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第千二百五十二話 黒の眠り(一)

 妙な喪失感があった。

 本当に奇妙な感情だ。

 奇妙というしかない。

 隊舎の裏庭の芝生の上で仰向けに転がったセツナは、赤みを帯びた空を茫然と眺めていた。流れる雲の速度が風の強さを認識させる。雲は白く、その上で赤く燃えている。夕日に照らされているのだ。日が沈みかけている。真冬。日の出ている時間は短く、夜が長い。

 気温は低いものの、そんなことが気にならないくらい、気分が落ち込んでいた。

 なにがあったわけでも、なにを失ったわけでもない。

 ただ長年好悪の情を抱き続けてきた友人から手紙をもらっただけのことだ。

 ただそれだけのことだ。

 それなのになぜこうも胸に穴が開いたような気分になるのだろう。

 セツナは、なんとはなしに空に手を伸ばした。伸ばしても伸ばしても空に届くことなどありうるはずもない。そして、手が空に届いたところで、なにがあるわけもない。なにもないのだ。そうして、なにもかも失われていくのだから、なにかをするまでもない。

(なに考えてんだろな)

 クオンの手紙は、遺言といってもよかった。

 この世からの消滅の可能性を示唆した文言は、そう受け取っても仕方のないものだったし、だからセツナは、奇妙な喪失感に苛まれ、部屋を飛び出したのだ。

(なあ、クオン)

 胸中で呼びかける。

(おまえは、俺じゃあなかったのか)

 脳裏に浮かび上がるのは、彼と初めて逢ったときのことだ。

『君はぼくで、ぼくは君だ。そう思ってしまったんだから、仕方がないだろう?』

 初対面でそんなことをいわれれば、だれだって奇妙に思うだろう。実際、奇妙な関係だったのは疑うべくもない。奇妙な関係のまま、時間ばかりが過ぎていった。奇妙な関係を脱却することも、関係を改善することもできなかった。

 そんな日々を思い出して、黄昏れるのは、彼が消滅するかもしれないという事実に直面したからだろう。彼がこの世からいなくなり、別の存在として生まれ変わるのに等しい出来事が起きようとしている。

 同一存在の合一とはつまり、そういうことだ。

 だからセツナは拒絶した。ニーウェとの合一を拒み、セツナとして在り続けることに執着した。その結果世界が両者を排除しようと構わなかった。自分以外のだれかになってしまうよりはずっとましだと思ったからだ。

 自分以外の何者かになったとき、セツナのこれまでの人生は否定されてしまうかもしれない。そんな恐れがあった。

 黒き矛は、セツナが勝利したといった。そして、勝者が合一後の主人格となるのも、彼の話から想像がついた。だが、だからといって、いまの自分、いままでの自分を否定するようなことはできなかった。だからニーウェとの合一を拒み、自分で在ることを望んだ。

(おまえもそうだと思ったんだけどな)

 セツナは、空に浮かぶ雲の形が無限に変化していくのを見やりながら、白き盾を脳裏に描いた。シールドオブメサイサと名付けられた、クオンの召喚武装。あらゆる事象を拒絶するかのような絶対無敵の盾は、彼の自我の強さ、意志の強さを示すかのようだったことを思い出す。彼は、だれよりも優しく、だれよりも気高く、だれよりもしたたかで、だれよりも強い意思を持っていた。セツナがセツナであることに拘るように、クオンもクオンであることに拘っていた――はずだった。

(俺は俺だって、いったじゃないか)

 しかし、クオンは、ヴァーラなる人物との合一を選択した。それがこの世界を護るために必要なこと、などという言葉とともに。引いては、セツナを護ることに繋がる――などという大袈裟な言葉とともに。

 胸に空いた大きな穴は、クオンが手紙に書き記したそれらの言葉のせいかもしれなかった。もしクオンがセツナの名を書き記していなければ、ここまでの喪失感や虚脱感を覚えずに済んだのではないか。ふと、そんなふうに考える。

 遺言の理由が自分だと示されれば、だれだってなにか思うだろう。

 昔のままのセツナならば、むしろせいせいしたとでも考えるかもしれないが、残念ながら、セツナは変わってしまっていた。セツナだけではない。セツナとクオンの関係そのものが、大きく変化した。一方的な繋がりではなく、互いに信頼するようになっていた。

 セツナは、クオンのすべてを認められるようになっていたし、彼の活躍を心の中で祈れるくらいには余裕を持てるようになっていた。クオンと自分の関係を見つめなおすことができるようになったのだ。以前のセツナからは考えられないような進歩だった。すべては異世界での出来事であり、命を賭けなければならないような戦いをともにくぐり抜けたからというのも大きいだろう。

 ザルワーンの守護龍との戦いは、クオンの補助なしでは勝てなかったのは当然として、クオンがいなければガンディア軍そのものが勝利できなかったのだ。クオンとシールドオブメサイアの能力がガンディア軍を勝利に導いた。勲一等はセツナよりもクオンのほうが相応しかったのではないか、といまになって思うほどだ。

 ザルワーンの守護龍を倒したのはセツナだが、ガンディア軍に勝利をもたらしたのはクオンといっても過言ではなかった、という意味で。

(なあ、クオン)

 胸中で、つぶやく。

 もはやいなくなったかもしれない少年の名をつぶやく。ただそれだけのことで胸が痛むのはなぜだろう。セツナは、歯噛みして、瞑目した。クオンを失うことがこれほどまでに辛いことだとは、想像もしなかったのだ。

 彼は、冗談であのようなことを手紙に書く人物ではない。相当な覚悟と決意がそこに込められているのは、火を見るより明らかだ。クオンはみずからの消滅を覚悟した上で、ヴァーラとの合一に臨もうとしている。たとえヴァーラが合一後の主人格になったとしてもなんら後悔はしないとでもいうのだろうし、実際、後悔などしないのだろうが。

(残されたひとたちはどうなるんだよ)

 クオンの周囲には、彼を慕うひとたちがいた。ウォルド=マスティア、マナ=エリクシア、イリス、グラハム――《白き盾》の幹部たちは、だれもがクオンのことを敬愛しているというのがひと目でわかるくらいに熱烈に彼を見ていた。彼らは、クオンの消滅を知っているのだろうか。知らないだろう。知らないうちにクオンという人格が消え失せるのだ。消え失せ、別の人間へと統合されるのだ。

 残された彼らは、どう思うのか。

 セツナ以上の喪失感の中で悲しみに震えることだろう。

 セツナは立ち上がって、口を開いていた。

「武装召喚」

 無意識に口走った呪文の結尾が、術式の完成を告げる。全身から噴き出した光の奔流が、視界を真っ白に染め上げながら右手のうちに収束し、黒き矛が出現する。握りしめ、冷ややかな重みを感じるとともに爆発的な五感の拡張を認めた。黒き矛を手にしたことによる超感覚は、セツナの脳裏に全周囲の光景を克明に描き出す。

《獅子の尾》隊舎の裏庭。地面を埋め尽くす芝生と、裏庭の隅に置かれた倉庫、隊舎の窓が開かれていることもわかるし、隊舎の影に仲間たちが隠れているのもわかる。セツナの視界に入らないよう、物陰に隠れながらこちらの様子を窺っているのだろう。なぜそんなことをしているのかはわからない。ファリア、ミリュウ、シーラ、レム、それにラグナとウルクもいる。ラグナはともかく、ウルクは自分がなにをしているのかなど理解してはいないだろう。

 隊舎を囲む壁の外の風景までもが脳裏に浮かぶ。群臣街の閑散とした町並み。軍人や文官、王宮に仕えるひとびとの住む街だ。両市街のような賑わいがあるわけもない。街を駆けまわるのは軍人を夢見る子供たちや、武装召喚師を目指す子供たちであり、その親と思しきひとたちもいた。平穏な風景。安寧そのものといってもいいような空気。マルディアへの派兵を控えているという風にはとても思えないが、兵として派遣されないものたちからすれば、緊張しようもないのかもしれない。

 群臣街から王宮と旧市街にまで視野は広がる。それを視野と呼んでいいものかはわからない。少なくとも、目で見ているだけの風景ではない。視覚情報のみならず、あらゆる感覚からもたらされる情報によって描き出される風景なのだ。強化された聴覚が拾う音、強化された嗅覚が拾うにおい、強化された触覚が感じるもの、感覚。それら五感が拾い集めた情報が脳内に王都の町並みを描き出している。情報の濁流といっていいのかもしれない。あまりにも多すぎる情報は思考の邪魔になり、なにかを考えるのには不向きだった。しかし、おかげで、クオンのことを考えなくて済むようだった。

 彼のことばかりを考えて心が沈むようでは、つぎの戦いに備えられない。

 頭上。遥か彼方の雲の形まで精確に把握できる気がした。が、さすがに空の彼方まで感知範囲が及ぶことはなかった。

 ふと、違和感を覚えて、セツナは右手を見た。黒き矛の柄を握りしめる手に変化はない。あるわけがないのだ。いつものように召喚し、握りしめている。ただそれだけのことに変化などあるはずもない。しかし、セツナは違和感を拭いきれなかった。

(なんだ?)

 そして、この奇妙な感覚は、エッジオブサーストを吸収して以来、ずっと感じていたものだということに気がついた。

 これまではそれが違和感だとは思わなかったのだ。

 エッジオブサースト吸収直後も、再召喚時も、疲労によるものだとばかり想っていた。それからラムレスとユーフィリアが現れるまでは召喚を控えていたし、ラムレスたちを目の当たりに召喚したときも、ドラゴンを目の前にしていることによる緊張が影響しているものだと思っていた。

 だがどうやらそうではなかったということが、今回の召喚で明らかになったのだ。

 セツナは、黒き矛の切っ先を前方の壁に向けた。右手だけで握りしめながら、力を込める。思い描くのは、光線。黒き矛の能力のひとつである光線発射能力の発動――。

(あれ……?)

 黒き矛の穂先が光を帯びることもなければ、セツナの精神力が矛に吸われるような感覚もなかった。切っ先が白く膨張し、爆発的な光の奔流となって壁に突き刺さり、爆発を起こす――などということは一切なく、黒き矛は、ただ禍々しい姿を晒しているだけだった。

 力の込め方が悪かったのかもしれない――と、彼はもう一度、黒き矛に力を込めた。しかし、どれだけ力を込めなおそうとも、光線発射能力の行使を試みようとも、黒き矛はうんともすんともいわなかった。黒き矛から光が発射されることもなければ、黒き矛の柄頭に埋め込まれた宝珠が反応することもなかった。火炎吸収能力の行使を試みたのだ。が、発動しなかった。それは単純に、周囲に火がないからだろうとも思えたが。

「っ」

 セツナは、黒き矛を旋回させて、左手人差し指を浅く裂いた。あざやかな剣閃が指を裂き、血を流させる。紅い血液に自分の顔が映り込んでいることまで確認して、憮然とする。

 血を媒介にした空間転移さえ発動しなかった。血の量が少なかったというのはわからないではないが、どれだけ少なくとも、多少なりとも転移するはずだった。あの程度の血の量では数歩先に移動するのが精一杯かもしれないが、転移できないわけではない。

(どういうことだ?)

 黒き矛を見つめなおす。

 破壊的なまでに禍々しい漆黒の矛は、相変わらず見るものの心に恐怖を埋め込むかのようだった。



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