第千二百四十九話 クオンの手紙(三)
「ニホン語というのは、御主人様の生まれ育った国の言葉でございますね?」
レムが、セツナの背後から手紙を覗き込みながら、問いかけてきた。セツナはレムのにおいを感じながら、手紙に記された丁寧かつ綺麗な文字に目を奪われる。クオンの字だということはひと目でわかる。几帳面かつ繊細な彼の性格が文字にも現れていた。いつ見ても綺麗で、嫉妬さえ覚えるほどの文字。ひらがなと漢字で構成された文章。日本語以外のなにものでもない。
「ああ。俺は日本人だからな」
「ニホン……ジン」
「なんだよ」
「セツナがとうとう狂ってしもうたのではないかと思ったまでじゃ」
ラグナの暴言には、セツナは苦笑を浮かべた。ラグナは相変わらずセツナの頭の上に鎮座しており、長い首を伸ばして手紙の中を覗き込んでいる。レムとラグナに覗きこまれてもなんの心配もないのは、日本語で書かれているからだ。
しかし、それを考えれば、わざわざユフィーリアとラムレスに手紙を託す必要はなかったのではないかと思うのだが、手紙に記された異形の文字がクオンへの追求を呼ぶ可能性もあると考えれば、不自然なことでもないのかもしれない。クオンには敵が多いという。敵がなんとしてでもクオンを追い落とそうというのであれば、手紙に記された奇妙な文字列ひとつとって大騒ぎする可能性だって十分にあった。クオンはそれでも内容を知られることのほうを恐れて日本語を使ったのだろう。そしてその上でラムレスとユフィーリアに託した。
手紙の内容が気になったし、不穏なものを感じずにはいられない。
「前にもいっただろう。俺はこの世界の人間じゃないんだよ」
「それは聞いたがな」
「信じてなかったな?」
セツナが彼の目を覗き込むようにすると、ラグナは少しばかり怒ったような顔をした。彼はドラゴンで、人間とは顔の作りはまったく違う。しかし、ラグナは表情が豊かであり、感情表現もわかりやすく、セツナはいまや彼の表情からどう思っているのか、どう感じているのかが手に取るようにわかるようになっていた。
「信じぬわけがなかろう。おぬしが異界のものであることは見ればわかる。おそらくラムレスにもわかったじゃろう」
「へえ。さすがは転生竜」
「褒めてもなにもしてやらぬ」
「いいさ、別に」
セツナは、ラグナがそっぽを向いたことに笑った。
「ですが困りましたねえ」
レムが心底困惑したようにいってきたので、セツナは彼女を振り返った。相も変わらぬメイド服の彼女は、手紙を覗きこむのをやめて、難しい顔をしていた。手紙を覗きこまなくなったのは、書き記されている文字が読めないからだろう。
「なにがだ?」
「これでは、わたくしどもにはわかりませぬ」
「そうじゃな。いくら竜が言葉の究極系とはいえ……異世界の言語にまで精通してはおらぬ」
「……そういや、なんなんだ、それ」
「む?」
「竜は言葉の究極系ってラムレスもいってただろ」
セツナは、ラムレスの言葉を思い出しながら問いかけた。竜は言葉の究極系。意味としては、言葉の究極が竜ということで、それ以上の意味は見いだせないのだが、ラムレスの口調からはそれ以上の意味があるような気がしてならなかった。
「なんじゃ。そんなことか」
「そんなことってなんだよ。気になるだろ」
「気にするな。ただの言葉じゃ」
ラグナはどうでもよさそうにいってくるのだが、そのいいざまが余計に気にかかった。ラグナらしくないというべきか。
「ただの言葉って……なあ」
「はい。気になりますねえ」
「いくら気になろうと教えぬぞ」
ラグナがセツナの頭の上でふんぞり返っているのがわかる。
「なんだよ。教えてくれないのかよ」
「いずれわかるときがくるかもしれぬ。じゃから、いまは教えぬ」
「いずれ……ねえ」
「そんなときがくるのでございましょうか」
「さて……のう」
「……まあ、いいさ。教える気がないってんなら、それでもさ」
セツナは、なにやら勿体ぶっているラグナにいつまでも絡んでいるのも時間の無駄だと判断した。手紙に視線を戻す。
「本題はこっちだからな」
「そうじゃそうじゃ。さっさと読み上げよ」
「そうでございますね。御主人様が読み上げてくだされば、わたくしどもも内容を把握できるというものでございますね――あれ?」
「ん? どうした」
「どうして、御主人様の言葉は、わたくしどもには理解できるのでございましょう」
「先輩、それはセツナが共通語を話しておるからではないのか?」
「そうなのでございます?」
ラグナの思いつきにレムが怪訝な表情を浮かべて、こちらの顔色をうかがうように目を覗きこんでくる。
セツナは、レムの疑問に衝撃を覚えていた。
「……そういや、そうだな」
「む?」
「そういえば、最初からそうだったんだ」
最初とは、アズマリアに召喚された当初のことだ。ゲートオブヴァーミリオンを潜り抜けてこの世界に辿り着いたときから、セツナは言葉に困ることはなかった。まるで、最初からこの世界の住人であったかのように、言葉に関しては違和感ひとつなかった。
「俺は、共通語なんて覚えた記憶はないんだよ。俺は俺の国の言葉を喋ってるんだ。それなのに、アズマリアに通じて、ファリアにも、エリナにも通じたんだ。だから、疑問なんて抱かなかったんだけど……よく考えりゃ、おかしな話だよな」
奇妙なことだった。
セツナは、この世界の人間ではない。この世界、この大陸の人々は、大陸共通言語という至極便利なものによって意思疎通を図ることができる。しかし、セツナは共通言語など知らない。知るわけもない。この世界に生まれ育ったわけでもなければ、共通言語を学んだわけではないのだ。まったく見知らぬ世界の見知らぬ言葉だ。だが、セツナはアズマリアの言葉を理解したし、アズマリアもセツナの言葉を理解していた。異なる言語であるはずだというのにだ。
日本語が共通語だということも、ありえない。なぜなら、共通語の文字は日本語とはまったく違うものだったし、日本語で認められた手紙は、レムにもラグナにも理解できなかった。
「不思議な話でございますが、ここで考えていても埒が明きませぬ。御主人様を召喚した張本人であるアズマリア様に聞けば、あるいはなにかわかるかも知れませんが」
「そう……だな」
セツナは、なんともいえない違和感を覚えながらも、レムの考えに賛同した。召喚された身である自分に起きたことは、召喚したアズマリアに聞くほかない。そう考えていると、ラグナが忠告するようにいってきた。
「アズマリアのう……あやつがなんでも知っておると思ったら大間違いじゃぞ」
「そうなのか?」
「うむ。己が生まれた由来すら知らぬものが、なにを知っているというのか」
「生まれた由来……?」
ラグナの言葉を反芻しながら、疑問符を浮かべる。
ラグナは、セツナよりもずっと前からアズマリアと知り合いであり、長らくアズマリアに従っていたということは、なんとはなしに知っていたことだ。セツナよりもアズマリアに詳しいのは当然だったが、彼がアズマリアのことを口にするのは、ほとんど稀だった。だから、セツナは、てっきりラグナがアズマリアのことをあまり知らないのではないかと想っていたのだが、どうやら違うらしい。単純に話す機会がなかっただけなのかもしれない。
「あやつはいつの間にかおった。いつの間にかおり、わしの主となっておったのじゃ」
「初耳だな」
「はじめて教えるからのう」
「なんで教えてくれなかったんだよ」
「聞かれなかったからじゃ」
ラグナが当然のようにいってきた。セツナは憮然としながら、頭上に視線を向けた。ラグナの顔さえ見えないが、その先に彼の気配があることだけはわかっている。
「じゃあ聞けば教えてくれるのかよ」
「気分が乗ればのう」
ラグナが大きく息を吐くようにいってきた。
「……ったく、かなわねえな」
「それよりも早く手紙を読まぬか。気になって仕方がないのじゃ」
「なんでおまえが気にするんだよ」
「ラムレスをつこうてまでおぬしになにを伝えようとしておるのか、気になるのが普通というものじゃろう」
「そうでございます。御主人様に伝えなければならないようなこと、従僕たるわたくしどもが気になるのは、至極当然のことでございます」
「あーはいはい。わかったわかった」
主の意向にそこそこ忠実な従僕二名に急かされるまま、セツナは手紙に視線を戻した。そして、手紙の内容に驚嘆した。
手紙には、セツナへの忠告と、別れの言葉が記されていたのだ。