第千二百三十七話 真なる黒(四)
セツナが王都に帰還したのは、その日の夕刻のことだった。
使者の森跡地から王都までの長距離をわずか数時間で移動できたのは、ウルクのおかげだった。セツナは、レム、ラグナとともにウルクの腕に掴まり、彼女の高速移動を体験したのだ。大地を駆け抜け、空中を飛ぶように移動する様は、さすがに戦闘兵器といったところであり、セツナは驚きを禁じ得なかった。そして、あっという間に使者の森から王都ガンディオンまで到達したのには、開いた口が塞がらず、レムたちが使者の森跡地に現れたのも納得がいくというものだった。
短時間での移動だったとはいえ、セツナが王都に辿り着いたころには空は赤く染まっていて、王立召喚師学園の開校式典も終了していた。そのため、一旦王立召喚師学園に出向いたセツナたちは、王宮に向かうことになった。生存と勝利、黒き矛の完全化についての報告をしなければならない。
道中、王都は、大騒ぎになった。
騒ぎは、セツナが王都に帰還した瞬間から始まっていたようなものであり、新市街から旧市街、群臣街へと移る中、騒動は王都中を伝播し、とどまることを知らず膨れ上がっていった。式典の最中、セツナが連れ去られたという事件が大々的に伝えられていたらしい。そして、セツナを連れ去った犯人が先にセツナに致命傷を与えた偽者だということも伝わっていたようであり、セツナの無事を不安視していた人々も大勢いたようだった。レムによってセツナの生存は伝えられていたものの、セツナの不在が王都市民の心に暗い影を落としていたのは事実であり、セツナが無事に生還したことで、そういった不安が吹き飛び、お祭り騒ぎのような状況になったのはある意味では必然だったのかもしれない。
「さすがはガンディアの英雄でございますね」
「うむうむ。さすがはわしのセツナじゃな」
「わたしのセツナです」
「わたくしの御主人様でございます」
「いちいち張り合うなっての」
王宮へ向かう馬車の中、三者三様に言い争いを始める同行者たちに、セツナは頭を抱えたくなった。馬車は、王立召喚師学園に用意されていたものを使っている。どうやらレオンガンドが気を利かせて用意してくれていたようだった。レオンガンドは、セツナが王都への帰還後、真っ先に学園に向かうだろうことを予測していたのだろう。セツナは王都の門を潜るなり、周囲の話も聞かず、学園を目指している。式典が終わったことはわかりきっていたのだが、まだレオンガンドや関係者が残っているかもしれないと思ったからだ。しかし、学園に辿り着く前に、その考えが間違いであることはわかりはじめていた。式典の最中は厳重を極めた学園周辺の警備が薄くなっており、通常状態に移行していることが伺えたからだ。そして学園敷地内に入って、レオンガンドを始めとする式典参加者がそれぞれの場所に帰っていたことを確認した。
だからといってがっかりもしなかった。確認を取るために学園まで足を運んだだけのことなのだ。王宮に戻ったというのであれば、王宮に向かえばいいだけのことだった。おそらく、ファリアたちも王宮に戻っていることだろう。
王都を包み込む喧騒の中、セツナたちを乗せた馬車は王宮区画に入った。獅子王宮前で停車した馬車から降りたセツナは、レオンガンド直々の出迎えを受けた。馬車に乗った時点で連絡がいっていたのだろう。馬車よりも馬を飛ばすほうが遥かに早いのは当然だ。
レオンガンドの出迎えを受けたときには、頭上には満天の星空が広がっていた。
「陛下、このセツナ、只今、帰還致しました」
セツナが最敬礼でレオンガンドに帰還を告げると、レオンガンドは、満面の笑みでもってセツナに返答した。
「セツナ伯、無事の帰還、御苦労」
出迎えの言葉は、それくらいのものだったが、セツナにはそれだけで十分だった。その言葉の中には、レオンガンドの様々な想いが込められていることがセツナには伝わってきたからだ。
王宮に入ると、まず謁見の間に通された。
報告を行うのは、大抵、謁見の間になる。
国王レオンガンド・レイ=ガンディアと王妃ナージュ・レア=ガンディア揃い踏みの謁見の間には、レオンガンドの六人の側近も勢揃いであり、大将軍アルガザード・バロル=バルガザールに左右将軍、王立親衛隊二隊の隊長たちも顔を揃えていた。もちろん、参謀局の第一、第二作戦室長もいる。
王都を留守にしていることの多い左右将軍が揃っているのは、マルディアに関する大会議のおかげとでもいうべきだろうか。そんなことでもなければ、左右将軍が同時期に王都にいることはありえなくなっている。左右将軍は、ガンディアが新たに支配した地を平定し、慰撫するために派遣されることが多い。ミオン、クルセルク、アバードなどがそれだ。アバードはガンディアに従属しただけではあるものの、アバードの国力が低下していることもあって、ガンディアが直々に介入する必要があり、そのためにアスタル将軍が派遣されていた。今現在は大会議のために王都に帰ってきているのであり、王都での用事が終われば、再びアバードに向かうことになるだろう。一方、デイオン将軍はクルセルク方面の平定と慰撫に派遣されていたのだが、どうやらクルセルク方面はデイオン将軍の手によって完璧に近く統制されているということだった。さすがは獅子王の左眼というべきだろうか。
なんにせよ、錚々たる顔ぶれの揃った謁見の間で、セツナは緊張を禁じ得なかった。
「セツナ伯、まずは無事の帰還を喜ぼう。君が生還してくれたこと、心より嬉しく思う」
「陛下の仰る通りです。セツナ伯、あなたはこの国の至宝。失わずに済んで、本当に良かった」
国王夫妻の言葉は、まるでセツナの勝敗など気にしていないようなものであり、ふたりがいかにセツナのことを大切に思ってくれているのかが伝わってきた。特にナージュの一言がセツナの胸に突き刺さる。
(至宝……俺がか?)
セツナには実感として理解のできない言葉だった。至宝。宝の中の宝とでもいうべきか。ともかく、それほど重要なものだと認識してくれているということであり、セツナは、歓喜に打ち震える自分を認識した。そんな国王夫妻の前では、傅き、かしこまる以外にはなかった。
「その傷だらけの姿からも君がどれほど激しい戦いをしてきたのか、想像がつく。しかし、本当のところはよくわからない。できる範囲でいい。報告してくれないか?」
レオンガンドは、優しい口調で告げてきた。まるでこちらの心情を気遣うような口振りに、セツナはなんともいえない気持ちになった。
「もちろんでございます」
そして、セツナは、ニーウェとの戦いについて、ほとんどすべてを報告した。
ニーウェの記憶を除く、すべて。
「使者の森を破壊し尽くすほどの戦い……か。常人の立ち入れるようなものではなかったようだな」
「……ニーウェが無関係な他者を巻き込むことも躊躇しない性格であれば、最悪、王都は壊滅的な損害を被っていたかもしれません」
「話を聞く限りでは、その場合、我々が殺されていた可能性もあるのだな」
「……はい」
セツナは、険しい顔をするレオンガンドの言葉を静かに肯定した。
ニーウェがレオンガンドたちを始めとする戦いに無関係な人間に一切手出しをしなかったのは、ニーウェの性格によるもの以外のなにものでもない。
ニーウェは、帝国の人間だ。三大勢力の一角をなすザイオン帝国の皇子にとって、小国家群の一国の王家臣民がどうなろうとしったことではあるまい。逆をいうと、小国家群の国々は、三大勢力の一国に蹂躙されたところで泣き寝入りするしかないのだ。戦力差があまりにも圧倒的だ。太刀打ちできるわけもなければ、一矢報いることさえできない。立ち向かおうとすれば滅ぼされるだけのことだ。
つまり、ニーウェの性格によっては、セツナに本気を出させるため、レオンガンドやナージュを人質にし、殺すことだってありえたのだ。
いや、性格が異なれば“決戦”に拘らず、セツナを殺すことだけに終始したかもしれない。セツナを殺し、黒き矛を破壊するためだけならば、なにも“決戦”を行う必要はない。人質を取った上でセツナに黒き矛を召喚させれば済む。ニーウェがそれをしなかったのは彼個人の性格であり、セツナと同一存在だったからにほかならない。
セツナがニーウェの立場であっても、同じだっただろう。勝たなければならず、殺さなければならないのだとしても、人質を取ったりはすまい。
「ですが、ニーウェの性格上、それはありえないことだったでしょう」
「そう言い切れる根拠は?」
「彼は、俺ですから」
「……ふむ。同一存在、か」
「はい」
「この世界における君、という話だったな」
レオンガンドが目を細めた。じっと、セツナのことを見つめてくる。
セツナが異世界の人間であるということを知っているのは、レオンガンドを含めた一部の人間だけだった。今回の報告ではじめて知ったという人物も少なくはない。デイオン、アスタルの両将軍も、ラクサス、ミシェルの両親衛隊長も、セツナの報告を聞いて驚いていた。エリウス=ログナーも、ジルヴェール=ケルナーも、だ。
ニーウェとの戦いについて報告するのならば、彼との因縁について語らねばならず、そうなると同一存在に言及しなければならなかった。同一存在に言及するということは、セツナの正体も明らかにしなければならないのであり、セツナは一応、異世界人であることを話していいものかどうか、レオンガンドに聞いている。
レオンガンドは、もはや隠す必要はないだろう、といってくれた。
『君がこれまでこの国に尽くしてくれたこと、知らぬものはだれもいない。君の正体がなんであれ、もはや君のことを疑うものなどだれひとりとしていまい』
それから、彼は側近のひとりを見たものだ。
『なあ、ケリウス?』
『もちろんです、陛下』
ケリウス=マグナートは、苦笑を漏らしながら、レオンガンドの言葉を肯定した。レオンガンドの四友のひとりであり、側近のひとりケリウス=マグナートは、かつてセツナの存在を疑問視した人物だった。セツナが異世界の存在であることが彼には気に食わなかったのだ。
クルセルク戦争を経験したいまとなっては、ケリウスの考えはむしろ真っ当であり、至極当たり前の反応だということがわかる。皇魔に蝕まれた世界であることを思えば、異世界の存在など害悪でしかないという考え方に至るのは当然だ。むしろセツナを厚遇し、重用したレオンガンドのほうが普通ではないのだ。もちろん、レオンガンドがセツナを重用したのは、黒き矛が強いからに他ならないが。
「ということはだ。君の世界には、わたしがいるのかもしれないのか」
「そうなりますね」
セツナはレオンガンドのつぶやきを肯定するとともに、意外なことをいってくるものだと思った。考えたこともなかったが、確かにそういうことも十分ありうる。このイルス・ヴァレにセツナと同一存在であるニーウェがいるのであれば、セツナの生まれ育った世界には、この世界の住人の同一存在がいたとしても、なんら不思議ではない。むしろ、いて当然と考えるべきだろう。
レオンガンドの同一存在もいるだろうし、ファリアやミリュウといったセツナと関わりのある人物の同一存在もいるかもしれない。いたとしても、セツナと巡り会えるような人物ではないだろう。きっと日本人ではない。
(とは、言い切れないかな)
ニーウェは、元の世界におけるセツナとは、立場も家族構成もまったく違う人物だった。ただ同一存在というだけで、歩んできた人生も異なるのだから当然の話だ。もしかすると、元の世界におけるファリアの同一存在は日本人で、セツナのよく知る人物かもしれない。可能性としては、あり得ない話ではない。
レオンガンドが面白そうに微笑む。
「逢ってみたいものだな。君の世界におけるわたしがどういう人生を送っているのか、聞いてみたい」
「面白そうですね。セツナ様の世界のわたくしは、陛下と結ばれているのでしょうか?」
「もちろん結ばれているとも」
「陛下……」
仲睦まじい国王夫妻のやり取りは、ただ見ているだけで幸福な気分になってくるのは、なぜだろう。きっと、レオンガンドとナージュのことが心底好きだからだ。好きなひとの幸せな様子ほど嬉しいものはない。
「しかし、同一存在と逢うのは、君の報告を聞く限り、あまりよろしくはないようだな」
「そうですね。あまりいいことではないでしょうね」
「互いの存在を認められなくなるか」
「俺も、危うくニーウェを殺してしまうところでした」
「……危うくか」
「同一存在ですから」
セツナは苦笑とともに答えた。同一存在。なにもかもが同じ異世界の自分。この世界におけるセツナそのものが、ニーウェだった。姿形だけではない。育ちが違うのに考え方もどこか似ていた。魂の形までそっくりそのままなのだろう。だから同一存在。だから、世界は許容できない。どちらかひとりしか、受け入れられない。
ニーウェは生き残った。
であれば、全存在をかけた戦いを再び挑んでくることもありうるだろう。覚悟しなければならないが、今度は余裕でもってしのぎきるだけの自信がある。黒き矛が完全化した上、エッジオブサーストは永遠に失われたのだ。理解不能な攻撃に翻弄されることはない。つぎは、セツナのほうが遥かに有利となるだろう。
「そういう風に仕向けられるんですよ」
「世界にか」
「はい」
「……なんにせよ、君がニーウェを殺さずに戦いを終わらせてくれてよかった。帝国を刺激せずに済んだのだからな」
心の底から安堵しているのは、レオンガンドだけではない。この場にいる大半の人間が、帝国との全面戦争に発展する可能性がなくなったことを心から喜んでいる。セツナの生還以上に、帝国との戦いが起きないことを喜んでいるかもしれない。当然だ。セツナが死んだとしても戦力が低下するだけであり、それに関しては戦力を増強すればいいだけのことだが、帝国との戦争となればどうすることもできない。帝国の圧倒的戦力に飲まれ、滅びるしかなくなる。
完全な黒き矛を持ってしても、防ぎきることなど不可能だ。
「そして、君は黒き矛のさらなる力を得た。これほど喜ばしいこともあるまい。黒き矛のセツナはますます強くなったということだろう?」
「はい」
「まあ……しかし、君ひとりに頼り続けるというのも、あまりよくはないことなのだがな」
「頼ってください」
「……セツナ」
「俺は、陛下の矛ですから」
セツナは、みずからの胸に手を当てて、告げた。レオンガンドに忠誠を誓うだけではない。命を捧げるだけの覚悟と決意がある。
「わかった。その言葉、胸に刻もう」
レオンガンドはセツナの目を見つめながら、いった。その隻眼には、並々ならぬ決意があり、セツナにとっての光があった。