第百二十四話 魔王来たりて
廃墟というに相応しい街並みが、グレイ=バルゼルグの視界に横たわっている。
かつてメリスオールの都として栄華を極めた都市も、いまや無残な亡骸を夕日の中に曝しているだけだ。
メリスオール。
グレイの生まれ故郷であり、彼が忠誠を誓った小さな国だ。彼の麾下三千名の猛者たちも、ここで生まれ育った。国の規模に比べて多すぎる兵力は、メリスオールという小国を長きにわたって存続させる秘訣だったのだろう。戦力の拡充こそが国是だった。そんな軍事国家がザルワーンに敗れたのが十年ほど前。国土は完全に制圧され、王侯貴族も軍人も国民も、ザルワーンという強国の支配下に入った。
国民を人質に取られた以上、グレイらはザルワーンに従うよりほかなかった。
そうして、戦いに明け暮れた。
彼らが裏切り、メリスオールを滅ぼしている事実にすら気づかぬまま。
知ったときにはすべてが手遅れだった。
慟哭も、絶叫も、虚しく響いた開けだった。
廃墟に人影はない。
皇魔が巣食っていたが、既に打ち払っていた。そのために負傷者は出たものの、死者はでなかった。さすがに彼が鍛え上げただけの軍勢だった。彼の意志の赴くままに皇魔の群れを蹂躙し、嬲り、いたぶり、殲滅した。しかし、都の根幹たる宮殿は、皇魔の瘴気と死臭に満たされており、人間が住めるようになるには時間が必要だった。
だが、それでいいのだ。
この宮殿におわすべき王は既になく、その血も絶えてしまった。廃墟として打ち捨てられ、歴史の中に埋没してしまうほうがいい。
グレイは、夕日を浴びて輝く白亜の宮殿を見遣りながら、そんなことばかり考えている。連れているのは、五十人程度。廃墟だ。遭遇するとすれば盗掘団の類か皇魔くらいのものである。ただの感傷に全軍を動員する必要はなかった。
本隊は、都にはない。南西のガロン砦一台に布陣してある。都からでは、龍府は遠すぎる。それはグレイの感覚的な話だったが、彼にとってはそれこそが大事だった。都からは龍府の動きは見えない気がするが、ガロン砦からならばわかるのだ。実際には見えない。だが、見えているという感覚がある。感覚に頼りすぎてはいけないが、軽視しすぎてもいけない。微妙なさじ加減で、彼はガロン砦を本拠とした。
メリスオールを再興するための戦いではない。そんなことは不可能だ。忠誠を誓った王家はなく、民もいない。皆、死んだ。護るべきものはおらず、勝利を捧げるべき主もいない。大儀など、あるはずもない。
「死のう」
彼は、左右のものにいった。
「能く死のう」
戦って、戦い抜いて、死のう。
生きたいものは去ればいい――そういって、去ったものはひとりもいなかった。三千人、だれひとり欠けることなく彼についてきた。恩義や情で死をともにする必要はないといったが、だれも取り合わなかった。グレイの元を離れて生きていく術がないというわけでもないはずだった。彼らはひとりひとりが優れた戦士だ。グレイ・バルゼルグの下で戦っていたといえば、仕官先はいくらでもみつかるだろう。どの国も人材を欲している。しかし、彼の部下はこういうのだ。
「我らは将軍の手足」
故に、思考などはしないのだ、と。
グレイは彼らの答えを聞いて、わずかばかり後悔した。我ながら無残なことをしてしまった。彼らをみずからの手足となるように育て上げたのは、ほかならぬグレイだった。呼吸ひとつ、掛け声ひとつで自在に動き、グレイの思うがままに陣形を変え、戦場を蹂躙する。目指したのは最強の軍勢。並ぶものなき、無敵の戦騎。メリスオールを護るには、強くなくてはならなかった。ただ、強く。より、強く。その過程で兵士たちはグレイの手足となり、呼吸となり、意志となった。手足が、肉体から離れて生きることはできない。若い彼らの将来を摘んでしまったことへの痛みが、彼の心に虚しく響いた。
彼らも、グレイと同じことを考えているのだ。
死に場所を探している。
三千人とはいえ、ほとんどが戦闘員である。砦とはいえ、廃墟同然の場所に食料など残っているはずもなく、メリスオール到着時に携行していた兵糧が尽きれば、全軍の命数も尽きるはずだった。
しかし、ガロン砦に陣取って一月以上が経過したいまも、グレイとその部下たちは生き延びていた。ザルワーン内部で発生した最強部隊の離反というこの事態を、両手を上げて歓迎する連中がいたのだ。
隣国のジベルである。ザルワーンの東に隣接するこの国は、当初、ザルワーンとは友好関係にあった。ザルワーンとしても下手に出てくるジベルを無下にもできなかったらしい。そんなあるとき、北のクルセルクで異変があった。弱小国に過ぎなかったはずのクルセルクが、圧倒的な速度で膨張をはじめ、ジベルと肩を並べるほどになった。ジベルはクルセルクに脅威を感じ、ザルワーンに協力を求めた。同盟し、北の敵に当たろうというのだ。ザルワーンは黙殺した。当時のザルワーンは内紛の処理に追われ、他国に兵を出す余裕さえなかったのだが、ジベルはそれを恨みに思っていたのだろう。実際、ザルワーンが兵を出し、ジベルとともにクルセルクを牽制していれば、ジベルの国土の三分の一をクルセルクに削り取られるということにはならなかったかもしれない。
ジベルは、それ以来、ザルワーンを憎悪し、内部に諜報員を放っていたようだ。そして、グレイの離反を知り、食料や物資の援助をしてきたのだろう。もっとも、彼らは正体を隠している。表立ってグレイと交渉を持とうとはせず、ガロン砦に食料や物資を運んでくるだけだ。そして、金銭と交換することで、金儲けに目が眩んだ商人が勝手にやったことだという体裁を取っている。ザルワーンを本格的に敵に回すつもりはないのだ。
ジベルはただ、ザルワーンへの怒りの溜飲を下げているに過ぎない。そのためにグレイたちを生きながらえさせ、龍府の国主たちを困惑させているのだ。それだけのことだろう。だから、グレイも彼らがなにものなのか追求はしなかった。
死に場所を得るには、生きなければならない。
「死ぬために、生きるのだ」
生きるべき目的を失ったものは、死ぬしかない。だが、ただ死ぬのもつまらない。せめて、一矢報いなければならない。その機会を待つためにガロン砦に軍を入れたのだ。死ぬだけなら、龍府にでも突撃すればいい。返り討ちに遭って、死ねる。
それも良かったのかもしれない。
「死ぬためにか……くだらんな」
「意味のない生を享受するよりはよかろう」
言葉を返しながら、グレイは目を細めた。声は、宮殿の中から聞こえた。瘴気と死臭で満たされた空間に好き好んで入り込むような人間など聞いたこともなかった。部下たちが、敵襲を警戒して、周囲に展開する。十人の精鋭たち。残りの四十人は、十人ずつの隊に分け、都市内の探索に回している。生存者を期待してのことではない。皇魔がいなくなった都市だ。賊の類が根城にする可能性もなくはない。それはメリスオールの臣として見過ごせるものではない。
夕日の下、紅く燃える宮殿から男と女が出てきた。
「どちらも、くだらん」
男は、若い。二十代半ばに見える。黒髪黒目。均整の取れた体型は、それなりの訓練を積んでいる証と見るべきか。旅装は、彼がこの近辺に住んでいるものではないことを示している。問題は女のほうだ。男に寄り添うように立つ女は、一目見て人間ではないとわかる。藍色の髪に青白い肌、紅い瞳は輝いているようだった。そして、頭髪の間から突き出た一対の角。男と同じような装束に身を包んでいるが、女の正体を隠しきれたはいなかった。皇魔だ。
部下の間に緊張が走るのを認めて、彼は手で制した。男と皇魔の女に、こちらへの害意はなかった。しかし、だからといって警戒を解くことはできない。皇魔は人間の天敵だ。それはこの世の不文律なのだ。皇魔の群れと戦った時にも実感している。彼らは、人間と分かり合うつもりなどない。
「おぬしは、なんのために生きている」
「復讐のため」
男は、笑いもしない。そっと、続けた。
「それもくだらん感情の処理に過ぎないがな」
しばらく、沈黙があった。熱を帯びた風が通りぬけ、グレイの頬をなぶる。緊張が、持続している。皇魔が動けば、それに触発されてグレイの部下が飛び出すに違いない。それほどの緊迫感の中でも、男は動じている様子もない。
堂々と、グレイを観察している。
「はじめまして、グレイ=バルゼルグ将軍。俺はユベル」
その一言で、グレイたちの緊張は最高潮に達した。とんでもない大物と遭遇している。
ユベルといえば、たったひとりしか思いつかない。現在のクルセルクを支配する人物であり、魔王の二つ名で知られる男だ。どこからともなく現れ、圧倒的な戦力でクルセルクを制圧、当時の王に王位の禅譲を迫った。王位を簒奪した彼は、その巧みな手腕でクルセルクを強国へと作り替えていったという。ジベルの三分の一を奪ったのも、彼の手腕によるものだといわれている。
魔王の二つ名は、彼が簒奪者であるということと、皇魔を従わせているという噂からであり、グレイは気にも止めていなかった。しかし、いまならわかる。ユベルは皇魔を従えており、魔王の異名も嘘ではないのだ。
「魔王陛下がなぜここに?」
「将軍がジベルと結託して我が国に攻め入ってくるという噂があったのでね、確かめに来たのだよ」
「……本当のところは?」
「将軍はつまらないひとだな。まあ、いい」
ユベルは、グレイを見据えていった。
「力を貸そう」
彼の眼は、異彩を放っていた。