第千二百三十九話 セツナの想い
セツナがユノから解放されたのは、彼女と十数分の会話が終わってからのことだった。ユノは、セツナと言葉を交わすことが楽しくて仕方がないといった様子であり、だからセツナは会話を切り上げることもできず、彼女が飽きるまで話し合わなければならないと覚悟をしたのだが、そうこうしているうちにユノのほうから会話を終わらせてくれた。
『セツナ様、どうかゆっくりと体を休め、英気を養ってください。わたくしどもには、セツナ様が頼りなのです』
ユノは、セツナの手を握りしめながら、何度も何度もそんなことをいった。いわずにはいられなかったのだろうが、周囲の人々に聞かれることを考慮してもいない発言にセツナのほうがひやひやした。マルディア王女の立場を考えると、セツナだけが頼りだと取られても仕方のないような発言をするのはまずいのではないか。
(いや、むしろそれが狙いか?)
あのとき、セツナを出迎えるために謁見の間の前に集まっていたのは、セツナの仲間たちであり、部下であり、従者であり、セツナ派の貴族たちくらいのものであり、別段問題はないといえばないのかもしれない。が、政治活動とは無縁の仲間たちはともかく、セツナ派貴族たちがマルディア王女の発言を黙っているとは考えにくい。マルディア王女がセツナだけを頼っているとでも言いふらさないとも、限らない。それではガンディア軍への心証が悪くなるのではないのか、と、いらぬ心配をしてしまうのだが、それこそユノたちマルディア使節団の目論見なのかもしれないとも思わなくもなかった。
ユノたちがセツナを籠絡し、大会議を有利に運ぼうとしていたのは事実だ。ユノはみずからの体を捧げてでもセツナの協力を約束させようとしていた。セツナさえ籠絡することができれば、大会議は救援賛成で決議するだろうと確信していたのだろうし、おそらくそうなったのは疑いようもない。セツナは、いまやセツナ派なる派閥の頂点に君臨しているのだ。
セツナ派には右眼将軍アスタル=ラナディースをはじめとするガンディア軍関係者、エイン=ラジャール、アレグリア=シーンら参謀局の面々、さらには元中立派のガンディア貴族たちが続々と参加しており、レオンガンド派に次ぐ規模の派閥を形成していた。それによって元々高かったセツナの発言力が、さらに増幅したことはいうまでもない。
マルディアに関する大会議では、ジゼルコートが賛成の音頭を取ったことで、ついぞセツナが表立って発言する機会はなかったものの、セツナが最初に賛成したとしても、会議の流れは賛成に傾いただろう――とは、エイン=ラジャールの感想であり、流れを作る立場をジゼルコートに取られたことを彼はとてつもなく悔しがっていた。セツナにはどうでもいいことだが。
ともかく、セツナだけが頼りであると公言しても、特に問題はないということだ。ユノの発言を不快に思うものがいたとしても、セツナのこれまでの実績を否定するものはだれひとりとしていないし、彼女がセツナだけが頼りだと発言することも不思議ではないと思うだろう。それに、たとえセツナ派だけがマルディアに派遣されたとしても、それなりの戦果を上げられるのは間違いない。もっとも、相手がマルディアの反乱軍だけではないということもあり、完勝とはいかないこともわかっている。
ベノアガルドの騎士団が、反乱軍に力を貸しているという。
(救いといったな)
シド・ザン=ルーファウスは、騎士団は救うために戦うのだ、といった。
アバードの内乱に関与したのも、そのためだ。アバードを救い、アバード王妃の心を救うために、アバードに力を貸した。彼らにとってアバードの戦いは、救うための戦いであり、侵略戦争でもなんでもなかった。そのことは、アバードの王妃がみずから命を断ち、国王が死に、騎士団がアバードに力を貸す理由が消滅した瞬間、ガンディアとの戦いを止めたことからも窺い知れる。ガンディアとの戦いよりも九尾の狐との戦いに終始し、戦いが終われば王都の復興に尽力したのも、騎士団の騎士団たる所以というべきか。
マルディアの戦いも、きっとそうなのだろう。反乱軍が救援を求めてきたから、手を貸したに違いない。彼らに善悪などはない。ただ、救いを求める声に応じたというだけのことであり、マルディア政府と反乱軍、どちらが正しく、どちらが間違っているのかなど、関係がないのだ。そして、一度手を差し出した以上、その手を引っ込めるようなことはしない。救済対象が消えてなくなるまでは、だ。
つまり、マルディアを救うには、反乱軍を根絶するしかないということであり、反乱軍の人間がベノアガルドに落ち延びた場合、ベノアガルドまで攻めこむ必要があるということかもしれない。
マルディア国内から反乱軍を一掃しただけで喜んだはいいが、マルディアからガンディア軍が去った途端、反乱軍の生き残りとともにベノアガルドの騎士団がマルディア国内に殺到することだって十二分にある。騎士団の性格を考えれば、簡単に想像がつくのだ。
(ベノアガルドか)
小国家群最北の国のひとつだという。かつてはベノアガルド王家によって支配されていた国は、数年前、騎士団の反乱によって、騎士団の統治下に置かれるようになったらしい。ベノアガルドでは、その反乱のことを革命と呼んでおり、革命以前と以降では、ベノアガルドの国情は大きく異なっている。無論、革命以降のほうが遥かに良くなっているという意味でだ。国政は安定し、人心も落ち着きを取り戻したといい、絶望的なほどの貧富の差も、年々改善されているという。革命以前では考えられなかった政策の数々は、ベノアガルド国民の騎士団への支持率を高め続けており、ベノアガルドが国として成立しているのは騎士団のおかげだといわれているほどだという。
騎士団の頂点に君臨するのは団長フェイルリング・ザン=クリュースと呼ばれる人物であり、ときに北の騎士王と呼ばれることもあるが、彼自身、王を名乗ったことは一度たりともないという話だった。騎士団による革命の首謀者である彼は、ベノアガルド王家を滅ぼしたものの、それは王家への怨恨に根ざしたものでもなければ、王位を簒奪するためのものでもなかった。ただ国を憂い、民を救うためだけの行動であり、彼が王位につかないのもそのためだという。
そういった話を知れば知るほど、騎士団の性格の苛烈さが見えてくるようだった。
そんなことを、マリアの手当を受けながら考えていた。
王宮内の医務室。
室内には、セツナとマリア、エミルの三人しかいない。常にそばを離れないレムも、ラグナも、護衛のウルクも、マリアによって室外に退去させられていた。手当の時間くらいセツナにゆっくりして欲しいというのがマリアの言い分であり、レムもラグナも、反論の余地がなかったようだ。
応急手当は王宮への馬車移動中にレムの手によって行われているものの、あくまで応急処置的なものであり、本格的な治療は王宮に戻ってからということになっていた。無論、謁見の間での報告が終わってからのことになるのはわかっていたし、その覚悟はしていた。そして謁見の間での報告を終えれば、つぎは、マルディアの王女との会話が待っていたのだが、こちらは十数分で終わったこともあってとくに辛いものでもなかった。
そのあとすぐに医務室に連行されたのは、いくらたっても医務室に来ないセツナに業を煮やしたマリアがエミルを派遣してきたからだった。マリアなりに心配してくれていたということであり、セツナは苦笑とともに感謝しながら、彼女の手厚い歓迎を受けたりした。
マリアが王宮内の医務室を我が物顔で使っているのは、かつて彼女がここで働いていたからであり、いまでも王宮に籍を置いているからでもあった。《獅子の尾》専属軍医として出向しているに過ぎないのだ。専属軍医としての役目を終えればいつでも王宮専属の医師として働くことができるということだが、マリアとしてはそのつもりはないらしい。
「隊長殿のことをほうっておくことはできないからねえ」
臀部の傷口を診ながら、彼女はそんな風にいった。傷口は深く、手当が遅れたこともあって化膿しはじめていたということであり、しっかり消毒したあと、傷口を縫い合わせる必要があるとのことだった。ざっくり斬られていたらしい。
ニーウェによる初撃は、誤差のない瞬間移動からの斬撃だった。消えた瞬間にくる斬撃。完全に回避することは不可能であり、対策は、全力攻撃と呼称する全周囲同時攻撃しか見つからなかった。
消えた瞬間に攻撃してくるのだ。
それならば、常に神経を研ぎ澄まし、消えた瞬間、全周囲に攻撃するしかない。全力攻撃は広範囲に及ぶ。ニーウェのことだ。危険性を察知し、攻撃を諦め、回避行動に移ってくれるだろうというセツナの考えは的中した。しかし、全力攻撃は消耗が激しく、何度も使えるものでもない。ニーウェの瞬間移動攻撃を防げるのは、数回。使いきるまでに仕留めることができなければ、セツナの敗北は確定した。
しかも、ニーウェはセツナの考えを見通したように、全力攻撃を誘発させることで、セツナに消耗を強いた。消耗させることで決定的な勝機を得ようとする貪欲さは見習わなければないかもしれない。
なんとか勝てたものの、結局、瞬間移動攻撃の正体は不明のままだった。
空間転移ではないことは確かだ。空間転移能力は誤差が生まれるものだ。転移する瞬間というものが見える。しかし、ニーウェのあの能力は、移動の瞬間というものがなかった。視界から消えた瞬間には攻撃されているのだ。まるで意味不明な能力だったが、その能力発動の鍵が双刀であり、双刀が揃っていなければ使えなかったことが、セツナの勝利に繋がった。もし片方だけでも発動できたなら、セツナは間違いなく殺されていただろう。
生きていてよかった、と思う反面、これから先、ニーウェ以上の強敵と戦うことなんてあるのだろうかと思わないではなかった。
十三騎士でも、ニーウェとエッジオブサーストほど凶悪な能力の持ち主などいないのではないか。
少なくとも、シドやベインなどでは比較にならない。
そこまで考えて、ふと、思い出す。
「そういや、ジゼルコート伯は医務室にいないんだな?」
ジゼルコート・ラーズ=ケルンノール・クレブールが負傷し、医務室で療養中だったことを思い出したのは、騎士団のことを考えたからだろう。マルディア救援に関する大会議のあと、ジゼルコートはセツナ派貴族によって襲撃されている。その後即座に医務室に運ばれたジゼルコートは、マリアに治療されている。マリアの医師としての手腕は、王宮に仕える医師の中でも群を抜いているというだけでなく、長らく王宮医務室で働いていたことから王家からの信頼も厚いのだ。ジゼルコートがマリアに直接治療を頼むほどなのだから、余程の信頼があるということだろう。
噂によれば、ジゼルコートは、マリアが《獅子の尾》専属となったことを口惜しがったという。随分前の話だが、セツナはつい最近、知った。そのことをマリアに尋ねると、彼女は苦笑しただけだった。
「ああ。領伯様なら御自分の御屋敷に戻られたよ。安静にするには、王宮はうるさすぎるっていうんでね」
「……まあ、そうかもな」
セツナには、実感として理解できる。王宮での療養中、心休まることのほうが少なかったかもしれない。少しでも回復すると、ひっきりなしに訪れる見舞い客の応対に追われ、逆に疲れるのだ。もちろん、疲労が悪影響するような状況では、マリアによって面会すら断られたが、面会の許可が降りると、マリアでも抑えきれないほどに見舞客が訪れたものだった。
その点、《獅子の尾》隊舎での療養というのは、悠々自適だった。話し相手には困らないし、見舞い客は王宮に比べるとずっと少ない。隊舎に入るのは、王宮への登殿資格を持つような貴族たちにはむしろ難関なのだ。貴族たちは
「しっかし、酷い傷だったよ。人間、恨みを買うもんじゃあないねえ」
「本当にな」
「ははっ、隊長殿がいってりゃ世話ないよ」
「うん。恨み買ってぶっ刺されてんだからな」
「笑えませんよ」
といってきたのは、エミルだ。彼女はマリアの助手として、マリアの手足となって医務室内を動き回っている。
「すまん」
「あ、いや、別にそういうわけでは……。ただ、ルウファさんも皆さんもすごく心配していたことなんです」
「ああ……そうだったな」
暗殺未遂事件のことだ。
ラインス=アンスリウスら反レオンガンド派が画策したセツナ暗殺計画。実行犯は、エレニア=ディフォンであり、セツナは彼女に腹を刺され、生死の狭間を彷徨っている。死にかけたのだ。辛くも生を掴んだセツナは、ファリアやミリュウたちを散々悲しませたことを知り、そのことで苦しんだものだった。
ふと、エンジュールでのことを思い出して、セツナは寝台に寝そべったままマリアを見つめた。
「……エレニアは、元気そうだった」
「そうかい」
マリアの反応は、そっけないように見えて、そうでもない。口辺が笑っている。
「マリアさんが診察したんだっけ? 妊娠」
「少し調べりゃわかることさね」
「感謝してたよ、彼女」
「感謝されるようなこと、したつもりはないけどねえ」
「エレニアは、自分とウェインの子を宿していることを教えられたから生きることができたって、いってたよ」
「それはなによりさ」
「ああ。そうだな」
セツナは、マリアによる触診にくすぐったさを感じながら、エレニアが見せた笑顔を思い出していた。揺り籠の中で眠る赤子を見守る彼女の表情はとてつもなく穏やかで、柔らかかった。セツナを殺そうとしたときに見せた表情の面影はなく、それだけで、救われた気分になった。
無論、セツナが彼女の愛した人物を殺めた事実は消えない。その事実は、セツナと彼女の間に横たわり続けるだろう。永遠に。だが、それだけがすべてではない。新たな関係が結ばれつつあることも、感じている。エレニアは、セツナにも感謝していた。愛したひととの子を産むことができたのは、その子を育てることができるのは、あのとき、セツナが自分を生かしてくれたからだ、と。
『この御恩、一生忘れませんわ。領伯様』
エレニアの穏やかな微笑は、それこそ、一生忘れられないものとなるだろう。
「隊長殿は優しいねえ」
「本当ですよ」
マリアとエミルが、一切の優しさを廃したかのようにセツナの傷口を消毒しながらいってくる。消毒というのは痛みを伴い、セツナは、彼女たちが悪魔のように思えて仕方がなかった。
「そうかな」
激痛に耐えながら、つぶやく。
「敵には容赦していられないんだ。敵でもないひとにまで、そんな風にはいられないさ」
敵は、倒さなくてはならない。ただ倒すだけでは駄目で、殺さなくてはならない。半端に生かせば、禍根となることを知っている。身に沁みて、理解している。そのせいで味方を窮地に追いやったことがあるからだ。生かしてはならない。相対した敵は殺し尽くさねばならない。立ちふさがるものすべてすべからく鏖殺するべきであり、そうでなければ、黒き矛のセツナではない。十人、百人、千人、あるいは万人――敵と回ればすべてを殺し、滅ぼし尽くす。でなければ完全な勝利など得られるはずもない。かといって、戦後のことを考えると、殺し過ぎるのも考えものだったし、必要以上に殺すことはない。とはいえ、敵に戦意があるかぎりは殺さなければならない。でなければ、味方に害が及ぶ。味方をひとりでも多く生かし、敵をひとりでも多く殺す。それがセツナの役割なのだ。
エレニアは、敵だった。
ログナー戦争では、ではなく、暗殺実行時のことだ。彼女は明確な殺意をもってセツナを殺そうとした。だれかにいわれたからではなく、彼女自身の意志でセツナを殺そうとした。殺意を以って刃を向けてきた相手には、殺意を以って刃を返すほかないのだが、あのとき、セツナは彼女を殺す気にはなれなかった。むしろ、殺されてもいいと思ってしまった。
あれだけ殺したのだ。
殺されることもある。
復讐されるのは当然だった。道理といってもいい。
だから殺されるても構わなかった。
だが、生きていた。
生を拾い、そこが戦場でなく、相手が戦意を失った以上、命を奪う必要はない。その程度の考えで、セツナは彼女を生かした。
戦闘以外で命を奪いたくはなかった。
ただ、それだけのことだ。
「それが優しいっていうんだけどねえ」
「ですねえ」
「なんだよ」
「ん……隊長殿が憎たらしいって思っただけですよ」
「なんでだよ!」
セツナは背を仰け反らせてマリアを見上げるのがやっとだった。
彼女はなにやら意味深気な笑みを浮かべていて、その艶やかさに目を奪われたりした。