第千二百三十五話 真なる黒(二)
「ところで、御主人様の居場所は、地図でいうとどの辺になるのでしょう?」
レムがウルクに問うたのは、式典会場である王立召喚師学園を出てからのことだった。会場を抜けだす際、シーラとエスクに質問されたが、ふたりにはセツナが無事であること、これからセツナを迎えに行くことを伝え、安心させている。シーラが心の底から安堵するのはわかりきっていたことだが、エスクが安心しきった表情を見せるのは想像していなかった。
レムは、エスクのことをよく知らないのだ。アバードで知り合い、実力者であることからセツナが配下に加えたということは知っているし、なんだかんだで意気投合しているようなところもわかっているのだが、レムにとっては謎の多い人物といってもいい。剛剣の使い手で痛烈な皮肉屋、ということくらいだろうか。そんな皮肉屋の彼がセツナに心服しているのが不思議であるとともに、嬉しくもあった。
シーラたちにセツナの無事を伝えたのは、シーラの口からレオンガンド以下、セツナのことを心配しているであろう人々に伝わることを期待してのことだった。レムから直接レオンガンドに伝えても良かったのだが、レムは一刻も早くセツナの無事な姿を確認したかった。
「照合したところ、使者の森と呼ばれる一帯です」
「使者の森?」
「王都の南、カランのさらに南に横たわる小さな森ですね」
「ふむ……ニーウェのやつ、そこでセツナと決闘するためにあのような真似をしたのじゃな」
「はい。そして、おそらく、だれの邪魔も入らないようにするために、今日のこの日を選んだのでしょう」
「なるほどな。レオンガンドを人質に取られれば、いくらミリュウでも動くに動けぬ」
「わたくしたちも封殺されました」
《獅子の尾》の武装召喚師たちは無論のこと、他の親衛隊も、セツナ軍の部隊も、動けなかった。
レムとラグナも、そしてウルクさえも動かなかった。自分が動けば周囲に被害が及ぶということを理解しており、そうならばセツナがどう想うのかを察知していたのかもしれない。やはり、彼女には感情や心の機微を察するなにかがあるのではないか。
前を歩いていたウルクが突然立ち止まり、こちらを振り向いてきた。王立召喚師学園の正門前だ。式典中に起きた騒動によって、すさまじいまでの人だかりができており、都市警備隊が群衆を整理していた。それら群衆の視線が、学園敷地内からでてきたふたりに集中するのは必然だっただろう。ひとりは絶世の美女といってもいい女性で、ひとりは使用人の格好をした少女で、しかも奇妙な物体を抱えている。注目を浴びないはずはないが、レムはなにも気にしなかった。無論、ウルクもまったく気にも止めていない。
「では、飛びますので、レムはわたしに掴まってください」
「え? 飛ぶ?」
「なんじゃなんじゃ?」
「まさか使者の森まで歩いていくつもりですか?」
ウルクがいつもの無表情、無感動に問いかけてきた。レムは無論、そんなつもりはない。使者の森は遠い。歩けば一日はかかる距離があるだろう。馬を飛ばしても半日はかかるだろうし、いまから馬を用意して全速力で向かったところで、すぐさまセツナと対面できるわけではない。そしてウルクの疑問には疑問を返すしかなかった。
「そんなつもりはございませんが……飛ぶというのはどういうことでございます?」
「説明している時間が無駄ですので」
「は、はい?」
レムは、ウルクの妙な気迫に押されながら、彼女の腕が肩に回ってくるのを認めた。レムが質問をする暇も与えられなかった。ウルクはそのままあっという間にレムを抱き抱えると、レムがきょとんとしている間に地を蹴って、飛んだからだ。跳躍である。急激な上昇による圧力と目に映る景色の急変に驚き、また、ウルクの跳躍力にも驚嘆せざるを得ない。
正門周囲のひとびとが驚嘆の声を上げるのが聞こえた。絶世の美女が突如として少女を抱え、通常では考えられないような高度に飛び上がったのだ。驚くだろうし、驚きのあまり声も出なかったかもしれない。
「な、なんじゃ!?」
そして、ラグナもまた、レムの腕の中で驚愕の声を上げた。きっと彼にも想像できなかったことであり、彼はなにが起きているのかさえわからなかったのかもしれない。彼を抱きかかえているレムさえ、本当のところはすべてを正確に把握しているわけではないからだ。
周囲の景色から、ウルクがその人間の身体能力を超越した脚力によって跳躍したことは把握した。しかし、急激に流れる景色は、ウルクが跳躍中に急速に前進していることを示しており、それがどういう原理なのかまったく不明だった。林立する建築物の頭上を加速度的に通過していく様は、シルフィードフェザーの能力によって飛行したときの感覚を思い起こさせる。
「いったいどういうことなのでございましょう?」
「魔晶人形の躯体の背部、脚部には波光の噴射口があり、噴射口より波光を噴射することで、推進力を得ることができます。使いようによっては擬似的な飛行も可能ですが、飛行には多大な波光が必要なため、現状では跳躍と波光噴射による移動を連続で行うことが限界です」
「よくわからぬが……まあ、少しでも早くセツナを迎えに行けるというのであれば、それでよいな」
「ええ。ラグナのいう通りではございますが」
確かにラグナのいう通りだ。魔晶人形の機能がどうあれ、一秒でも一瞬でも早くセツナに対面することができるというのであればそれに越したことはない。ウルクのことだ。馬を用意し、馬を飛ばすよりも早く使者の森に到達できると判断したに違いない。
実際、ウルクの波光噴射による高速移動は、とてつもなく早かった。着地と跳躍、噴射による急加速の連続で、みるみるうちに新市街の町中から王都外周城壁へと到達した。さすがに城門を飛び越えていくわけにもいかなかったため、レムはウルクにいって地上に降り、城門をくぐり抜けて王都の外へ出た。王都を出ると、再び、ウルクに抱き抱えられた。見た目のことを考え、彼女の背中に掴まるというのも考えたのだが、背部噴射口から噴き出す波光を浴びることになるため、諦めた。レムにはラグナを抱き抱えるという使命もある。ラグナが高速移動するウルクから振り落とされないようにするには、レムが抱き抱えて上げるのが一番だと判断した。
再び高速移動を開始したウルクは、迷うこともなく、一直線に使者の森に向かった。
まさにあっという間だった。
少なくとも馬で移動するよりも何倍も早く、レムたちは目的地に辿りつけたのだ。が。
「本当にここが使者の森とやらなのか?」
ウルクの腕から降ろされたレムの腕の中で、ラグナが怪訝な顔をした。
使者の森は、王都の南にあるカランの街のさらに南に横たわる小さな森だった。実際に目の当たりにしたことはないが、セツナから話だけは聞いたことがある。セツナが召喚された場所であり、黒き矛をはじめて召喚した場所であり、また、皇魔とはじめて戦った場所だということで、セツナにとっても思い出深い地なのだ。だから彼は使者の森の風景をありありと思い出せたのだろうし、レムにも話して聞かせてくれたりしたのだろう。
「確かに……森には、見えませんねえ」
レムは、ラグナの疑問に同意した。
彼女の目に映るのは、大地に穿たれた半球形の巨大な破壊跡だった。やや遠くに森の名残とでもいうべき木々の密集地があるのだが、それをみて森というものはまずいないだろう。それくらい、木々の数が少ない。セツナの話によれば、使者の森は小さな森だったのだ。木々の密集地は、小さな森とさえ呼べない代物であり、セツナがそれをさして森と呼ぶわけがなかった。いや、セツナだけではない。使者の森は、ガンディアの歴史上、とても重要な場所なのだ。その重要な場所が森でなかったのならば、森として認識され、記録されることはないだろう。
つまり、この破壊跡は、まず間違いなくセツナとニーウェの戦闘の形跡であり、ふたりの激しすぎる戦闘が使者の森を根こそぎ消し飛ばしたのではないか。
「計測した波光量から推測した通りの状況です」
「そうなのですか?」
「はい。五百二年五月五日に計測した値と同値の特定波光を三度検出し、別種の波光も膨大な量を検出しています」
「波光……のう」
ラグナが困惑気味につぶやく。
五百二年五月五日とは、昨年の五月五日のことであり、その際に検出した特定波光というのは、セツナが本気のラグナを倒すために放出した力のことだ。そして、その際に発した膨大な特定波光とやらが、ミドガルド=ウェハラムをしてガンディアに向かわせるきっかけとなり、現在、ウルクがここにいる原因となっている。
水龍湖の森を破壊した力の奔流。圧倒的かつ膨大な破壊の力。凄まじい再生能力を持ったドラゴンを跡形もなく消し飛ばした力。そんなものが三度も放たれたというのだ。森が原型を失うのは当然だったし、大地が大きく抉られるのも必然といっていいだろう。木々や大地は、破壊の力に飲まれ、消滅したのだ。
「ところで、早くセツナに逢いにいかんのか?」
「そうでした。早く御主人様にお逢いせねばなりませんね」
「セツナはこの先にいます」
「ええ、わかっておりますよ」
レムは、ウルクに笑顔で応えた。この破壊跡の外周に到達したときから、レムはただならぬものを感じていた。胸が震えている。セツナに逢えるという感動に、心が震えているのだ。つまり、セツナの気配を感じ取っている。おそらくラグナもセツナの魔力なりなんなりを感知しているだろうし、ウルクも波光を感じているのだ。
三者三様。感じるものは違うものの、そこにセツナがいると認識していることに違いはなかった。
レムは無意識に駆け出していた。ラグナを抱き抱えたまま、全力で、破壊され尽くした大地を駆け抜けていてく。道中、地中から露出した物体が視界に入ったものの、彼女は気にも留めなかった。そんなものよりもセツナのことのほうが遥かに重要だ。
間もなく、セツナの姿を視界に捉える。
彼は、みずからが破壊した地面に寝転がっていた。仰向けに寝転がっており、曇り空を見上げているように見えたが、それがすぐに間違いだということに気づく。彼は目を閉じていたからだ。駆け寄りながら、レムが彼が本当に眠っているのかもしれないと思った。ひとがどれだけ心配しているのかも知らないで呑気なことをするものだと憤慨する一方、それだけ消耗し尽くしたのだろうとも考える。森を跡形もなく破壊し尽くすほどの力を放出したのだ。普通、考えられるものではない。常識的に考えればありえないようなことだ。人間の力ではない。
事実、これだけの規模を破壊したのは人間の力などではない。黒き矛ともカオスブリンガーとも呼ばれる召喚武装の能力にほかならず、セツナはその能力を駆使したに過ぎない。だが、それこそセツナの力なのだ。黒き矛は、セツナ以外の人間には扱いきれない代物だということが証明されている。ミリュウにも扱いきれず、リョハンの四大天侍マリク=マジクにさえ、長時間の使用を躊躇わせた。逆流現象なるものが起きるからだという。黒き矛から逆流する力が、使用者の意識を破壊する可能性も皆無ではないのだという。
セツナが黒き矛を自由自在に操れるのは、黒き矛がセツナを主として認めているからであり、それはつまり、黒き矛がセツナ自身の力ということでもあろう。
もちろん、セツナが黒き矛を自分自身の力だと自負しているわけもない。借り物の力だと認識している。
そんなセツナだから、なおのこと愛おしいのかもしれない。
レムは、セツナに駆け寄りながら、逸る気持ちを抑えるので必死だった。演武の最中、突如として姿を消したセツナのことが心配でたまらなかったのだ。セツナの実力は知っている。彼と黒き矛がどれほど強く、凶悪なのかは身を持って理解しているのだ。しかし、それでも不安にならざるを得なかった。相手が相手だ。ニーウェ・ラアム=アルスール。もうひとりのセツナとでもいうべき帝国の皇子は、一度セツナに瀕死の重傷を負わせている。エッジオブサーストなる黒き矛の眷属の使い手たる彼との戦いは、黒き矛のセツナをして窮地に立たせるものだったのだ。
今度こそセツナが勝つと信じていても、一度瀕死になった彼を見ているという事実は不安を抱かせた。演武の最中、目の前でセツナを連れ去られたミリュウやファリアなど、不安どころではなかったに違いない。セツナを庇えなかった自分たちに怒りさえ感じていたかもしれない。そして、不安を感じているのはレムたちだけではなかった。あの場にいただれもが、セツナの消失に不安を抱いた。相手は一度セツナを窮地に追いやった偽者だ。今度こそセツナが殺されるかもしれない。そんな不安が式典会場を包み込み、レムの心配を膨れ上がらせた。
セツナが勝利したという確信が胸のうちに広がったとき、ようやく安心したものだった。
「まったく、いい気なものよな」
ラグナが憮然とつぶやくのを聞きながら、レムは、ゆっくりと呼吸した。足を止め、その場に座り込む。セツナの頭が、目の前にある。ラグナがいいたくなるのもわからなくはないくらい、彼は穏やかな寝顔を浮かべていた。黒髪の少年。全身、傷だらけといってよかった。式典のために誂えられた鎧は原型を残さないほどに破壊されており、その下に着込んだ隊服もぼろぼろだった。露出した肌には様々な傷があり、早く手当てを施すべきだと彼女は思った。思ったが、彼の寝顔を見ていると、すぐさま起こすのも酷だと思い直す。
セツナは、ニーウェとの死闘を終えて、疲れ果てているのだ。
「お疲れ様でございます。御主人様」
レムは、セツナの寝顔に思い切り笑顔を見せた。