第千二百六十五話 剣鬼と剣魔と黒き矛(前)
「早いな」
不意に話しかけられたのは、夜明け前のことだった。
十三日黎明。
朝日が登るよりも少し前の時間帯だった。
マルディア王都マルディオンは、静寂に包まれていた。それこそ、内乱の真っ只中ということを忘れてしまうほどの静けさは、平穏や安寧といった言葉がよく似合った。しかし、静寂の中に満ちた緊迫感がその感想がただの勘違いに過ぎないということを悟らせる。戦争の真っ只中。しかも、王都の西に位置する都市シールウェールは、反乱軍の制圧下にあり、救援軍別働隊による奪還作戦が実行に移されようとしている最中なのだ。たとえだれもが寝静まっている頃合いであったとしても、圧倒的な緊張感に包み込まれていて当然だった。
シールウェールの奪還に万が一でも失敗すれば、シールウェールは反乱軍の一大拠点となり、王都侵攻の足がかりとされることは明白だ。それを防ぐために救援軍は急遽別働隊を編成、シールウェールに派遣したのだが、そのシールウェールには、“剣聖”と謳われる人物がいるという。トラン=カルギリウス。話を聞く限りではとんでもない人物のようであり、伝説的な剣士といってもいいようだ。
セツナが噂を耳にしたこともなかったのは、“剣聖”がつい最近までエトセアにいて、ガンディアと直接関ることがないからだったのだろう。無関係な情報まで仕入れるほど、セツナの頭に余裕が有るわけではない。だとしても、ルクスやエスクならそれくらいのことは知っていただろうし、教えてくれても良さそうなものだが。
案外、ふたりともセツナの頭の容量がどれほどのものか認識していて、気を使って教えてくれなかったのかもしれない。
「あんまり眠れなくてさ」
セツナは、背後を振り返りながら、いった。
セツナがいまいるのは、セツナ軍に充てがわれた屋敷の中庭であり、セツナは、なんの気なしに小さな池の中を覗き込んでいたのだ。夜明け前。頭上には、黎明の空がひたすらに美しく輝いていた。
振り向いた先には、シーラがいた。長い白髪をめずらしくひとつに束ねている。
「……まあ、そうだろうな」
彼女は、なにか言い淀んでいるようだった。ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。ほかにはだれもいない。ラグナも眠り込んでいるし、レムは朝食の準備をするといって厨房に入っていた。ウルクは、昨夜からミドガルドの元で調整中だった。じきに戦いになるかもしれない以上、常に最適の状態を保っていおきたいというのがミドガルドの望みであり、ウルクもそうすることがセツナのためになるのなら、といっていた。ミドガルドはともかく、ウルクがなぜそうまでして自分のことを考えてくれるのか、いまだによくわからないが、ありがたいことだ。ウルクは、戦力になる。
「なんだよ?」
「い、いや、まあ、眠りにくいだろうと思ってさ」
「……ん? ああ、そういうことか」
セツナは、シーラのしどろもどろな言い方から、彼女がなにを指摘したがっているのか理解した。彼女は、ミリュウのことをいっているのだ。
昨夜、ミリュウはセツナの寝床で寝ていた。彼女がセツナと一緒に寝るといいだし、ファリアが了承し、レムもラグナが一緒ならということで不承不承ながらも納得を示したことで、ひとり反対するシーラの発言も虚しく、実行に移されることになった。そこでセツナが発言する権利はなく、彼女たちの結論に唯々諾々と従うしかなかった。
無論、反対しようと思えばできただろうし、反対したとして、そのことで問題が起きるとは思えない。
だが、セツナは、できる限り彼女たちの思う通りにさせてやりたいとも考えていた。
単純な理屈だ。
セツナは今日に至るまで、散々、周囲の人々に迷惑をかけてきた。心配させてきたのだ。ニーウェとの戦いなど最たるもので、ファリアやミリュウをはじめとする、セツナを大切に想ってくれているひとたちにどれほどの心労を与えたのか。想像を絶するところがある。セツナが逆の立場なら、心臓が張り裂けそうなほどに感じたかもしれない。そういったことを度々してきている。無理や無茶をするな、と皆がいうのは、そういうことがあるからだろう。心臓に悪いのだ。
だからせめて、彼女たちの我儘はできるだけ聞こうと考えたのだ。それがせめてもの償いになるかもしれない。
『反対、しないんだな?』
あとでこっそりとファリアに聞いたのは、意外にも彼女がミリュウの言動を咎めなかったことに引っかかりを覚えたからだった。
『意外かしら』
ファリアは、いたずらっぽく微笑んだものだ。
『ミリュウの精神状態が不安定なのよ。ここのところずっとね。でも、君といると安定しているみたいだし、君と一緒にいることが彼女の精神状態を安定させることに繋がるのなら、そういうのもありかなって想っただけよ』
まるで姉が仲の良い妹に向けるような表情で告げるファリアなりのミリュウへの心遣いに、セツナは胸を打たれた。
ミリュウの精神状態が不安定なのは、なんとなくわかっていたこともあり、異論を挟む余地はなかった。ミリュウは元々情緒不安定なところが垣間見れていたが、“知”を継承したときから顕著になり、龍府の旧リバイエン邸に篭もるようになってからより激しくなった。セツナの有無が彼女の精神状態に与える変化が大きくなったというべきか。そういった話をミリュウ本人ではなく、周囲から聞くようになっていたのだ。セツナも彼女のことが気になっていたから、彼女の精神状態が少しでも安定し、改善するというのなら、彼女と一緒に寝るというのもいいだろう。
とはいえ、そのことが眠れなかったことと繋がるわけではない。ある意味では慣れたことだった。
「ミリュウのことはさ、関係ないんだ」
「そうなのか……」
「慣れたことでもあるし」
セツナが当然のようにいうと、シーラが全身で驚いてきた。
「え!?」
「え?」
「そ、そうだったのか……」
なにやら愕然とする彼女にセツナは嘆息とともに告げた。
「なにを勘違いしてるのかしらないが、たぶん、シーラの想像しているようなことはないからな」
「え!?」
「……ミリュウとかレムが勝手に寝室に入ってくることに慣れてるだけだよ」
「そ、そうか……」
なにやらほっとしているような、それでも納得出来ないような複雑な表情を浮かべるシーラに対し、セツナはなんともいえない顔になった。シーラが勘違いするのも無理のないことだ、ということもよくわかる。冷静になって考えてみれば、男と女が同衾してなにもないほうが不思議だ。しかも、ミリュウはセツナに惚れ込んでいて、セツナも満更ではないという顔をしている。なにかあって然るべきなのだろうが、セツナが行動に移らない以上、なにか進展するようなことはなかった。ミリュウは積極的に見えて消極的であり、それがミリュウのミリュウたる所以だった。
話を続ける。
「師匠とエスクのことがな」
「“剣聖”相手に無事で済むかどうかってことか?」
「ああ。強いらしいし」
「強いな。話を聞く限りはさ」
シーラは、どこか遠い目をしていた。シールウェール奪還のための別働隊が編成されたとき、落胆していたのが彼女だ。戦士として生きることばかり考えていた彼女には、強い敵と戦いたいという欲求があるのだろう。“剣聖”トラン=カルギリウスは強敵も強敵だ。話を聞く限りでは、これまで戦ってきたどんな戦士よりも強そうだった。彼女が戦ってみたいと思う気持ちも、少しはわかる。
セツナは戦闘狂ではないが、戦場に身を置く以上は、弱い敵よりも強い敵と剣を交えたいと考えるところがある。シーラもそうだろう。彼女も、別に戦闘狂というわけではない。戦いがなければ生きていけないということではないのだ。
「“剣鬼”と“剣魔”ほど?」
「さあなあ。“剣聖”が活躍した舞台はエトセアで、それ以前はヴァシュタリアだからな。よくわかんねえし」
「だよな」
「信じるしかねえんじゃねえの? 俺は、エスクは嫌いだが、実力は知ってるからな。あいつがそう簡単に負けるとは思えねえ」
「それはわかってる。師匠もさ。負けるはずがないって思うよ」
ルクス=ヴェインとエスク=ソーマ。立場も性格もまるで異なるふたりは、どちらもセツナの師匠でもあった。ルクスからは剣の扱い方を学びながら、戦いの基本を叩きこまれた。エスクからはさらにその先を学んでいる最中といってもいい。エスクは、剣よりも矛の使い方を習熟するべきだ、といい、彼との訓練では木槍を用いている。
ふたりとも、師匠という贔屓目なしに強い。
そのふたりが負けるかもしれない、とは、思いもしない。
しかし、不安要素がないわけではないのだ。
ふたりの絶対的なまでの相性の悪さは、勝てる可能性さえ消しかねないのではないか。
「でもあのふたり、仲悪いからさ」
セツナの脳裏には、ガンディオンを発つ前、ふたりして隊舎で休んでいた彼の元を訪れたふたりの姿浮かんでいた。その後のやりとりから、ふたりの相性の悪さが露呈したのだが。シーラは意外な反応を見せた。
「そうか?」
「ん?」
「俺は、あのふたりが仲良く酒を酌み交わしてるところを見たんだが」
「そうなのか?」
「だから俺はなんの心配もないと想ってるよ。あのエスクが仲良くしてたんだからな」
「あのエスクが……ね」
生粋の皮肉屋で、主であるセツナにさえいつも皮肉や嫌味をいってくるのがエスク=ソーマという人間だった。セツナほどの立場となると、そういう人間はむしろ貴重といっていい。なにしろ領伯だ。普通、嫌われるような可能性のある言葉を面と向かってぶつけようとはしないだろう。だが、エスクには遠慮という言葉がないのだ。だれに対してもそうだから、彼がだれかと仲良くしている姿というのは、想像しにくかった。
特にエスクがルクスと仲良く酒を飲んでいる様子など、思い浮かべることもできない。
セツナの脳裏に浮かんだ光景には、ふたりが剣をぶつけ合う様があったからだ。
『よお、馬鹿弟子』
ルクスがそんな風に話しかけてきたのは、いまや随分前の話になる。マルディア救援軍が王都ガンディオンを旅立つ前のことであり、ニーウェとの戦いが終わって、しばらく過ぎてからのことだった。
『ちょい面貸せや』
ルクスらしくない発言に目を丸くしながら、彼の後についていった先には、エスクが待っていた。
ルクスとエスク――“剣鬼”と“剣魔”のふたりが並び立ち、セツナと対峙したのだ。
『マルディア救援を前に落ち込んでいる大将に朗報です』
『俺たちが全力で戦ってあげよう』
『はい!?』
脈絡もないふたりの申し出に、セツナは素っ頓狂な声を上げたものだった。