第千二百六十九話 霧の果て
グラード=クライドは、戦場と化したシールウェールの街角に立っていた。周囲には、ログナー方面軍の大軍団長たる彼の側近たちが控えている。誰も彼も強面の戦士ばかりだが、指揮官としての能力を有した優秀な将校たちでもあった。彼らは、グラードを護る盾として機能している。側近たちと、その部下たちが、グラードの周囲を囲んでいるからだ。
大軍団長であり、この別働隊の指揮官でもあるグラードが、もし討たれるようなことでもあれば、大問題だ。それこそ、別働隊の敗北といってもいい。だから指揮官は後ろに下がっているべきなのだが、この戦い、グラードが後方にいることはあまり好ましくはない、とのことだった。後方は、必ずしも安全ではないという。
エイン=ラジャールの意見だ。
ログナー時代、飛翔将軍アスタル=ラナディースの寵愛を受け、才能を見出された彼は、いまや次代の軍師候補として、ガンディアでその名を知らぬものがいないほどになっていた。そうもなろう。軍師ナーレス=ラグナホルンに才能を愛され、薫陶を受けてきたのだ。数多くの戦場でその能力を発揮し、戦術家としての才覚は、ガンディアでも一、二を争うに違いない。
そんな彼がいうのだ。間違いはあるまい。
『後方に指揮官がいるということが知れれば、敵はまず間違いなく“剣聖”を差し向けてくるでしょう。“剣聖”が相手となれば、さすがの大軍団長でもどうなるものか』
エインは言葉を濁していったが、要するに、グラードが“剣聖”トラン=カルギリウスとぶつかれば、十中八九敗れ去るというのだ。グラードもその意見に同意だった。“剣聖”トランの噂を知れば知るほど、彼がグラードでは対処しようのない相手だということがわかる。
故にエインは、“剣聖”に“剣鬼”と“剣魔”をぶつけた。圧倒的な戦力を封殺するには、ほかに方法がない。しかし、それで後方の安全が確保されたとはいいがたく、場合によっては、“剣聖”がグラードを討つために派遣されてくるかもしれない。それならばいっそのこと、火中に身を置いてはどうか、というのがエインの策だった。
指揮官のグラードが前線に出ることで、敵の注目を集めれば、敵は戦いを終わらせるべく、グラードに戦力を集中させようとするだろう。グラードさえ討てば、救援軍別働隊の士気は著しく下がること間違いない。どうあがいたところ、そうなる。撤退を余儀なくされるかもしれない。即座に指揮権を移譲することができたとしても、だ。下がりきった戦意を取り戻すのは、容易ではない。
敵は、グラードの突出に好機を見る。
それこそ、エインの思惑だ。
突出した指揮官を討つためならば、“剣聖”を呼び戻すまでもないと判断するだろう。そもそも、“剣聖”を呼び戻せば、“剣鬼”と“剣魔”をもこの市街地に呼びこむことになる。それだけではない。ベレルの騎士団や傭兵たちも市内に乗り込んでくることになり、戦場は混沌と化すだろう。数の上での別働隊の有利は圧倒的なものとなり、覆しようがなくなる。そのとき、グラードを討つことができたとしても、もう手遅れだ。市内が救援軍に制圧されたも同然なのだから。
(だから、来る)
グラードは、飛来した矢を手掴みで受け止めると、足元に投げ捨てた。投げ返して当てられるほどの距離ではなかったし、当てられたとしても急所には刺さるまい。
立ちどころに喚声が上がったかと思うと、前方に降って湧いたかのように敵部隊が現れた。どこから現れたのかと思えば、グラードたちの前方の家屋の中からだった。ずっと家の中に潜んでいたわけではあるまい。別の場所と繋がる地下通路でもあったに違いなかった。
敵部隊は少数精鋭らしい。漲る殺気が、これまでの敵兵とは比べ物にならないほど鋭く、彼は、側近たちを退かせた。敵部隊の先頭の男が持つ槍が奇妙だった。穂先から石突きまで真っ青に染め上げられた槍。奇抜な槍だ。召喚武装かもしれない。
「我が名はネオ=ダーカイズ! マルディアに真の平穏をもたらすため、国を売り渡さんとするマルディア王家を打ち払うため、貴様らを討つ!」
「名乗る無用!」
とはいったものの、グラードは、内心歓喜した。シールウェールを制圧した反乱軍の指揮官がみずから名乗りでてくれたのだ。これほど嬉しいことはない。無論、手柄を上げられるから嬉しいのではない。指揮官を討つことさえできれば、反乱軍の士気は、火が消えるような勢いで下がっていくだろう。戦意を失った軍勢を蹴散らすことほど楽なものはなく、また、指揮官を失った軍勢は、降伏するか撤退するかのどちらかしかなく、反乱軍の場合は撤退を選択するに違いない。
もうひとつ、歓喜した理由がある。
それこそ、未来の軍師候補たるエイン=ラジャールの狙いが見事に的中したからであり、敵軍が彼の思惑通り、いや、思惑以上に術中に嵌ってくれたからだ。
指揮官という餌に釣られたのだ。
劣勢になった以上、逆転を狙うのであれば、指揮官を討つほかない。
そして、決定力を持った戦力がネオ=ダーカイズをおいて他にないのであれば、ネオ=ダーカイズ本人がグラードを襲撃するしかなかったということだ。
「迎撃! 迎撃ぃっ!」
グラードの側近のひとりが叫び、側近たち、配下の兵士たちが一斉に動く。ネオ=ダーカイズは少数の部隊を連れているのみであり、数の上ではこちらのほうが多い。だが、グラードは、数的有利に驕らなかった。部下の動きを制して後退し、敵を誘導する。ネオらは、グラードの首しか見えていないとでもいうかのように、グラードの思惑通り追従してくる。猛追といっていい。ネオ=ダーカイズの血走った目は、グラードを殺し、救援軍別働隊を撃退することしか頭にないということを如実に表しており、自分がこちらの術中に嵌っているという自覚さえないようだった。なればこそ、グラード隊の後退の意味を考えようともせず、突っ込んでくるのだ。
グラードは、ネオ=ダーカイズそのものよりも、彼の持つ青い槍を警戒した。青一色の槍は、召喚武装かもしれない。聖石旅団には武装召喚師がいるという話だったし、当人が武装召喚師でなくとも、召喚武装を利用することは必ずしも不可能ではない。グラードのように、召喚武装を貸し与えられている可能性も、貸し与えられたまま召喚者が死亡し、自分のものとなった可能性も少なくはない。
召喚武装ならば、なにかしらの能力を持つ上、装備者の身体能力を強力に引き上げるという特性を持つ。たとえ召喚武装そのものの特異な能力が戦闘向きのものでなくとも、五感や身体能力の強化だけでも十分に強いといってもよかった。特に、召喚武装を持たない常人との戦力差は明らかなものとなる。
故にグラードは配下の兵士たちをネオ=ダーカイズにぶつけようとはしなかった。いくら精兵揃いのログナー人とはいえ、召喚武装の使い手を相手に戦い、打ち倒せるとはとても思えない。無駄に命を散らせるだけだ。たとえ召喚武装でなくとも、警戒するに越したことはなかった。
後方へ、後方へ。
自陣のまっただ中へとネオらを誘い込み、ひとり、またひとりと味方の弓兵の餌食にしていく。降り注ぐ矢の雨がネオ=ダーカイズを除く彼の部下をすべて打ち取ったとき、ようやく、彼は正気を取り戻したようだった。
「おのれ!」
ネオ=ダーカイズは、指揮官たる自身を護る肉の盾を失い、裸同然となったことを悟り、吐き捨てるようにうなった。だが、こうなった以上はもはや止まれないとばかりにグラード隊を猛追する。グラードは部下たちを散開させると、ネオ=ダーカイズにただひとり立ち向かった。彼の青い槍が召喚武装であることは、ここに至るまでに判明している。ネオが無傷でここまできたこと、それこそ召喚武装である証明となるだろう。飛来する矢のことごとくを青い槍で切り飛ばし、叩き落とし、弾いている。神業のような槍捌きは、召喚武装の使い手ならではのものといってもいい。でなければ、超人の類だろうが、ネオ=ダーカイズが超人ならば、マルディアにおいてもっと評価されているべきであり、そうでない以上、召喚武装と判断するのが正しい。
召喚武装使いには、召喚武装使いをぶつける。
(それが、現代の戦の鉄則)
グラードの脳裏には、いつもの笑顔で説明するエインが浮かび上がって、彼を苦笑させた。
それが、ネオ=ダーカイズの怒りを買ったらしい。
「なにがおかしい!」
怒気を発した彼は、きっと、周りが見えなくなっていたのだろう。周囲の状況を完全に近く把握しているグラードとは、そこが違っている。救援軍に押されに押され、精神的にも物理的にも追い詰められたことによって、状況を把握するだけの余裕を失ってしまったというべきか。グラードは、しかし、相手を哀れにも思わなかった。指揮官を任された以上、常に冷静さを保つべきであり、冷静さを失った以上、敗北し、死ぬのは道理だ。
「おかしいさ」
グラードは、猛然と突っ込んできたネオ=ダーカイズの眼前で拳を構えた。得物は不要。武器は、全身を覆う甲冑だ。ディープクリムゾン。ログナーの青騎士にして天才武装召喚師ウェイン・ベルセイン=テウロスの形見であり、ウェインとの絆の証。それを思うだけで力が湧く。湧き上がった力が熱量となって甲冑の全部位から右手に集中する。手甲が発熱し、光を帯びた。光を帯びるのは、ネオの槍も同じだ。青く燃えるように輝いていた。召喚武装。グラードは、自分の判断が間違っていなかったことを知った。そして、踏み込み、振り下ろされる槍の切っ先に拳を叩き込む。召喚武装同士が激突し、凄まじい衝撃音が発生する。反動がグラードの全身を貫く。強大な力同士の激突は爆発となって戦場を揺らした。だが、グラードは吹き飛ばない。ネオ=ダーカイズもだ。槍を振り抜き、愕然とした。槍の穂先が吹き飛んでいたからだ。グラードに押し負けたのだ。
「馬鹿なッ!?」
彼が信じられないというような声を発した瞬間だった。彼の背後を一頭の騎馬が駆け抜け、彼の胴を背中から薙いでいった。馬上太刀による一閃。血が噴き出し、ネオ=ダーカイズの体が、糸が切れた人形のように崩れ落ちる。一瞬だった。一瞬の出来事。
グラードは、手柄を掻っ攫っていった部下の後ろ姿を見やり、小さく笑った。
「ドルカめ、やりおる」
もちろん、グラードの思い描いた通りの結果であり、シールウェールのどこかから手に入れた馬に乗って離れていくドルカを恨むこともない。そもそも、指揮官たるもの、敵指揮官の首級を上げることに固執してはいけないし、そんなことを考えてもいなかった。グラードは、ネオ=ダーカイズの注意を引き、彼を隙だらけにすることだけを目的に動いていたのだ。ネオがグラードを殺すことに固執していたのとはまるで逆だ。ネオは、グラードを殺すことで、なんとしてでも救援軍を撤退させたかったに違いない。その結果、周囲が見えなくなっていた。馬に乗って接近するドルカにも気づけなかったのだ。ドルカは、グラードとネオの戦いに参加し、グラードを援護するつもりだったのだろうが、グラードは、全速力で迫り来る彼にネオを打たせる方法を思いつき、実行に移した。ネオの槍を破壊したのもそれが理由だ。ネオが槍を手にしていれば、いくらドルカの接近に気づかずとも、対応できたかもしれないからだ。ここでドルカを失うのは、大いなる損失といわざるを得ず、失わずに済んでよかったというほかない。
グラードは、ドルカの一閃によって絶命したネオの亡骸を見下ろし、部下に見分させた。
ネオが用いた青い槍は、もはや使いものにならないだろう。穂先を破壊してしまっている。召喚武装は、原型を失えば失うほどに力を失っていく。特に召喚武装の機能を著しく損なうような損傷ほど、能力の消失は大きく、剣ならば刀身、槍ならば穂先を破壊されると、本来の能力をまったく発揮できなくなるどころか、五感の強化などの補助さえしてくれなくなるという。身体能力の強化だけでも十二分に役立つのだが、槍を拾ったところ、なんの反応もなく、彼はそれを部下に預け、保管するよう命じた。
ディープクリムゾンのほうは無傷だった。あれだけの力の激突でも無傷なのだから、いかにこの召喚武装が優れているかがわかるというものであり、ウェインがどれほど優れた武装召喚師だったからうかがえるというものだ。
グラードは、ウェインの武装召喚師としての実力は、彼が生きている間はついぞわからずじまいだった。それは、ログナーの武装召喚師といえば、ウェインくらいしかいなかったことが大きい。比較対象がいないのだ。それでは、武装召喚師としての力量を図ることなどできるわけもない。彼が武装召喚師ということくらいしかわからなかったのだ。そして、当時はそれだけで十分だった。彼がログナーで唯一の武装召喚師であり、グラードにアスタル=ラナディースの盾となるための力を与えてくれたのだ。それ以上のなにかはいらなかった。だから、だれかと比較する必要など生じなかった。
彼が死んでからというもの、グラードは数多くの武装召喚師を見てきた。それら多くの武装召喚師たちは、たったひとつの召喚武装を呼び出し、維持するので精一杯であり、ウェインのように自分の召喚武装とグラードの召喚武装、さらに自分の攻撃用の召喚武装まで呼び出せる武装召喚師など、ついぞ出会わなかった。
複数の召喚武装を召喚するのは、簡単なことではないという。多大な負担がかかる上、消耗も激しく、実用的ではない。
それを平然と行っていたのがウェインであり、そのことをガンディアの武装召喚師たちに話すと、信じられないという顔をされたことを覚えている。
「反乱軍の指揮官ですね」
不意に話しかけてきたのは、エイン=ラジャールだ。グラードは、ネオを前線から後方まで誘導している。エインは後方で待機していたのだ。戦闘の様子さえ見えていたかもしれない。
「……ああ。ネオ=ダーカイズと名乗ったのだ。間違いないだろう」
「ネオ=ダーカイズ……聖石旅団の幹部ですな」
と口を挟んできたのは、ドルカ=フォームであり、彼は馬から降りている最中だった。
「あー、手柄を掻っ攫ったひとだー」
「はっはっは! 横取りされる方が悪いってね」
「そのとおりですけど!」
「否定しないんですね?」
ニナ=セントールがいつもの無表情でエインに問う。彼女は、ドルカから受け取った馬の手綱を部下に任せるところだった。
「まあ、否定するほどのことでもないし。なにより、倒せたならそれでいいしね」
エインも、個人的な手柄、武勲に頓着のない人間だった。彼の場合は、とくにそうだろう。だれが手柄を上げようが関係がない。彼の場合、戦いに勝つかどうかがすべてであり、その上で自軍の損害をどれだけ抑えられるかが問題だった。勝利できたとしても、多大な損害を出せば、彼の手柄にはなりえない。
損害を出すということは、それだけ戦術が機能しなかったということになる。
「指揮官は討った。状況はどうだ?」
「ご覧のとおりですよ」
エインが周囲を見回しながらいった。グラードは周りを見ずとも、気配だけで状況を把握する。シールウェール市内に点在し、救援軍と交戦していた反乱軍兵士たちがいなくなっていた。指揮官の死の報せを受け、すぐさま撤退を開始したということだろう。ここまであっさりと撤退するとは思わなかったが、指揮官を失った以上、戦闘を続けることはできないと判断したのだ。
「反乱軍、シールウェールからの撤退を始めています。豪槍騎士団が追撃したがっていますが、どうします?」
「追撃はよすべきだろう。指揮官を討ったとはいえ、敵主力は……」
「ええ、“剣聖”はいまのところ健在ですからね。せっかくシールウェールを奪還できた以上、追撃して無駄に損害を出す必要はありませんね。まあ、豪槍騎士団としては、手柄をあげたいのでしょうが」
「それはわかるがな」
グラードは静かに肯定した。豪槍騎士団は、今回の戦いではなにひとついいところがなかったといっていい。先陣を務めたものの、“剣聖”たちにいいようにやられ、二百人ほどが戦死したという。負傷者も多数出ており、別働隊の中で一番被害を出しているのではないか。このまま黙ってはいられないと思うのも無理のないことだった。
追撃戦をするだけの余裕もある。
とはいえ、“剣聖”が未だに健在である以上、追撃は藪蛇となりかねず、シールウェールを反乱軍の手から奪還できただけで良しとするべきだった。
頭上、空に陽光が差し始めていた。
夜明け前に始まった戦いは、夜明けとともに終わりを迎えたのだ。