第千二百四十二話 余韻(一)
夜が過ぎて、朝が来た。
昨日、王宮の医務室で専属軍医による治療を終えたセツナは、即刻、群臣街の《獅子の尾》隊舎に帰っていた。。そのまま王宮で一晩を過ごすという選択肢もあるにはあったが、隊舎の自室に戻ったほうが静かにじっくり休めるだろうということから、隊舎に帰ることにしたのだ。
領伯という立場を考えれば、王宮区画に屋敷でも持ち、そこを休憩所代わりに利用するという手もなくはない。ジゼルコートがそうしているように、だ。王宮区画内でも、自分の屋敷の中にまで無関係な貴族などが押し寄せてくることはあるまい。
しかし、セツナは、隊舎に戻って休むだけで十分だと判断し、王宮区画に屋敷を持とうとはしなかった。レオンガンドに頼み込めばすぐにでも用意してくれるだろうが、たとえすぐさま屋敷と敷地を手に入れたとして、その管理や維持のための人員を新たに用意しなければならないことなどを考えると、煩わしいことこの上なかった。それならば、今までどおり隊舎で過ごしている方がいい。
《獅子の尾》の隊舎は、もともとナーレス=ラグナホルンが住んでいた屋敷なのだ。領伯の屋敷としても十分な広さがある。
もっとも、領伯の屋敷という風にはどうあがいたところでも見受けられないし、《獅子の尾》隊舎は《獅子の尾》隊舎でしかないのだが。
とはいえ、セツナが王都に滞在している間は、セツナ配下の黒獣隊、シドニア戦技隊も《獅子の尾》隊舎に住むことになっており、そういう面から見れば、隊舎がセツナの持ち物であり、領伯の屋敷という風に思えるかもしれない。
実にどうでもいいことだ。
そんな隊舎に戻ったセツナは、隊舎の食堂で開催されたセツナの無事と勝利を祝う宴でお腹いっぱいにゲイン=リジュールの手料理を食べ、至上の幸福とはこういうものなのかもしれない、などと思ったりしながら一晩を過ごした。
隊舎に戻ってからというもの、ミリュウ、レムを始め、ファリア、シーラといった女性陣や、ラグナ、ウルクたちに常に囲まれ、むしろ心休まる時間は少なかったものの、王宮にいるよりはずっと気楽ではあった。王宮で見知らぬ貴族たちの応対に追われるよりは、ミリュウに甘えられたり、レムにからかわれたり、ファリアに叱咤されたり、シーラにちょっかいを出されたりするほうが何倍もいい。
皆に心配をかけたということもある。
眠るまでの間、皆の相手をするのも悪くはなかった。
寝室にまでミリュウが入り込んできたのには辟易し、なんとかしてファリアに連れ出してもらったのだが。
別にミリュウが寝床に潜り込んでくるのは構わないし、もはや慣れたことだが、その夜ばかりはひとりで、ゆっくり眠りたかったのだ。いつものように枕元にはラグナがいたものの、彼は睡眠の邪魔になることはない。
ミリュウの場合、セツナが緊張してなかなか寝付けなくなるのが目に見えているから、ファリアに頼んで連れだしてもらったのだ。ミリュウはセツナと一緒に寝たがっていたし、セツナも彼女の心情を思えば許可しても良かったのだが、何分、疲れきっていた。
ニーウェとの戦いで精も根も尽き果てたといってもいいような状態だった。精神力を消耗し尽くしただけではなく、体力も使い果たしており、歩くことさえ困難なほどだった。王宮にいる間は、緊張感もあってなんとか動くこともできていたし、レオンガンドらへの報告中も、疲労を隠すことができたのだが、隊舎に戻った途端、緊張の糸が切れたのか、どっと疲れが出た。食堂までウルクに運んでもらわなければならないほどだった。
疲れを取るには、ゆっくり休むよりほかない。
ミリュウの話し相手をしながら寝るというのは、余計に疲れるだけのことであり、早急な回復を望むセツナにはあまり好ましくないことだった。もちろん、ミリュウの愛情は嬉しいし、彼女が側に居てくれるのは好ましい。が、それとこれとは別の話なのだ。
夢は、見なかった。
眠ると、闇があって、煩わしい光に叩き起こされるようにして目が覚めた。カーテンを閉め忘れていたのだろう。窓から差し込む光がセツナの閉じた視界に光を差し込み、目覚めを促したのだ。目が覚めた途端、全身の筋肉という筋肉が悲鳴を上げ、彼は苦い顔になった。昨日、全身のあらゆる筋肉を酷使したのだ。演武もあれば、ニーウェとの戦いもあった。特にニーウェとの戦いは、運動量そのものは大したものではないはずなのだが、戦闘の熱量というか、密度が凄まじく濃かったこともあり、肉体を酷使していた。黒き矛の全力は、セツナの身体機能を限界以上に引き出したのだ。結果、反動が現れ、肉体に悲鳴を挙げさせた。
枯渇した精神力は、多少なりとも回復したようであり、それだけでも安堵した。
「おはよう、ラグナ」
セツナは、眠りこけているラグナに小さく挨拶をして、部屋を出た。無理矢理に体を動かさなければならなかったが、慣れたことでもある。戦いの後はいつだってこのようなものだ。いつも以上に酷い有様だったが、どうということはない。
生きているのだ。
セツナは、窓から差し込む日差しの眩しさに目を細めながら、生の実感を得た。ニーウェに殺されていれば二度と見ることのできなかった光であり、風景だ。隊舎の自室。飾り気などあろうはずもない部屋には、ボロボロになった黒の鎧が飾られているだけだ。セツナが唯一部屋に置いている黒の鎧は、レオンガンドの側近バレット=ワイズムーンの父親であるマルダールの鍛冶師が作り上げたものであり、ザルワーン戦争中にセツナの元に届けられたものだ。届けられてすぐに破壊されたものの、せっかくセツナのために作られたものを捨て去るのはもったいないということで、セツナは殺風景な自室に飾ることとしたのだ。竜を模した鎧兜は、以降のセツナ用の防具にも受け継がれる意匠となっている。
黒き矛に似合う防具一式ということで、そんな意匠にしてあるらしい。ミリュウとの戦いで破壊されてしまったが、セツナは、一目見て気に入っていた。
その鎧を見ると、あのときの自分を思い出して、苦笑したくなる。ミリュウとの戦闘は、ほぼ一方的だった。一方的にミリュウがセツナを圧倒し、セツナはミリュウが逆流現象に遭わなければまず間違いなく殺されていただろう。
運に助けられている。
(運命……か)
その一言に、ニーウェとの戦いを思い出す。
運命の戦い。
彼はいった。セツナとの戦いは、運命なのだと。同一存在である以上避けては通れない戦いだったのは、疑うべくもない。ニーウェと接触した瞬間、セツナも理解した。戦わなければならない相手だと、認識した。戦い、倒さなければならない存在だった。倒し、殺さなければならない存在だった。そうしなければ、セツナがこの世界に存在することは許されない。そんな強迫観念が、セツナの意識を席巻した。きっとそれこそ世界の意思であり、宇宙の意志のようなものなのだ。
それが運命というものなのだろう。
部屋を出ると、当然のように黒髪赤目のメイドが立っていて、満面の笑顔で挨拶してきた。
「おはようございます、御主人様。昨晩よりも顔色が良くなっておられるようで、なによりでございますね」
「おはよう、レム。そうか?」
セツナは、すこしばかり気圧され気味になりながらも挨拶を返し、彼女のいつも通りの所作に安心したりもした。
「はい。しっかり食べて、ゆっくりお休みになられたからでございましょう」
レムは、そういってセツナの寝間着の皺を直した。
再び、ニーウェのことを考える。
運命について、だ。
セツナは、運命に抗った。
ニーウェを殺さなければならないという運命。殺さないのならば、殺されるべきだという運命。否定し、嘲笑った。その結果、セツナは生き残り、ニーウェも生存した。ニーウェがどこに消えたかはわからなかったが、ファリアたちの話によると、突然王都の空に現れた黒き竜の口から吐き出され、王都に落ちていったという。高度を考えれば生きている保証はないというが、きっと生きているはずだ。黒き竜の正体は、セツナの推測が正しければエッジオブサーストの最後の力であり、エッジオブサーストがニーウェを生かすために力を使ったというのであれば、彼が死ぬわけがなかった。
エッジオブサーストがなぜそこまでしてニーウェをセツナから遠ざけたのかは、わからない。あのままセツナの側にいると、セツナに殺されるかもしれない、とでも判断したのかもしれない。エッジオブサーストは、自分の運命を理解していたはずだ。黒き矛に取り込まれ、黒き矛と一体化する運命。そうなれば、ニーウェを守ることなどできなくなる。だから最後の力を振り絞って、ニーウェをセツナから遠ざけた。
推測だが、それ以外、考えられなかった。
とはいえ、そこまで現世に干渉することができるというのであれば、最初から干渉すればいいのではないか、と思わないではなかったが、あのとき、あの瞬間だからこそできた芸当なのかもしれない。エッジオブサーストの本体を黒き矛に破壊され、影も形も失われ、力だけになったあの刹那のみ、現実に干渉しえたのではないか。
ニーウェはいま、どうしているのだろう。三度セツナを襲ってくることがあるのだろうか。ニーウェを抹消しなければならないという強迫観念は消えて失せたが、それは一度でもニーウェに勝ち、精神的余裕が生まれたからなのかもしれなかったし、ニーウェが目の前にいないからかもしれないのだ。ニーウェの動向がわからない上、安心はできない。
そんなことを考えながら、セツナは、レムとともに食堂に向かった。
食事をしていると、ファリアやミリュウが続々と起床してきて、寂しかった食堂が一気に賑やかに、そして華やかになっていった。シーラ率いる黒獣隊は女性ばかりの部隊だ。そんな女ばかりの黒獣隊士が勢揃いしたのだ。華々しくもなろう。
「楽園ですな」
とは、寝ぼけ眼で食堂に入ってきたエスクの談。
レミルが彼を一瞥したが、エスクはそんな彼女に微笑を返し、困惑させるのみだった。
食事を終えれば、あとは自由にしてよかった。ニーウェとの戦いに関する報告は昨日のうちに済ませているし、報告書は必要に応じて作製すればいい。《獅子の尾》の隊としての仕事は特になかったし、隊長業務はいつものように隊長補佐と副隊長が肩代わりしてくれていた。隊長たるセツナは、体調を戻すことを先決に考えていればよく、体調管理こそが仕事といってもよかった。黒き矛のセツナは、戦場でこそ輝くのだ。平時には体調管理と日々の鍛錬を行っていればよい。それ以外なにも求められていないといっても良かった。
領伯としての仕事も、だ。領地の運営や統治に関しては司政官に任せっきりだったし、ここは領地の外であり、たとえ仕事があったとしてもなにができるわけでもない。領地内であったとしても、書類に判を押すだけの仕事しかないのだ。面倒事は司政官がやってくれている。
極めて気楽だった。
が、それもこれも、そういう風に周囲の人々が配慮してくれているからだ。
セツナには戦いに専念して欲しいという想いがあるのだ。
だから、セツナは、午前中、隊舎の前庭でくつろぎながら、一秒でも早く体調が回復することを願っていた。
マルディアへの派兵が控えている。
当然、セツナは《獅子の尾》隊長として参戦するだろうし、セツナ軍の配下たちも連れて行くことになるだろう。シーラは新生黒獣隊のお披露目だと気炎を吐いており、エスクも、シドニア戦技隊には戦場こそが似合うということで、マルディアの戦場を楽しみにしているようだった。
もちろん、明日明後日にも出発するというわけではない。戦いに行くのだ。しかも相手はマルディア反乱軍だけではなく、ベノアガルドの騎士団もいる。苛烈な戦いになるだろう。入念な準備が必要だった。戦力だけでなく、補給物資や兵站線も確保しなければならず、参謀局も軍も、大会議以来、多忙を極めているらしい。
その点、セツナは気楽だ。配下の軍団のことも、隊のことも考える必要がない。黒獣隊はシーラが、戦技隊はエスクがそれぞれに纏めあげているし、余計な心配は不要だった。《獅子の尾》など特にそうで、微塵も心配する必要がない。ファリア、ルウファ、ミリュウ――だれひとりとして、不安を抱く要素がない。皆優秀な武装召喚師だった。
不安があるとすれば、マルディアへの派兵までにセツナの体が回復しきらないことだが、そんなことはまずありえない。たとえ明日マルディアまで出発することになったとしてもだ。マルディアは、アバードのさらに北に位置している。長旅になるのだ。マルディアに辿り着くまでに回復するだろう。
「お兄ちゃーん!」
不意にセツナの耳に飛び込んできたのは、エリナ=カローヌの声だった。
快晴の空の下、長い髪を振り乱しながら駆け寄ってくる少女にセツナは顔を綻ばせた。