第千二百四十五話 蒼き狂王
二月に入った。
真冬の寒さが身に沁みるような日々が始まりを告げる中、王都ガンディオンには、軍人の動きが目立つようになった。マルディア救援軍には、ガンディア方面軍の全軍団が投入されることが決まっており、ガンディオンに駐屯するガンディア方面軍第一軍団も、人員や装備を整えることで大忙しに動いていた。忙殺されるのはなにも軍人ばかりではない。軍に関係するすべての物事がせわしなく動いている。
マルディア救援軍と銘打たれた軍勢が王都を出発する日程も決まっている。
二月十五日。いまから半月も先のことだが、マルディアは遠く、到着するまでの時間を考えれば、ちょうどいいらしかった。ガンディオンからマルディア王都マルディオンまでは、二十日はかかるという。二十日ということは、三月に入っているということであり、マルディアの北を閉ざす雪も溶け始めている頃合いだろうということだった。
雪解けとともに騎士団の援軍がマルディアの反乱軍に合流するのは間違いない。そしてそうなればマルディアが激戦の地と化すのも道理だ。相手はベノアガルドの騎士団なのだ。一筋縄ではいかないだろうし、簡単に勝利できるわけもない。
当然、騎士団と合流する前に反乱軍だけを叩くということも考えられた。しかし、反乱軍を半端に叩いたところでベノアガルドに逃走されるのが目に見えている。そのために戦力を整えることもなくマルディアに赴くのは論外だ。結局、ベノアガルドでの決戦が必要となるのであれば、戦力をしっかりと整えた上で、マルディアの地で決着をつけたいのがガンディアの考えだった。マルディアとしては、マルディアの地を戦場とされるよりも、ベノアガルドで戦ってほしいというのが本音かもしれないが。
そういう事情もあり、ガンディアは王都のみならず、各所において大慌てで軍備が整えられ始めていた。マルディア救援軍に動員される軍団のみならず、ガンディア方面軍の代わりにガンディア本土の守備につかなければならないクルセルク方面軍もその準備のために大忙しだった。
マルディア救援軍に動員される方面軍は、ガンディアとログナーの二方面軍であり、それに加えベレルの豪槍騎士団、ルシオンの白聖騎士隊、白天戦団、イシカの星弓兵団が加わる予定だった。救援軍の詳細の発表が一月末になったのは、それら援軍の調整のためでもあった。
ちなみにマルディアに隣接したアバードからも戦力を供出したいという申し出があったものの、ガンディア側が丁重に断っている。アバードは、内乱から動乱終結に至る過程で多大な戦力を失っている。ただでさえ戦力が不足しているというのに、そんな状態で戦力を提供させるわけにはいかなかった。国土を守ることさえできなくなるだろう。
ガンディア政府の判断に、シーラは心底安堵したようだった。これでもしガンディアがアバードに戦力の供出を求めれば、彼女は少なからずガンディアへの心証を悪くしたことだろう。もっとも、シーラはそんな自分を嘲笑うほかなかったようだが。セツナは、シーラの心情を想い、宥めたりしたが、効果があったのかはわからない。
一方で、シーラはイシカの星弓兵団とともに戦えることを喜んでいた。星弓兵団といえば、弓聖サラン=キルクレイド率いる弓兵部隊であり、弓聖サランも救援軍に参加するとのことだった。シーラが喜んでいるのは、サランとの再会であり、サランとの共闘だろう。サランは、凄腕の弓の使い手であり、シーラとも相性がよく、クルセルク戦争においてはともに戦地を駆け抜けたという。
セツナにとっては印象の薄い人物ではあったが、弓の腕の確かさは記憶にある。マルディアの戦いでは、サランに注目するのも悪くない。
そんな真冬のある朝のことだった。
獅子王宮上空を黒い影が覆い、大騒ぎとなった。
突如として暗雲に覆われたかに思われたのだが、実際はそうではなかった。遥か上空から巨大な生物が舞い降りてきて、王宮上空を旋回しだしたのだ。恐慌が起こりそうになるほどの騒ぎになったのは、当然だった。
それは、一体の巨大なドラゴンだったのだ。
どこからともなく飛来したドラゴンの存在は、王都ガンディオンを狂乱させるほどの威圧感と迫力を以って王都の空を圧倒した。
寒風吹き荒ぶ冬の空を旋回する巨大なドラゴンは、ただひたすらに巨大で、ただひたすらに蒼かった。群青の外皮に覆われ、長い首と長い尾、隆々たる手足を持ち、巨大な一対の飛膜を空を覆い隠さんばかりに広げていた。その巨大さは、以前龍府で遭遇したワイバーンとは比較にならないほどのものであり、セツナは上空を旋回する巨竜の迫力に息を呑んだ。当然のことだが、ザルワーンの守護竜に比べると一回りも二回りも小さい。
無論、単純にザルワーンの守護龍が規格外だったというだけのことで、天を覆わんばかりに巨大なドラゴンが小さく思えるわけもなかった。
「あれはどう想う?」
と、尋ねてきたのは、レオンガンドだ。王宮の前庭にあって《獅子の牙》と《獅子の爪》、そして《獅子の尾》が勢揃いで護衛を務める中、レオンガンドは防具ひとつ纏わなければ武器ひとつ身につけず、上空のドラゴンを仰いでいた。
「ドラゴン……でしょうね」
「それはわかっているさ」
セツナが王宮に呼びだされたのは、隊舎での昼食を終え、ミリュウたちと広間でうとうととしていたときだった。突如として呼び起こされたセツナは、セツナの膝を枕にして寝ていたミリュウの不機嫌そうな表情を気の毒に思ったものの、王命とあらば飛び出さずにはいられない。それになにより、ドラゴンが現れたというのだ。無視するわけにもいかなかった。
『竜殺しセツナの出番ってわけねー』
終始不機嫌そうなミリュウの一言に、セツナは苦笑を浮かべるしかなかった。
そんなわけで、セツナは仲間とともに王宮に飛んできたのだが、話によると、その間、ドラゴンはずっと王宮上空を旋回しているだけだったということだ。
「ザルワーンで一度、見たことがあるからね。大きさや形状、色々と違うがドラゴンだということは一目でわかったさ」
そもそも伝承通りのドラゴンなのだから、わからないわけがない――と彼は苦笑を浮かべた。すると、セツナの頭の上で小飛竜が動いた。
「一度どころか何度も見ておるじゃろ」
「あー……そういえば、君もドラゴンだったか」
「む……わしほど立派なドラゴンもおらんぞ」
「確かに、君ほど人間に理解力のある立派なドラゴンはいないかもしれないが……」
そんなつもりはないのだろうが、レオンガンドの返答は皮肉めいていた。
「セツナよ、おぬしの主はわしのことを軽く見ておるのではないか?」
「実際に軽いんだからしかたがないだろ」
存在も体重も、遥か頭上のドラゴンと比べるまでもなく、軽い。無論、そのこと自体、悪いといっているわけではない。むしろ、重々しいラグナなど想像もつかないし、こういう軽薄な感じがラグナのラグナたる所以であり、だれにも平然と受け入れられているところなのではないか。そんな風に考えるのだが、もちろん、それを彼に直接伝えるわけもなく、となればラグナが起こるのも無理はなかった。
「なんじゃと!?」
ラグナは、セツナの頭の上から転がり落ちてきたかと思うと、セツナの眼前で滞空しながら威嚇するように口を開いた。牙が覗く。転生したばかりのころは歯も生えていなかったが、さすがに半年以上も経過すれば生えてくるようだった。だが、生え始めた牙もそこまで鋭くはなく、彼に噛まれたところで大した痛みはない。威嚇も恐ろしいというよりは愛らしいとしか感じられないものであり、セツナは、そんなラグナの姿を優しい目で見るしかなかった。それから、尋ねる。
「ラグナ、おまえもドラゴンなら、あれについてなにか知ってることはないのか?」
群青のドラゴンは、いまだに上空を旋回している。王宮の上空を長い間飛び続けているのだ。騒ぎは王宮だけのものではなくなり、王宮区画のみならず王都全体に広がっているらしい。ドラゴンの襲来だ。大騒ぎにならないはずがない。いくら竜殺しの二つ名を持つ英雄が滞在しているからといって安心できるものでもないだろう。
「なんじゃその、まるでドラゴンのことならドラゴンに聞けとでもいわんばかりの投げやりな質問は」
「いいから教えろよ」
「むう……主のいうことじゃ。仕方ないのう」
「やっぱり知ってるんじゃねえか」
「知らぬわけがあるまい」
ラグナが頭上を仰ぎながら言い放ってくる。
「あやつもわしと同じじゃからのう」
「同じ……?」
疑問を浮かべたのは、レムだ。彼女も当然のようにセツナの側にいる。レオンガンドの間近だというのになにひとつ恐れないのは、彼女が自分の立場をセツナの従者と認識しているからだろう。レオンガンドをセツナの主として認識し、敬ってはいるものの、彼女がもっとも気を使うのセツナに対してであり、セツナこそが絶対の存在であって、それ以外はそれ以外なのだ。たとえセツナがレオンガンドに頭が上がらなくとも、レムにとってはセツナ以外の別人でしかない。無論、レムがレオンガンドを下に見ているわけでもなんでもないのだが。
「うむ。同じ転生竜じゃ」
「ってことは何万年も前からの知り合いってわけか」
セツナは、ラグナと上空のドラゴンを見比べながらつぶやいた。大きさが異なるのは、転生して今日に至るまでの時間の長短によるものだろう。
転生竜とは、ラグナの話によれば、万物の霊長たるドラゴンの中でも特別な存在であり、生と死を超克した存在でもあるという。何度死のうとも何度でも転生し、新たな命を得るのだから、生死を超越した存在であるといっても過言ではないだろう。
ラグナも数百年は生き続けていたのだが、セツナに襲いかかったのが運の尽きとなり、死んだ。そしていまの姿に転生したのだ。転生によって力のほとんどすべてを失った彼ではあるものの、さすがはドラゴンとでもいうべき存在であり、彼の魔法はとてつもなく頼りになったし、つぎの戦いでも役に立つことだろう。
それはそれとして、問題は上空の転生竜だ。転生竜であり、以前のラグナ以上の巨躯を誇っているということは、あのときのラグナ以上の力を秘めているのではないか。
「うむ。あやつはラムレスと呼ばれておった」
「ラムレス……」
「ラムレス=サイファ・ドラース。それがあやつの呼び名よ」
対して、ラグナの呼び名は、ラグナシア=エルム・ドラースだ。その名はみずからがつけたわけではなく、ドラゴンたちの間でそう呼ばれるようになったということであり、その名がなにを示すのか、セツナはまだ教えてもらってはいなかった。
「ドラースってのがドラゴンを示す言葉かなんかか?」
「秘密じゃ」
「なんだよ、教えろよー」
「ふふふ……知りたければ竜語を学ぶのじゃな」
ラグナは、セツナの上に立てるのが心底愉快なのか、セツナの周囲を漂いながらふんぞり返るかのようにいってきた。セツナは、視界を右から左に流れる小飛竜を睨んだ。
「おまえから教わる以外にどうやって学べってんだよ」
「おぬしらが古代言語、古代語と呼ぶ言葉を学べばよかろう」
「同じなのか?」
「違うが……おぬしらの古代語は、竜語を元にしておる。学べば、なんとはなしにわかるかもしれぬのう」
ラグナがセツナの右肩に着地して、告げてきた。竜語とはつまりドラゴンの使う言語であり、古代言語とは、遥か昔、大陸が聖皇によって統一される以前に使われていた言葉だ。聖皇は、大陸の統一と同時に共通言語をもたらした。ひとつの国として統一された大陸中のひとびとが意思疎通を図るには、共通の言語が必要だろう。そういう配慮が聖皇に共通言語を作らせ、共通言語の普及を加速させた。しかし、よくよく考えてみると、不自然なことではある。
聖皇は、大陸統一の数年後に討たれている。聖皇の死は、統一国家の崩壊を招き、大分断と呼ばれる事象となって大陸を席巻した。統一国家の崩壊と無数の小国家の誕生により、大陸は未曾有の戦国時代へと突入するのだが、おかしなことに、大陸中の人々は聖皇がもたらした共通言語を用いるようになっており、再び古代言語が使われることはなかった。武装召喚術が現れるまで。
考えれば考えるほど奇妙なことのように思えたが、いまはそんなことを考察している場合でもなかった。レオンガンドの質問がセツナの意識を現実に回帰させる。
「で、そのラムレス=サイファ・ドラースとやらは、どういうドラゴンなんだい?」
「そうじゃな。一言でいえば、人間嫌いの狂王よ」
「人間嫌いの狂王……」
「なんで狂王なんだ?」
「あやつはなあ、なにが気に入らなかったのか、かつて己の眷属を皆殺しに殺し尽くしたことがあったのじゃ。それ以来、狂王と呼ばれるようになったのじゃ」
「……嫌な予感がしてきたぞ」
セツナは、頭上を旋回するドラゴンが眼下を見下ろすまなざしの鋭さに寒気を覚えながら、いった。人間嫌いということは、この王都を滅ぼすために現れたということだって、十二分にあり得たからだ。しかも、同族ですら躊躇なく殺戮するようなドラゴンだという。ラグナのようにセツナの思惑通り人里離れた場所で戦おうとはしてくれないかもしれない。
「なに。わしを倒せたおぬしがあやつを倒せぬ訳があるまい」
「あいつ、あのときおまえよりでけえじゃねえか」
「確かにのう。わしは数百年前に転生しておるからな。あやつは千年か二千年、生き続けておるのじゃろう」
「それだけ強いってことだよな?」
「うむ。あのときのわしの数倍は手強いじゃろ」
「数倍……でございますか」
レムが驚愕のあまり口に手を当てた。彼女が驚くのも無理はない。あのとき、水龍湖で戦ったラグナですら圧倒的に強かったのだ。ファリアとルウファ、レム、シーラの連携攻撃すらまったく効果がなく、セツナが黒き矛の全力攻撃を叩き込んでようやく撃破することができたのであり、そのときのラグナの数倍の力を持つであろうドラゴンに同じ攻撃が通用するかどうかわかったものではなかった。
「勝てる気がしねえんだけど」
「竜殺しのセツナがそういってくれるな」
「陛下……」
「君が勝てなくては、この場にいるほかのだれにも太刀打ちできまい」
「それはそうじゃろうな。わしの全盛期ならば問題はなかったじゃろうが、生憎、セツナに殺されて、力は霧散してしもうた」
「全盛期のラグナねえ。一度は見てみたいもんだが」
「ならば千年、生きてみせよ」
「はっ」
セツナはラグナの発言に笑うしかなかった。
「人間、千年も生きられるようにできちゃあいねえっての」
そして、つぶやく。
「武装召喚」
全身が光を発し、光が右手のうちに収束する。光の中に出現するのは一振りの矛。破壊的なまでに禍々しい漆黒の矛。黒き矛カオスブリンガー。手にした瞬間、セツナは、自分の五感や意識が肥大するのを認めた。いつもの感覚。いや、いつも以上の超感覚。完全化した黒き矛がもたらす力は、黒き矛の扱いに慣れたセツナですら、当惑させるほどに凄まじい。
「おお……」
「黒き矛……」
「セツナ様がおられる」
「なんの心配もあるまい」
周囲の声が耳朶に突き刺さるように聞こえたのも、強化された五感を制御しきれていないからだ。以前の黒き矛ならば必要な情報だけを取得するように調整できていたのだが、黒き矛から流れ込んでくる莫大な力を制御するのはセツナでも困難であり、不要な音さえ拾ってしまう。早いこと慣れなければ色々と面倒なことになりそうだったが、慣れるには使い続けるしかない。
完全化した黒き矛を召喚するのは、久々だった。ここのところ、まったくといっていいほど召喚していなかったからだ。
完全化した直後に召喚した際の激変のせいで、召喚に億劫になっていた。慣れなくてはいけないということもわかりきっていたし、力を制御するための訓練も行わなければならない。わかってはいるのだが、体調の回復を理由に遠ざけていた。もちろん、体を鍛えるための訓練そのものは続けていたし、ルクスによる剣術指南、エスクによる猛特訓も行っている。だが、黒き矛の召喚だけは行っていなかった。
今回は、そうもいっていられないから召喚したのだ。
ラムレス=サイファ・ドラースがなにを企み獅子王宮上空に現れたのかはわからないが、狂王と呼ばれるほどのドラゴンともなれば、王都を滅ぼすことだってありうるのではないか。
そんなことをセツナが黙って見過ごすことなどできるわけもない。
「陛下は後ろにお下がりください。なにがあるかわかりませぬ故」
「さすがは黒き矛のセツナだな。なんとも頼もしい」
レオンガンドの一言にほっとしたのも束の間、上空のドラゴンに変化が起きた。
旋回を止めたかと思うと、セツナたちの頭上に移動し、それからゆっくりと降下してきたからだ。
「セツナ=カミヤだな!」
頭上から降ってきたのは、凛とした女の声だった。