。わたくしは、ユノの考えも大切に想います。マルディア王家は、マルディアの民草の上に成り立つもの。民草なくしては王家は成り立たない。そう仰られたのは、父上、あなたではありませんか」
ユリウスは、ユグスを見つめながら、いった。彼のいうように、ユグスは常に国民を第一に考えている。聖石旅団による反乱が起きたときもそうだった。国民が戦火に遭っていないかどうかを真っ先に気にしていたのだ。そのうえで、反乱軍による戦いで国民が被害に合わないよう配慮し、敗北を重ねた。
ユグスは、善王と呼ばれることもある。国民にとって、これほど善い国王はいない、と人々が口々にいっているほど、ユグスの政治は善良であり、国家運営も良好そのものだった。だから、聖石旅団の反乱は衝撃的であり、だれにも理解されなかった。
「この戦いは、マルディアの民草を反乱の戦火から救うためのものであり、王家の領土を回復するためのものではありません。なればこそ、我が王家は他国に救援を求めた。恥も外聞もかなぐり捨てて、他国に助けを求めた。それもこれも、王家のためではなく、国のため、民のためではございませんか」
「そうだ。ユリウス。そのとおりなのだ。民のため。国のため」
「ならば、民の上に立つものとして、王家の人間が戦場に出るべきでしょう。救援軍になにもかもを任せて、王家の人間だけは王都でのうのうと暮らしているなど、許されるべきことではございませぬ」
「……話はわかった。確かにそなたのいうことも一理ある」
ユグスは、厳かに、いう。そして、ユリウスを見つめながら、言葉を続ける。
「しかし、そなたもユノも戦場というものを知らぬ。戦場は、そなたらが思うほど優しいものではない。戦場とは死と隣り合わせの世界だ。覚悟も持たぬものが踏み込んでいい領域ではないのだ」
「覚悟ならば――」
「あると申すか? 覚悟ならばある、と」
ユグスがユリウスの言葉を封じるようにいった。ユリウスは、愕然と、父を見やった。ユノはふたりの会話に入ることもできず、自分の胸に手を置いた。鼓動が聞こえる。激しく、高鳴っている。玉座の間がこれほどまでの緊張感に包まれたのは、反乱の報せを聞いたとき以来かもしれない。それくらい、ユグスは本気の目をしていた。
「ないだろう。そなたらは、王族に過ぎぬ。王家に生まれ育ち、当然のように王家の人間としての特別性を享受してきたそなたらには、死と隣合わせの世界に足を踏み入れるだけの覚悟があろうはずもない。故に、そなたらはやれぬ。戦場にはやれぬ。救援軍の手を煩わせるわけにはいかぬ」
ユグスが玉座から立ち上がった。きらびやかな王の装束が魔晶灯の光を反射して、きらきらと輝く。マルディア王族の衣装にはマルディア特産の宝石が散りばめられている。ユノにとっては見慣れたものであり、当然のものだと思えた衣装も、ガンディアでは派手すぎたことを思い出す。そんなユノの衣装よりもずっと多くの宝石が使われているのが王の装束であり、絢爛豪華というべき代物だった。
「待てばよいのだ。救援軍にすべてを任せた。あとは、救援軍の皆様がマルディアの地より反乱軍とベノアガルドの騎士団を排除してくれることを祈っておればよい。民草の無事を、救援軍将兵の武運を、祈っておればよいのだ」
ユノの目の前を通り抜ける際、ユグスの横顔は苦渋に満ちていた。
「卑しいが、それがマルディア王家の生きる道なのだ」
そういって、ユグスはユノたちの目の前から去っていった。話は終わり、ということだ。これ以上、聞く耳は持たないという意思表示であり、今後、同じ話題をしても聞いてはくれないだろう。
ユグスの背中が玉座の間から消えると、玉座の間は、途端に緊張感から解放されるとともに圧倒的な静寂に包まれた。
「父様……」
卑屈に表情を歪めたユグスのことは、ユノは生涯、忘れることはないだろう。苦味を噛み締めた表情からは、ユグスの中の様々な苦悩を感じさせるものであり、ユノはそれ以上掛ける言葉が見つからなかった。ユノはユノなりにさんざん考えぬいて、セツナと同行するべきだと思ったのだが、ユグスはそれ以上に考え抜いているに違いなかった。
ユノは、自分の視野が狭いことを知っている。周囲のことしか見えないし、ひとつのことに集中すると、周囲のことさえ見えなくなる。悪い癖だが、どうしようもない。今回もそうだろう。セツナしか見えていないから、あのような結論に至ったのだ。
「卑しい……か」
「兄様」
「ユノ。君の考えは間違いではないよ。ぼくか君のどちらかでも救援軍に同行するべきなんだ。でも、父上はそれをわかってくださらなかった。ううん、わかっているはずなのに、許して下さらなかった」
「父様には父様のお考えがあるのでございましょう」
「そうだろうね。卑しくも王家を存続させることを選んだんだろう」
「王家の存続……」
「ぼくらのような戦場のせの字も知らないような子供が救援軍に同行するのは、みずから死地に赴くようなものだということさ。もちろん、救援軍がぼくらを前線に出すとは思えないし、手厚く保護されるのが落ちだろうけれど」
ユリウスは、自嘲気味にそういってから、はっと表情を変えた。
「……そうか。それを考えると、同行しないほうがいいのか」
「兄様?」
「ぼくらが同行した場合、救援軍はどうする?」
「どう、と仰られましても……」
ユノは、兄の唐突な質問に困惑した。ユノは軍事に疎い。ユノが救援軍に同行したからといってなにがどうなるのかなど、考えようもない。
「救援軍はぼくらを護るために戦力を無駄に割かなければならなくなる。たとえ後方に控えていても、だ。そうせざるを得ない。反乱軍にぼくらを討たれるわけにはいかないのだから、それなりの戦力をぼくらにあてがう必要がでてくる」
「そう、なりますね……」
「ぼくらの自己満足のために救援軍に同行するということは、救援軍に負担をかけるということになるんだ」
「では、やはり、父様の仰る通り、ここで救援軍の勝利を待つのが正しいのでしょうか」
「そうなるね」
玉座の間を歩きながら、ユリウスがうなずく。ユノは兄のあとを付き従いながら、玉座の間を後にする。だれもいなくなった玉座の間にいつまでも留まっている理由はない。
「もちろん、ユノ、君の考えが間違っているとは思えない」
「兄様……」
「ぼくも、できればセツナ様についていきたかったし、そうするべきだと思う。それが民草の上に立つもののあるべき姿だと思うから」
「はい……」
ユノは、ユリウスの言葉にうなずき、兄が自分と同じ思考をしているということが嬉しかった。その上、好意の種類こそ違えど、互いにセツナを敬愛しているのだ。それが双子の兄妹として素直に嬉しい。
昔からそうだった。ユノはユリウスとなにもかも同じだった。ただひとつ違うことがあるとすれば、ユリウスが男で、ユノが女として生まれたということだ。そのたったひとつの違いが、大きな違いとなって現れている。
ユリウスは王子として、次期国王に相応しい人物となるべく育てられた。剣、槍、弓、馬――戦いに必要な技術を学び、政治や軍事についても、しっかりと教えられている。ユリウスは、ユグスの跡を継ぐことになっている。当然だ。
ユノは王女として、王家の人間に相応しい人物たるべく育てられた。政治、軍事とは無縁の人生を送ってきたのは、そのためだ。ガンディアへの使節団としての派遣が、初めての政治活動といってもよかった。政治活動と呼べるほどのことはしていないかもしれないが。
その政治活動が実を結び、救援軍が結成されたことは、彼女としても喜ばしいことだった。
なにより、セツナが期待していた以上の好人物であり、彼と同じ空間にいるだけで幸せになれたことは、望外のできごとだった。まさか、このような形で最愛の人を見つけることになるとは思いもよらなかった。
もっとも、この想いを遂げることはできまい。
ユノは、王女だ。王位継承権を持たない。王位を継ぐのはユリウスであり、ユリウスにもしものことがあれば、ユノではなく、従弟のユギトが継ぐことになっている。ユギトは、ユグスの実弟ユガラの第一子だ。ユガラには三人の息子がいて、それぞれ王位継承権を持っている。王族の男児だけが王位継承権を持ち、女児に王位継承権が与えられることはなかった。
王女は、政治利用される運命だ。
ユノも、そうなる。
そういう覚悟があるから、いま、この恋を全身全霊で感じていたいとも思うのだ。
セツナを見送ったユノの胸の中には、そのような感情がずっと渦巻いていた。