第千二百六十三話 霧の中へ
翌日、三月十三日黎明、シール川周辺には濃霧が発生していた。
警戒のための火が焚かれていたこともあって夜中に至るまではっきりと見えていたシールウェールの様子も、まったくもって見えなくなるくらいの濃霧は、マルディア救援軍別働隊の動きを鈍らせるに至る。周囲四方の様子さえよくわからないほどなのだ。シール川の浅瀬に辿り着くのも困難を極めた。もっとも、浅瀬の場所を見失うことがないよう、しっかりと目印はつけてあったし、その点では問題はなかった。問題は、遅々として進まない進軍だ。
「さっすがはエイン君。こうなることを見越していたか」
「さすがにここまでのものだとは想像もしていませんよ」
エイン=ラジャールは、ドルカ=フォームの発言に眉根を寄せた。全周囲、濃厚なまでの白霧に覆い隠されていて、ただ歩くことにさえ慎重にならなければならなかった。
「だが、おかげで反乱軍はこちらの動きを察知できていまい」
気を引き締めながらそういったのは、グラード=クライドだ。ログナー方面軍大軍団長にして第一軍団長である彼は、この別働隊の指揮官に任じられている。
「ですな」
「これで我々は難なくシールウェールに到達できるというわけだ」
「それもこれも未来の軍師様のおかげってことっすな」
「俺を持ち上げてもなにもでませんよ」
「わかってるってー」
ドルカの言動はあまりにも軽い。そのことが気になったのだろう。ドルカの副官であるニナ=セントールが彼に注意した。
「軍団長、もう少し真面目にしてください」
「ええ!? 随分真面目なんだけどなあ」
「どこがですか」
「ひどい! ニナちゃん酷い!」
「はあ……」
ニナ=セントールがため息をつきたくなるのもわからないではないものの、別働隊はドルカのよくわからない元気によって活力を得ているという側面もないではなかった。特にドルカ配下の第四軍団は、ドルカによってよく訓練されていることもあり、ドルカが気を張れば気を張るほどやる気になり、活発化した。そして、第四軍団の活気に引きずられるように第一軍団も活力を得、ログナー方面軍がそういった勢いを見せれば、《蒼き風》、《紅き羽》の傭兵たちも、シドニア戦技隊も、ベレル豪槍騎士団も、負けじとやる気を見せるのだ。
ドルカには、将器があるのかもしれない。
エインは、ドルカとニナのやり取りを聞きながら、そんなことを思った。グラード=クライドとはまた違った種類の将だが、悪くはない。彼ならば、いずれ大将軍にもなれるかもしれない。が、無論、大将軍の道は遥かに険しく、遠い。大軍団長、副将、左右将軍と歴任して、ようやく大将軍になれるかどうかなのだ。
ドルカが大将軍になるには、今後さらなる実績を積み重ね続けなければならず、エインはそのための協力を惜しまないつもりだった。
グラードよりもドルカのほうが御しやすく、また、若いというだけの理由だ。グラードがもう少し若ければ、グラードを推すのも吝かではなかったのだが。
(それはそれとして――)
エインは胸中でつぶやくと、周囲の状況を把握するべく意識を変えた。
周囲。濃霧に覆い隠されている。数歩先が見えなくなるほど濃厚な白霧は、グラードの言う通りシールウェールの反乱軍からこちらの動きを隠し通す壁となってくれている。歩き難いことこの上ないが、川を越えるまで霧が晴れるということはないだろう。霧が出始めたのと同時に進軍を開始しているのだ。
そろそろ、別働隊の先頭集団がシール川の浅瀬に到達する頃合いだった。霧がもう少し薄ければ、とっくに渡河を完了している頃合いといってもよく、いかに霧の濃度が濃いかわかるというものだろう。
濃霧は肌にべたつくようであり、呼吸さえも困難なものとする。まるで溺れているようだった。溺れて、空気を求めてあえぐような感覚の中で、先を急がなければならない。頭脳労働が主な仕事であり、肉体を鍛えることを怠りがちなエインには、少しばかり辛い。
エインの部下たちは、別働隊が道に迷わぬよう、浅瀬まで先行していた。目印があるとはいえ、この濃霧では迷いかねない。先頭集団が道に迷えば、後方の部隊まで迷走することになるだろう。それだけは避けなければならない。
やがて、エインたちも川に至った。シール川の浅瀬は、シールウェールのちょうど南西辺りにあり、シールウェールの城壁上からの射程範囲内に踏み込まなければならなかった。しかし、弓射の音は聞こえない。別働隊の浅瀬を渡る音だけが聞こえた。
「矢は飛んできていないようだ」
「反乱軍、完全にこちらの動きを把握していませんな」
「濃霧の盾のおかげだな」
グラードがどこか嬉しそうにいった。同郷であるエインの活躍を喜んでくれているのだろう。グラードにせよ、ドルカにせよ、ログナー人であることにある種の誇りを持っている人間は、少なくない。エインとしては、どうでもいいことではあるのだが。
エインがアスタル=ラナディースを始めとするログナー人を頼りにしているのは、実力が伴っているからに過ぎない。たとえばアスタルに実力が伴わなければ、代わりにデイオン=ホークロウに近づき、彼を盛り立てようとしただろう。デイオンは若くはないが、将としての能力は折り紙つきだ。しかし、幸いなことにアスタルにはデイオンに勝るとも劣らない能力があり、また、エインとは浅からぬ関係がある。彼女を頼り、盛りたてることに躊躇する必要はなかった。同様に、グラード=クライドやドルカ=フォームをことさら重視するのも、彼らの能力がエインの未来図に必要だと判断したからだ。しかし、ドルカやグラードに取って代わる人材が現れれば、すぐさまそちらを取り上げるだろう。それくらい、エインは冷ややかに周囲を見ている。
そもそも、エインがガンディアの軍師を目指しているのは、ログナー人の地位や立場を向上させるためではない。
セツナのためだ。
セツナとともに生きていくためには、セツナが愛するこの国を良くする以外にはない。そのために参謀局に入り、そのためにつぎの軍師を目指した。アレグリア=シーンという同志を得たいまとなっては軍師になることに拘る必要はなくなったものの、彼の根本にあるのは、いつだってセツナだった。
セツナという脅威を目の当たりにした瞬間、彼の人生は変わった。
花開いたといってもいい。
セツナの活躍によってログナーは滅び、数多くの同国人が死んだものの、そのことでセツナを恨むことはなかった。むしろ、セツナに感謝した。セツナのおかげでエインは自分の生きる道を見つけることができたのだ。
いま、この濃霧の中を進軍できているのも、セツナのおかげといってよい。
あのとき、セツナが目の前に現れてくれなければ、エインの人生はまったく違ったものになっていたかもしれない。少なくとも、軍団長就任の打診を受け入れることはなかっただろう。エインが軍団長への就任を打診されたたのは、アスタルの配慮によるところが大きいのだが、普通なら断るところだ。エインにはそれまでなんの実績もなかった。能力があるわけでもない。自分でもよくわかっている。それなのにアスタルはエインこそ軍団長に相応しいといい、レオンガンドもそれを承認したという。アスタルがなにを見てエインを軍団長に推挙したのからはわからないものの、エインが打診を受け入れたのは、セツナがいたからだ。軍団長になれば、セツナと戦場をともにすることもあるかもしれない。その一念で、軍団長になった。そして、軍団長としてセツナと戦場をともにしたとき、エインは彼を使いこなしたいと思うようになった。
黒き矛のセツナという圧倒的戦力を使いこなすことができれば、ガンディアが大陸に覇を唱えることも難しくないのではないか。
夢想が妄想となり、空想と想像が入り混じった。
そんなとき、激しい水音がエインの耳に飛び込んできて、彼は現実に引き戻されるような感覚に苛まれた。
「報告!」
水音は、先頭集団からの伝令兵が駆け寄ってきたからのようだった。この濃霧の中、よくもまあ転倒せずに走り抜けてきたものだと関心したのは、エインの意識が完全には現実に戻っていなかったからだろう。
「ベレル豪槍騎士団、渡河直後に敵軍の攻撃を受け、応戦中とのことです!」
「なんだと」
「さすがに待ち伏せてはいたか」
「濃霧を抜けきったからじゃないの?」
「川の南側を見ての通り、北側周辺も濃い霧が発生しているはずなんですよ。なので、豪槍騎士団が霧を抜けたから攻撃を受けたわけではないでしょう」
エインはドルカに説明しながら、対応策を考えた。
「すぐさま《蒼き風》と《紅き羽》、シドニア戦技隊を援護に向かわせましょう。第一、第四軍団は渡河後予定通りシールウェールの東門を目指します」
「うむ」
グラードは一も二もなくうなずくと、エインの案をグラードなりに咀嚼して伝令兵に託した。伝令兵が三名、グラードの元から放たれる。ひとりは豪槍騎士団の元に、残りふたりのうちひとりが《蒼き風》、《紅き羽》への連絡役となり、ひとりがシドニア戦技隊に向かっているはずだ。
シール川を渡河する際の部隊配置は、エインが考えたとおりだった。ベレルの豪槍騎士団に先頭を任せたのは、彼らに花を持たせるというよりは、属国の軍隊を矢面に立たせることで、支配国たるガンディアの軍隊の被害を少しでも減らすという意図がある。逆にいえばそれ以外の理由はなく、先陣を任されたことを喜んでいる騎士団長らには悪いことをしたかもしれないと思わないではなかった。が、当然のことでもある。ベレルは、ガンディアの属国なのだ。ガンディアの庇護下で安寧を得ている。戦争となればガンディアの盾となり、剣となるのは、従属国なれば当たり前のことだ。そのことでベレルの兵卒たちが不満を漏らしていたとしても、知った話ではない。ガンディアに扱き使われるのが嫌だというのなら、ガンディアの庇護を拒絶するよりほかはなく、そうなればジベルや周辺諸国に攻め滅ぼされるのが関の山だ。それがわかっているから、ベレル人はだれひとりとして不満を漏らさないのだろう。ベレル人が従順なのも、ガンディアには逆らいようがないし、従っている限りベレルが安泰なのは間違いないからだ。
少なくとも、ガンディアが権勢を保ち続ける限り、ベレルの安寧は約束される。ガンディアが属国を滅ぼす道理も、吸収する道理もないのだ。むしろ、無理やり国土を増やすよりも、従属国を増やすほうが理に適っている。国土が広がれば広がるほど抱える問題も大きくなり、複雑化していくものだ。それならばいっそ、国土の拡大は一定量で止め、従属国や同盟国を増やすことで小国家群の統一を成そうというレオンガンドの考えは、正しい。
再び、伝令兵が駆け寄ってくる水音が聞こえた。
「報告!」
「今度はなんだ」
グラードが問うと、伝令兵が緊迫した表情で告げた。
「豪槍騎士団を圧倒中の敵は、三名!」
「三人? たったの? 嘘でしょ」
「三名の内ひとりは、トラン=カルギリウスと名乗っております!」
「“剣聖”か」
グラードが険しい顔をした。“剣聖”トラン=カルギリウスは、シールウェール奪還の最大の障害となるだろうと推測されている。なにせエトセアの領土拡大にもっとも貢献した英雄傭兵だ。並々ならぬ相手であることは、明白だった。
三人というのは、“剣聖”とそのふたりの弟子ということだろう。“剣聖”トラン=カルギリウスにはふたりの弟子がいる。アニャン=リヨンとクユン=ベセリアス。詳細は不明だが、トランがヴァシュタリア共同体で活動していた頃にはついて回っていたため、おそらくはヴァシュタリア出身だろう。ふたりの弟子がどれほどの使い手なのかもわかっていない。“剣聖”の活躍が大きすぎて、弟子たちがどのような働きをしたのかがまったく伝わってきていなかった。
「話に聞く限りじゃ、相当な剣の達人と聞きますが、噂通りだったというわけですな」
「だからこちらはふたりの剣の達人をぶつけるんですよ」
「相手はひとり。こちらはふたりか」
「卑怯だなー」
「卑怯結構。勝利のためには手段なんて選んでられませんよ」
エインがいうと、ドルカはわかっているとばかりにニヤリと笑った。
「だったら、グラードさんに街を破壊してもらえばいいんじゃ?」
「それ、たとえ反乱軍に勝利しても、無関係な市民を巻き添えにするじゃないですか」
「そもそも、このディープクリムゾンにそこまでの破壊力はないよ」
「そうでした」
「だが、城門を壊すくらいならば造作もない」
「“剣聖”が出張ってきたのなら、我々も急ぎましょう。“剣鬼”と“剣魔”が“剣聖”の相手をしてくれている間に、シルウェールになだれ込みます」
エインの策に、グラードとドルカが無言でうなずいた。
前方、激しい戦闘音が聞こえてきていた。