第千二百三十八話 セツナのこと
レオンガンドへの報告を終えたセツナは、レオンガンドの勧めもあって王宮内で休むことになったのだが、謁見の間を辞し、室外に出た途端、多くの人々に待ち受けられていて、困惑した。セツナを待ち受けていたのは、ファリアら《獅子の尾》の部下たちに、セツナ軍関係者だけでなく、セツナ派貴族を始めとする数多くの王宮関係者であり、その中にはマルディア王女の姿もあった。まっさきに彼女に目がいったのは、彼女がいつものきらびやかな装束を身に着けていたからに他ならない。
「セツ――」
「セツナ様! 無事の帰還、心よりお喜び申し上げますわ!」
「王女殿下……」
セツナが唖然としたのは、まっさきに声をかけてきたミリュウを遮って、マルディア王女ユノ・レーウェ=マルディアが眼前に飛び込んできたからだ。彼女はその大きな目をきらきらとさせながらセツナの両手を取ると、手の傷を見て眉を顰め、痛々しそうな顔をした。傷だらけなのは手だけではない。全身、至る所に傷があるといってもよかった。もちろん、着替えていることもあって、臀部の傷や全身の傷は見えないのだが、顔や首など、露出している部分の傷だけでも眉を顰めるのに十分だったかもしれない。
「こんなになるまで戦われたのですね……」
「ええ……まあ……」
セツナは、ユノの反応にどう対処すればいいのか困り、助けを求めて視線を巡らせたが、相手が他国の王女ということもあってか、だれひとりとしてセツナを救ってくれはしなかった。セツナはそのまましばらくマルディア王女の相手をしなければならなかったのだ。
無論、ユノのことは嫌いではない。むしろ、好きな方だ。国のため、民のために我が身を擲つ覚悟があり、決意を秘めた少女は、セツナの好きな類の人物だった。清純で可憐という、セツナの周囲にいる女性陣の中にはいない種類の女性ということもあるが、そこは関係ない。
人間的に好意を抱いているから、反応に困るという話だった。
「な、なんなのよ……もう」
ミリュウが頬を膨らませたのは、彼女がセツナに駆け寄ろうとした瞬間、マルディアの王女に間に入られ、セツナに話しかける機会を見失ったからだろう。宝石の集合体のような王女の姿はただひたすらに輝かしく、近づくことすら憚られるような高貴さに満ちている。十代前半の少女だ。外見年齢的にはレムと大差ないといっていいが、実際の年齢も十代の少女であるマルディアの王女は、その挙措動作に至るまでが初々しく、可憐であり、華やいでいた。セツナが戸惑うのも無理はないだろうと思うくらいで、ミリュウがむくれるのもわからなくはなかった。
「さあ?」
ファリアも、セツナに話しかける機会を逸したことには怒りさえ覚えたものの、マルディアの王女の立場を考えれば、致し方無いとも思えた。マルディアの王女としては、ガンディアで権勢を誇るセツナとの関係が良好であると主張することで、ガンディア国内で一定の発言力を得たいのかもしれない。ガンディア軍のマルディアへの派兵が決まった以上、発言力を得ようと得まいと関係ないのだが、少女の考えることだ。よくわからない。
マルディアへの救援を一刻も早く実行に移してもらうべく、救援賛成派のセツナに近づいているのか、それとも、まったく別の理由から、セツナと懇意になろうとしているのか。戦後のことも考えた政治的な行動なのかもしれないし、王女たるものそうであるべきだろうとファリアは思ったが、ユノとその家臣たちの表情の落差を見る限りは、そうでもなさそうだった。ユノはセツナの無事を心底喜んでいるという風であり、またセツナのことを本気で心配していたという様子なのだが、そんなユノを見るマルディアの文官たち、侍女たちの表情というのは、彼女に一抹の不安を抱いているとでもいうようなものだった。
(なんなのかしら?)
ファリアが疑問に思っていると、レムがぽつりとつぶやいた。
「そういえば御主人様、マルディアの姫君と話し合われておりましたね」
「そういえば、そうじゃったな」
レムとラグナの会話にぴくりと反応したミリュウは、レムに険しい表情を向ける。
「初耳だけど?」
「内密のお話のようでしたので、内緒にしておいたのでございます」
レムがにこにこしながらいった。大抵のことは包み隠さず話してくる彼女だったが、セツナの立場が悪くなるかもしれないような政治的な話はたとえファリアたちにであっても話さないことがあった。マルディア王女との話し合いもそれなのだろう。ファリアは、マルディアの王女がセツナの部屋を訪れたという話は聞いていて、王女がセツナを政治利用するために接近したのだと理解していたのだが。ミリュウは、王宮内で情報収集するような性格の持ち主でもなければ、セツナ以外の他人に興味を持つわけでもないため、情報に疎い。
「なるほど……ひとつ謎が解けたわ」
「なに?」
「あの姫様が大会議中、セツナに熱烈な視線を送っていた謎が解けたのよ」
「セツナと話し合っていただけで?」
「きっとセツナに魅了されちゃったのよ!」
「……そういうこと」
ファリアは、ミリュウの頓狂な発想に軽く頭痛を覚えた。半眼になるファリアに対し、ミリュウはまさに正解を導き出したとでもいわんばかりの表情を向けてきている。
「そうよ、きっとそうよ。新たな敵よ。あたしとはまったく違う種類の女……しかも王女様……くっ、相手にとって不足はないわ」
「なにひとり盛り上がってんだか」
なにやらふつふつと対抗意識を燃やしているらしいミリュウから視線を外しながら、ファリアは嘆息ととともに王女を見やった。マルディアの王女は、未だにセツナを独り占めしている。ユノ王女もユノ王女だが、セツナもセツナだ、と思わないではない。無論、相手の立場のこともあって迂闊に離れられないというのが大きいのはわかっているが。
そんなことを考えていると、ミリュウとは別人が小さくも強い口調でつぶやいているのが聞こえた。
「王女様か……負けてらんねえな」
シーラだ。
ファリアは、またしても軽い目眩を覚えながら彼女を振り向くと、黒獣隊の隊服を身につけた元アバード王女は、眩いばかりの宝石を身につけたマルディアの王女を見遣りながら、目を細めていた。近寄り、囁くように告げる。
「あなた、元王女様でしょ」
「元王女でも、俺は半分男みたいなもんだったからな……」
彼女の悔恨は、女らしい振る舞いを苦手とする自分に対するもののようだった。そしてそれは、男言葉を使い、荒っぽく振る舞うことしかできないことが、セツナとの関係を発展させられないことに繋がっているとでも判断しているようであり、彼女がセツナへの隠し切れない好意を表しているとでもいうべきかもしれなかった。特に驚くことではない。シーラがセツナに好意を抱いていることは周知の事実だったし、そのことをシーラの元侍女である部下たちはからかったり、囃し立てたりしているのもよく知っている。シーラ自身、セツナへの好意を隠してはいないのだが、直属の部下という立場になったいま、関係性を発展させられないでいるようだった。
そのことに関しては、正直にいってほっとしているというほかない。
セツナが周囲の女性に持て囃されるのは、当然のことだと想う反面、セツナが自分以外のだれかに独占されるようなことになってほしくはないとも想っている。かといって、セツナを自分ひとりのものにできるとも想えない。独占したいが、できないのではないか。セツナという人物の性格を知れば知るほど、そんな風に考えてしまう。
彼はあまりにも優しすぎる。
「隊長殿、いまこそウェリスに頼み込んで、男を落とす技術を身に付けるときだ」
と、シーラに力強くいったのは、クロナ=スウェンであり、シーラはそんな彼女の強いまなざしになにかを決意したような顔になった。
「っ……そうだな」
すると、黒獣隊副長のウェリス=クイードが慌てふためく。
「なに納得してるんですか。それに男を落とす技術って!? わたくしは、隊長を素晴らしい女性になっていただくのが使命なんですよ!?」
「素晴らしい女性には、それに見合う男が必要だろ?」
クロナがにやりとすると、ミーシャ=カーレルが囃し立てる。
「そーだそーだ!」
「それはそうかもしれませんが、男性を落とす技術は……その……別の方に学んで頂きたく……」
「でしたらわたくしがお教えいたしましょうか?」
「は? レムがか?」
「ジベルの死神部隊出身でございます故、こう見えましても、殿方を籠絡する術、身につけておりましてございます」
「な、なんだって……!?」
シーラが、レムの発言に愕然とする様を見やりながら、ファリアは軽く肩を竦めた。
レムが死神部隊の出身だということはよく知られた話だし、ザルワーン戦争時、ザルワーン南東の都市スマアダがジベルの手に落ちたのが死神部隊の暗躍によるところが大きく、中でもザルワーンの翼将を籠絡したことがジベルの勝利に繋がったという話も、レムの口から聞いている。死神弐号ことカナギ・トゥーレ=ハランがその手の技術に長け、レムは彼女から手取り足取り学んだということであり、その技術でセツナを落とそうと考えたこともあるらしい。が、結局レムのほうが落とされてしまった、とは彼女の談。
レムも、セツナへの好意を隠さない人物のひとりだ。彼女はもはやセツナと切っても切れない間柄になっていることもあって、セツナのことを独占したり、セツナと結ばれることを考えていたりはしないようだが――別の意味で結ばれているといっても過言ではないことが大きいようだ――、それでもときにファリアたちが嫉妬しかねないほどにセツナに接近できるのは、彼女の特権といえるだろう。そういうとき、いつも対抗意識を燃やしてセツナに甘えるのがミリュウであり、ファリアは少し離れた位置で見守ることしかできない。それがそれぞれの距離感というものであり、その距離感を崩すことは簡単なことではない。それはセツナとの距離感だけの問題ではないからだ。周囲の人間関係にも影響を及ぼしかねないことであり、他人のことなどどうでもいいとでも思わないかぎり、簡単には変わらないだろう。
ファリアは、シーラとレムの会話を上の空で聞きながら、セツナを見やった。
セツナは、未だにマルディアの王女となにやら談笑している。
満身創痍の、しかし微塵も疲れた様子を見せない少年には、異性を魅了する力があるのは間違いない。