第千二百三十六話 真なる黒(三)
夢を見た。
いや、それは夢といっていいものなのか定かではない。
夢と現の狭間。
灰色の世界。
空も、大地も、吹き抜ける風も、なにもかも灰色に染まった世界。夢でもなければ、現実でもない、そんな世界。
またかよ、とつぶやいたものの、声は出なかった。
ただ、竜を見た。
大地に蹲っていた黒き竜が翼を広げ、大空へと飛び立つ瞬間を見ていた。まるで地上に縛り付けていた枷を解かれたかのような自由さがそこにはあった。羽撃き、あっというまに天へ至る。灰色の空を割り、極彩色の空が開かれる。灰色の世界が一瞬にしてあざやかできらびやかな世界に変わる。あっという間だった。あっという間に世界が変わる。夢と現の狭間から、あざやかな現実へと変わっていく。目が覚める。いままでにない目覚め方だった。
目を開くと、見慣れた少女の顔があった。いや、実際の年齢的には少女ではない。肉体年齢が十三歳のまま止まっているから少女と感じるのだ。死神レム。セツナの従僕であり、セツナが命を分け与え続けている人物。いつものようにメイド服を着こんだ彼女は、セツナの目覚めに気がついたのか、可憐な笑みを浮かべてきた。
「やっと、お目覚めになられましたね」
「レム?」
名を呼んだのは、なぜ彼女が目の前にいて、セツナの顔を覗き込んできているのかが気になったからだ。
「なんでしょう?」
と、不思議そうな顔をする彼女の下の方から、飛竜が顔を覗かせてきた。
「わしもおるぞ」
蜥蜴とも蛇ともつかぬ頭部を持つ奇妙な生き物は、ラグナシア=エルム・ドラースと名乗る小飛竜だ。緑柱玉のような美しい外皮に覆われた体は丸みを帯び、どことなく愛らしさを感じさせる。一対の翼を持ち、長い首を長い尾が特徴的だった。大きな目はまるで宝石のようであり、その目にセツナの顔が写り込んでいるだろうということが容易に想像できた。
「ラグナ?」
「わたしもここに」
無感情な声は少し離れた位置から聞こえてきた。声の主の姿を見るべく体を起こそうとすると、レムが肩に手を添えてくれた。セツナの動作がぎこちなかったのかもしれない。全身の筋肉が悲鳴をあげているのだ。そうもなろう。先ほどの声の主は、レムの背後に立っていた。一見絶世の美女と思しき人物。実際は人間ではなく、魔晶人形と呼ばれる戦闘兵器なのだが、人形というだけあってきわめて人間に酷似した姿形をしていた。長い灰色の髪が風に揺れ、淡く発光する双眸がこちらを見ている。ウルク。
「ウルクまで? どういうことだ?」
「どうもこうもございませぬ。御主人様をお迎えに上がったのでございます」
「迎えに……?」
セツナはレムを見つめて、きょとんとした。よくわからない。いま自分がどういう状況に置かれているのか、まるで理解できていなかった。なにがあったのか。なにがあって、自分がここにいるのか。なぜ、こんなところで寝ていたのか。
頭上には、青空が広がっていた。夢現の狭間でみた光景そのままだ。黒き竜が灰色の空を貫き、晴れ間を呼んだかのようだった。記憶では、眠る前までは曇り空だったはずだ。雨が降るかもしれないというのに眠ってしまったことを思い出す。
「おぬしがおらぬと皆が不安がるからのう」
「早急に迎えに行くべきだと判断しました」
ラグナとウルクの発言などがきっかけとなって、おぼろげだった記憶が少しずつ思い出されていくのがわかる。
「……そういや、そうか」
「どうされました?」
「俺、ニーウェと戦ったんだっけ」
セツナがぼんやりとつぶやくと、ラグナが唖然とした。
「もう忘れておったのか? 呆れたやつじゃ」
「まったくです。わたくしどもがどれほど御主人様のことを心配していたのか、わかっておいでなのですか?」
「すまんすまん」
「軽いのう」
「御主人様!」
レムが睨んできたので、セツナは、彼女に向き直った。体の節々が悲鳴を上げるのを無視して、彼女の目を見つめる。セツナとまったく同じ紅い瞳。血のように紅い瞳。じっと、見つめる。
「ああ、わかってるよ。心配かけたな」
「そういうふうにいわれると……なにもいえませぬ」
なぜか頬を紅潮させながら目を俯けたレムとは対照的に、ラグナがなんとも言いがたい顔をした。
「なんじゃ、たった一言でほだされおって。情けない先輩じゃのう」
「ラグナもな」
今度は、セツナはラグナの目を見つめた。宝石のようにきらきらとした目は、愛くるしいというほかない。
「迎えに来てくれてありがとう」
「ふ、ふん。そんなことをいわれても別に嬉しくもなんともないのじゃ」
そういいながらも尻尾を振り回すラグナの様子に、セツナは笑顔になった。ラグナほどわかりやすい生き物もそうはいないだろう。
それから、セツナはウルクに視線を向けた。ふたりに礼をいった手前、彼女を無視するわけにもいかない。もちろん、ウルクには感情がないというのはわかっているし、意味がないということも理解している。しかし、だからといってなにもいわないわけにはいかないのだ。
「ウルクまで来てくれるとは思ってなかったよ」
「セツナはわたしの役目を忘れたのですか?」
「いいや。覚えてるよ」
「では、そのような発言、なさらないでください」
「ああ、これからは気をつける」
いって、セツナは苦笑した。やはり彼女には礼など必要ないのだろう。だが、セツナはこれからも彼女にも礼をいうし、ひとりの女性として扱うつもりだった。彼女には自我があるのだ。その自我も突如として発現したものだという。感情が目覚めないとも限らないし、いまだって、感情があるような素振りを見せることもある。
もっとも、セツナが彼女を女性として扱うのは、いつか彼女の中に感情が芽生えたときのためなどではない。
ただそうしたいからそうするだけのことだ。
「ご覧のとおり、終わったよ」
セツナは、周囲を見回しながら、告げた。
ニーウェとの戦いが終わり、使者の森は徹底的に破壊し尽くされた。破壊したのは、セツナだけではない。ニーウェも森の破壊に一役買っているが、主に破壊したのはセツナなのはいうまでもない。黒き矛の全周囲攻撃が無差別に破壊をもたらすのだから仕方がない。なにが仕方がないかというと、あれでなければニーウェの能力に対抗できなかったからだ。
「うむ。見ればわかるのじゃ。勝ったのじゃな」
「ああ。なんとか、な」
「ニーウェ様はどうなされたのでございます?」
「死んではいないさ。殺さなかったからな」
「なぜです?」
「なぜもなにも、殺すわけにはいかないからさ」
レオンガンド直々に、ニーウェは殺してはならないと厳命してきていた。王命を遵守するのは当然のことだ。ニーウェを殺せばザイオン帝国が報復に動く可能性があることをレオンガンドは恐れた。三大勢力のいずれかが小国家群に戦力を派遣すればどうなるか、だれにだって想像ができる。数百年に渡る均衡が瞬く間に崩れ去るのだ。三大勢力が相争うように小国家群を蹂躙し、夢も野望も泡の如く消え果てる。いかに黒き矛といえど、数百万の軍勢を相手に戦い抜けるわけがない。
ニーウェは、自分が殺されたところで帝国は動かないといっていたが、本当のことかどうかわかったものではない。ニーウェが勝手にそう思い込んでいるだけかもしれないし、セツナに本気を出させるための方便かもしれなかった。ニーウェは、セツナと殺し合いをしなければならなかったのだ。でなければ、同一存在の“決戦”にならない。
ニーウェにとってセツナとの戦いは、エッジオブサーストと黒き矛の戦いであると同時に、セツナとのこの世界の存在の座をかけた決戦であり、そのためには互いに命をかけ、力を尽くす必要があったのだ。そのためならば自分の存在を不当に貶めることだって吝かではなかったはずだ。全力で戦わなければならないのだ。セツナがニーウェの立場だったら、そのようにしただろう。
もちろん、彼自身が本当にそう思い込んでいる可能性もある。
実際、彼の帝国内での立場というのは盤石ではなさそうだった。
決着の瞬間、ニーウェの記憶を垣間見ている。それがすべて本当に彼の記憶なのかは不明だが、おそらくはそうなのだろう。ウェインとの戦いで彼の記憶を見たように。クレイグとの戦いでレムの記憶を垣間見たように。ニーウェの過去も覗き見たのだ。そして、それによれば、彼の立場というのは必ずしも良いものとはいえないようだった。彼が、自分の命を軽く見ているのもわからなくはないほどに。
だが、仮に帝国でのニーウェの立場が弱く、扱いが悪いのだとしても、皇子が殺されたとあれば、放ってはおけないだろう。しかも、国内で死んだわけではなく、異国の、それも小国家群の中で殺されたとあれば、黙殺するわけにもいかないのではないか。帝国の威信に関わるようなことだ。きっと、問題になる。帝国が軍を動かすことだって十分にありうるのだ。
セツナがニーウェを殺さなかった最大の理由がそれだ。
ニーウェがもし、帝国の皇子でもなんでもなければ、躊躇なく殺したことだろう。敵だ。しかも、相手はセツナの命を狙っている。殺さずに捨て置く道理がない。
それでも、合一は拒んだだろうが。
「ですが……ニーウェ様が生きているのであれば、また狙われるのではございませんか?」
「どうだろうな」
セツナは、腕を組んだ。ニーウェがどうなったのか、よくわからない。最後の激突のあと、彼の姿はセツナの周囲から消えていた。
「どうだろうなとはなんじゃ」
「そればかりはニーウェ自身の問題だからな。俺にはわからないさ。ただ……」
「ただ……?」
「もう二度と、ニーウェには負けないことは確かだ」
「なぜそう言い切れるのです?」
「エッジオブサーストを破壊したからな。あいつが余程凶悪な召喚武装でも手に入れないかぎり、負ける道理がない。そして、もしあいつがまだ俺を殺そうと考えているのであれば、確実に勝てる見込みがでるまで襲いかかってくることはないさ」
「破壊しただけでは安心できませんが」
ウルクが指摘してきたのは、召喚武装の常識のことだ。召喚武装は、通常、破壊されただけで終わるものではない。破壊され、無力化されたとしても、元の世界に送還するだけで自動的に修復されるからだ。修復が完了するまでの時間は損害の度合いによるが、たとえ完全に破壊されたとしても、送還することさえできれば修復可能だという。それは召喚武装の利点のひとつだ。破壊されれば修復するのも困難な場合のある通常武器とは違って、送還さえすることができれば、どんな状態からでも修復しきれるのだ。実質使い放題といっていい。
とはいえ、召喚者が死んでしまい、送還することのできなくなった召喚武装は、破壊されれば破壊されたままであり、召喚武装の利点は失われるのだが。
「破壊して、吸収したんだよ」
「吸収? 意味がわかりません」
「エッジオブサーストは黒き矛の眷属なんだ。黒き矛から分かたれた力の一部、とでもいうべきなんだろう。そして、黒き矛はそれら眷属を自分の力として取り戻すことを使命としていた」
「取り戻す……?」
「そう。当該召喚武装を破壊し、取り込むんだ」
セツナは、ウルクに説明しながら、武装召喚とつぶやいた。全身が光を発し、視界を白く染める。つぎの瞬間、右手の内に重量が出現し、黒き矛の召喚が成功したことを知らせた。柄を握る。冷ややかな感触とともに五感が飛躍的に拡大する感覚に苛まれた。いままでよりも遥かに繊細かつ鋭敏な超感覚が、目眩を覚えさせた。視界に入り込む景色、鼓膜に飛び込んでくる音、鼻腔を満たすにおい、全身で感じるもの――意識に流れ込んでくる洪水のような情報量に頭がくらくらする。いままで感じたこともないような感覚だった。脳が処理に追いついていないような、そんな感覚。実際、脳の処理速度では足りないくらいの膨大な情報量が飛び込んできている。このままでは処理しきれなくなって頭が破裂するのではないかと思うほどだった。頭の中の情報が多すぎて逆になにもわからなくなる。眠りから覚めた直後、記憶が定かではなかったのは、このせいかもしれない。黒き矛が完全化した瞬間、頭の中に流れ込んできた莫大な量の情報のせいで記憶障害が起きたのだろうか。
「ウェインのランスオブデザイア、クレイグのマスクオブディスペア、そしてニーウェのエッジオブサーストを取り込んだいま、黒き矛は完全に力を取り戻した。完全な状態になったんだ」
完全体の黒き矛を手にしていることによる酔いのような感覚については、言及しなかった。いう必要のないことだったし、自分自身の問題だったからだ。これから何度も召喚しているうちに体が慣れてくれることを祈るしかない。なれなければ、まともに戦うこともできないだろう。
「これまで以上に強くなった、ということでございますね?」
「端的にいうと、そうなる」
「あのとき以上に強くなったとか、信用できんのう」
「戦ってみるか?」
セツナがにやりとすると、ラグナはこちらをじっと見つめた後、すぐさまそっぽを向いた。
「……いやじゃ」
「なんでだよ」
「いまのわしがおぬしと戦えば、まず間違いなく殺されよう」
ラグナの返答は、きわめて冷静だった。現在のラグナは、昨年五月五日に転生したばかりの赤子同然の状態であり、数百年貯めた力を誇った巨大なワイバーンとは比較にならないくらいか弱い存在だった。戦えば、セツナが勝つのは一目瞭然だ。セツナ以外の武装召喚師でもいまの彼ならば圧倒できるだろう。それほどに脆く弱い。だからセツナは彼を護ってやらなくてはならないのだ。
「同じように殺されたからといって、あのときのように上手く転生できるとは限らぬ」
「そうなのか?」
「あのときはなにもかも上手くいっただけの話なのじゃ。おぬしが放った膨大な魔力が拡散仕切らぬうちに転生の力に変えることができたからのう。今度はそうはいかぬかもしれぬ。そうなれば、つぎに転生するのは何年後になるかわからぬ。何十年後、何百年後かもしれぬ」
ラグナが遠い目をして、いった。かつて、何十年、何百年もの長い時をかけて転生したことがあるのだろうか。実感のこもった声だった。
「そんな先になることもありうるのか」
「ありうるな。この世に漂う魔力が少なければ、そうなる。しかし、武装召喚師が地に溢れれば、魔力に困ることはあるまいて」
「それなら、数百年後ってことはない、ってことか」
「まあのう。しかし、もう転生はしたくないのじゃ」
彼は嘆息とともに告げると、レムの腕の中で翼を広げた。レムがラグナの体を離すと、同時に飛翔し、セツナの頭の上まで移動する。
「なんでだ?」
「おぬしと離れ離れになるからのう」
「俺と離れたくないってこと?」
「おぬしほど波長の合うものがこの世にいるとは思えぬ」
ラグナがセツナの頭の上で丸くなる。ラグナは半年前と比べると成長し、重くなっていたが、まだまだセツナの首が耐えられない重さではない。いずれセツナの首が耐え切れなくなったときには、ラグナに定位置を諦めてもらうほかなくなるが、いまのところはなんの問題もなさそうだった。ラグナがセツナの頭の上を定位置にしているのは、そこが一番魔力の吸収に適しているからであり、別に肩に止まっていても魔力を吸い上げる事自体に問題はないらしい。そして、必ずしもセツナでなければならないというわけでもないのだ。波長の合うセツナがもっとも効率がいいというだけの話だ。
「波長……ねえ」
「波光のようなもの、でしょうか?」
ウルクが首をかしげるので、セツナは適当に同意した。
「かもな」
「波長ならば、わたくしこそぴったりでございます」
「対抗すんなよ」
「します!」
「なんだよ」
セツナは、突然腕にしがみついてきた死神メイドに困惑したのだった。