第千二百三十三話 解放(三)
「どういうことなんですか?」
「気になるかい?」
エリナ=カローヌは、恐る恐るといった様子で問いかけてきたので、ニーウェは、聞くまでもないことを聞いた。彼女は、ニーウェの姿を見た衝撃からすでに立ち直っており、小犬のニーウェを抱きかかえるようにしている。小犬のニーウェは、ニーウェに半信半疑といったような表情を見せている。セツナのにおいを感じたものの、そこに異界のにおいが混じっているのが、奇妙なのだ。
セツナのにおいを嗅ぎ取り、駆け寄ってきたものの、そこにいたのは半身が異界化したセツナと同一存在だったものであり、セツナそのものではないのだ。困惑もするだろう。
「うん」
「どうして?」
「だって、お兄ちゃんと関係がある気がするんだもの」
「……なぜ、そう思う?」
ニーウェが改めて問うと、彼女は、少し間を置いてから、口を開いた。
「ニーウェさん……お兄ちゃんのこと、殺そうとしてるんでしょ」
「そう……だったね」
過去形でもって肯定し、目を伏せる。彼女には申し訳ないことをしてしまったという気持ちがあった。彼女と知り合ったあと、セツナに瀕死の重傷を追わせたことが、彼女の精神を追い詰めたのだ。もちろん、そうなることはわかりきっていた。知っていた上で、それでも戦わなければならないから戦い、セツナに重傷を負わせた。殺すつもりだったのだから、当然そうなるだろう。だが殺せなかった。そのことが彼女を追い詰め、刃を握らせることになってしまった。彼女の心に復讐の炎を灯させてしまったのだ。幸い、彼女が刃を振るうようなことはなかったものの、彼女の心に深い傷を作ってしまった事実は消えない。消えるわけがないのだ。
ニーウェは、エリナを知ってしまった。知り合ってしまった。わずかでも話しあい、考えていること、感じていること、想っていることを理解し、心に触れてしまったのだ。そうなれば、彼女の心を傷つけ、踏みにじったことも考えざるを得ない。それがニーウェという人間だ。
あのとき、もしニーウェがセツナを殺していたら、取り返しの付かないことになっていたかもしれない。そう考えると、ニーウェが負けて良かったともいえる。ニーウェはどのような勝ち方であれセツナを殺すつもりだったが、セツナは。そうではなかったからだ。
セツナは、徹頭徹尾ニーウェを殺そうとはしていなかった。殺しきれるだけの能力を使いはしたが、それはニーウェが回避することを信頼してのものだ。そして、ニーウェはセツナの全力の攻撃を回避しながら、彼と戦い、彼に敗れた。そして彼に生かされたのだ。
ニーウェは、エリナの緊張気味な表情を見つめながら、あっさりと告げた。
「この姿は、セツナ伯と戦った結果だよ」
「戦った結果……?」
彼女は反芻するようにつぶやき、そして驚愕した。
「お兄ちゃんと戦ったの!?」
「ああ。ご覧のとおりさ。負けたよ」
「負けた……ニーウェさんが?」
「うん。負けた。完膚なきまでにね」
認めることは、辛いことではなかった。
むしろ、喜びに近い感情が揺れている。皮肉なことに、負けたことで運命から開放されたからだ。だから、その事実を告げることに躊躇はなかった。
「お兄ちゃんが勝ったんだ……」
エリナの声音には、喜びや驚きといったものはなかった。彼女は、ただただ呆然としている。ニーウェとセツナが戦っていたことすら知らなかったのだ。知らない場所で起きた知らない戦いの勝敗を知らされたところで、そのような反応になるのはしかたのないことだろう。実感があるわけもない。
「ああ。君のお兄ちゃんは強いよ。そしてさらに強くなる。エッジオブサーストを吸ったんだから、間違いない」
エッジオブサーストは、失われた。ただ失われたのではない。黒き矛の眷属たる異質な召喚武装は、その本来あるべき状態へと戻ったのだ。それにより、黒き矛は完全化するはずだ。ただでさえ強力極まりない黒き矛の完全体など、想像しようもない。どれくらい強いのだろう。どれくらい凄まじいのだろう。以前の黒き矛が一万の皇魔を相手に大立ち回りを演じることができたのならば、その二倍、三倍の皇魔が相手でもなんということもなく相手にできるだろうか。考えるだけでぞっとする。
「もっと、強く……」
「あんまり嬉しそうじゃないね」
「お兄ちゃんは十分強いもの」
「そうだね」
ニーウェは、静かにうなずいた。彼女のいいたいことが少しわかる気がした。黒き矛は、エッジオブサーストを吸わずとも十二分に強い召喚武装だった。圧倒的といってもいい。黒き矛に比肩する召喚武装など存在するのだろうかというほどに強力かつ凶悪であり、唯一、散々眷属を吸ってきたエッジオブサーストのみが対抗しえたのではないか。そう思ってしまうくらい強力だった。笑いたくなるくらい、凶悪だった。
人の手に余る武器なのは、疑いようがない。
完全体となった黒き矛は、人間の手で扱いきれるものなのだろうか。
ふと、そんなことが気になった。黒き矛に扱い慣れたセツナさえ、しばらくは戸惑うだろう。完全体となった黒き矛は、以前とは比較にならないほどの力を秘めているはずだ。
それほどの力を得て、なにをするというのか。
「強くればなるほど、お兄ちゃんは戦わなければならなくなるのよ。そのたびに傷つくの。いっぱいいっぱい傷ついて、それでも泣き言ひとつ漏らさないの。お兄ちゃんが強いからじゃなくて、そうしないといけないから」
エリナの思いつめたようなまなざしと、苦しみとともに吐き出される言葉の数々は、しっかりとニーウェに伝わってくる。彼女がなにをいいたいのか。彼女がなにを考えているのか。ニーウェにはわかる気がした。
「お兄ちゃんはガンディアの英雄だから」
「だから、君は彼の力になりたいんだね?」
ニーウェは、少女の目を見つめながら、微笑んだ。彼女は、武装召喚師を目指している。小犬のニーウェの主である武装召喚師に弟子入りしているという。ニーウェとしては彼女のような無垢な少女が武装召喚師を目指すことはおすすめしないし、エリナが召喚武装を手にとって戦う姿など想像もできないのだが、彼女の夢を赤の他人であるニーウェが否定することなどできるわけもない。否定したところで、ニーウェのいうことを聞くエリナでもあるまいが。
「うん。少しでも、お兄ちゃんの負担を減らすことができればいいと思って」
「できるよ。君なら」
「そうかな」
「ああ」
「……ありがと」
彼女は小さくお礼をいってきた。本当に小さな声。本当に小さな言葉。耳を澄ましていなければ聞こえないような声だった。それはきっと、つぎの問いを口にする必要があったからだろう。彼女は、問いかけてくる。
「でも、ニーウェさん、またお兄ちゃんと戦うつもりなんでしょ?」
「……いいや」
ニーウェは、即座に首を横に振った。
「もう、彼と戦うことはないよ」
「本当に!?」
エリナが目を丸くした。
「ああ。誓ってもいい。俺がセツナ伯と戦うことは二度とないとね」
「良かった……!」
心の底から喜ぶ少女の表情を見ているだけで、ニーウェはなんだか救われる想いがした。彼女を精神的に追い詰めてしまったという負い目が、少しは解消されたからだろうか。もちろん、あのとき、彼女の心を傷つけてしまった事実は消え去らないし、否定する気もない。ただ、いま、エリナがセツナのことで安心しているという事実に、ニーウェは心底安堵した。
もちろん、本当の気持だ。
ニーウェがセツナと戦う理由は失われた。
エッジオブサーストが失われ、セツナとの同一性が薄れたいま、セツナと戦う必要がない。もっとも、完全な黒き矛を手にした彼と再度戦ったところで、完膚なきまでに叩き潰されるだけだろう。どれだけ強力な召喚武装を手に入れたところで、一蹴されるのが目に見えている。
「つぎにセツナ伯に逢うことがあったら、伝えておいてくれないかな」
「うん。わかった」
彼女は心底嬉しそうにうなずく。セツナとニーウェが殺しあわないということがそこまで彼女の心を軽くするものなのかと、ニーウェは不思議な気分だった。単純にセツナの敵がひとりでも減ることが嬉しいのだろうし、それでいいのだが、それにしても、彼女の喜びようは半端ではない、負けたこっちが嬉しくなるくらいに、歓喜している。小犬のニーウェは、そんなエリナの態度につられているかのように尻尾を振り回している。
「ありがとう。それじゃあエリナ、ニーウェ……」
ニーウェは、名残惜しさを感じながら、少女と小犬の真横を通り抜けた。
「行くの?」
「ああ。帰るよ」
「帰る……?」
「遠い遠い祖国にね」
ニーウェは、少女の疑問に背を向けたまま答えながら、長い旅路を思った。ガンディアを目指した旅路も長かった。帝国領を目指す旅路も長くなるだろう。ここは小国家群の中央で、帝国領は大陸東部だ。そして、ただ領地であるアルスールに戻ればいいというわけにはいくまい。帝都に召喚されることだろう。帝国法を破り、小国家群に赴いただけでなく、小国家群の一国家と戦ったようなものだ。当然、罰を受けることになる。が、それくらいはどうとでもなるという予感もある。もちろん、どう転ぶのかは帰ってみてからでないとわからないのだが。
「……また、逢えるかな?」
エリナの質問は、想定外のものであり、ニーウェは返答に迷った。帝国に還れば、しばらくは動けなくなるだろう。動けるようになったところで、小国家群に出向いていいという風になるわけもない。彼女が帝国領に来るのであれば逢いに行くことも不可能ではないが、彼女が帝国領に来るということ自体がありえないことだ。彼女にはセツナがいる。
「どうだろうね。約束はできないな」
「そっか……」
どこか残念そうなエリナの反応が、ニーウェには意外だった。むしろ、ニーウェにはもう二度と会いたくないと考えていてもおかしくはない。そのほうが自然だ。ニーウェは、彼女が愛してやまないセツナを傷つけているのだ。
「君にはセツナ伯がいるだろう?」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ。ニーウェさんはニーウェさん」
「意外だな」
「ん?」
「嫌われてるかと思ってたのに」
ニーウェが本音を告げると、エリナが少し迷いながらも口を開く。
「お兄ちゃんを傷つけたのは許せないけど、でも、ニーウェさんが悪いひとじゃないのは、わかってたから……」
「悪いひとだよ、俺は」
「そんなことないよ!」
「……善人なんかじゃないさ。少なくとも」
「ニーウェさん……」
振り向くと、エリナが小犬のニーウェを抱えたまま、ニーウェを仰ぎ見ていた。幼さを多分に残した少女は、小犬を離さないよう、しっかりと、しかし大切そうに抱きしめている。小犬のニーウェもまんざらではないという感じで、そこにはちゃんとした信頼関係があるように見える。なんの心配もない。ニーウェにそう思わせるだけのものがあるのだ。
「じゃあ、エリナ。今度こそさようならだ」
「うん。さようなら、ニーウェさん。元気で」
「ああ、君こそ。元気で」
それが別れの言葉となった。
ニーウェは彼女と小犬のニーウェから離れると、路地を進み、道を二度、曲がった。すると、想像していたよりもずっと重い衝撃が、左半身に走った。だれかがぶつかってきたのだが、それがだれなのか、ニーウェには想像がついた。三人が離れてこちらの様子を伺っていたのはわかっていたからだ。だから、彼らが待っている場所に足を向けた。三人が、ニーウェとエリナの別れの場面に現れなかったことに内心感謝しながら。
「ニーウェ! 無事だったんだね!」
ニーウェの左腕に抱きつきながら半分泣き声でいってきたのは、ミーティア・アルマァル=ラナシエラだ。彼女は目に涙さえ浮かべていた。
「ああ、生きていたよ、ミーティア」
「良かった! 本当に良かったよー!」
全身で喜びを示す彼女の様子に少しばかり驚いていると、シャルロット=モルガーナとランスロット=ガーランドも、ミーティアの態度に驚いている様子が視界に入ってきた。ふたりに目を向けたからだ。ふたりは、口々にミーティアの言葉を肯定する。
「本当に……」
「本当ですよ! 本当」
三者三様に生還を喜んでくれているという事実に、ニーウェは、心が揺り動かされるのを認めた。目頭が熱くなる。ミーティアも、シャルロットも、ランスロットまで、ニーウェの三臣と呼ばれる三人の家臣は、ニーウェの生存を心の底から喜んでくれているのだ。これほど嬉しいことはなかったし、これほどまでに嬉しいことだとは想像もしていなかった。
「生きておられるということは、ニーウェ様が勝ったのですね?」
ランスロットの質問は、当然というべきだろう。ニーウェは、三臣にも生きるか死ぬかの戦いになると説明している。同一存在であるセツナとの全存在をかけた決戦になる、と。生き残ることができるのは勝者だけであり、敗者は死ぬだけだ、と。だから三臣はこの戦いに乗り気ではなかったし、ミーティアなどは事あるごとに帝都に帰ろうといってきたものだった。ニーウェを失いたくないからだ。
もちろん、三人とも、ニーウェの実力は知っているし、エッジオブサーストの能力も知っている。それでも、万が一ということもある。ニーウェが敗れ、消滅するという可能性があることを、家臣の三人が賛成できるわけもないのだ。それでも従うしかないから従っていただけのことだ。
そして、最初の戦いでニーウェが圧勝したことで、三臣はニーウェの勝利を信じて待つことができたのだろう。
「いや、負けたんだ」
「ええ!? ニーウェが負けたの!? 嘘でしょ!?」
「負けたのですか?」
「しかし、ニーウェ様は生きておられますよね? それにそのお姿は……」
三臣が皆驚きを禁じ得なかったのは、同一存在の決戦における敗者は消滅するという話を聞いていたからだったし、その話を信じていたからだろう。もちろん、ニーウェの三人への説明が嘘だったわけではない。敗北した以上、ニーウェは消滅する可能性のほうが強かった。セツナに取り込まれ、ある意味でこの世から消滅する運命となるはずだったのだ。しかし、ニーウェは生き残った。セツナが合一を阻むという想像もしえない展開によって、生き延びた。
その上、同一存在による決戦の必要性すら失われた。
「俺が負けたのに生きていることも、この姿のことも、話せば長くなる」
ニーウェは、右半身を見下ろしながらいった。異形化したままの右半身を元に戻すことはもう不可能だろう。エッジオブサーストが失われたいま、異界を送還する術はない。エッジオブサーストを召喚した黒き矛の力ならば不可能ではないかもしれないが、元に戻せば、ニーウェの運命そのものも元に戻るかもしれない。それは、避けるべきだろう。
黒き矛が完全化した以上、何度戦っても勝てる気がしない。
幸い、帝国領への帰路は長い。話す時間はたっぷりと有り余るくらいにあるのだ。なにもこんな町中で立ち話をする必要もない。道すがら、じっくりと話せばいい。
「一先ず、なにか体を覆えるものはないかな」
「覆えるもの……ですか?」
シャルロットがきょとんとする。
「この姿では目立ちすぎるだろう?」
「ああ、確かに」
ランスロットが笑ったのは、ニーウェの気持ちを察してのことだろう。彼ほどこの四人の中で空気を読み、言動に気を遣う人物はいなかった。ミーティアは空気など気にする性格ではないし、シャルロットも常に冷徹たろうとするあまり空気を読めなかったりする。ランスロットがいるから上手く行っているといってもよかった。
「隠さなきゃいけないってことは……そのままってこと?」
ミーティアが恐る恐るニーウェの右手に触れながら問いかけてきた。右半身の感覚そのものは、左半身と変わらない。血液が通い、神経が通っている。思いのままに動くのだ。違うのは見た目と、能力だろう。人間そのものの左半身とは比べ物にならないほどの力と特異な能力を持っている。
「そういうこと」
「ええー!?」
「そんな……」
「そう悲しむことでもないさ。これはこれで便利なんだぜ?」
ニーウェは、愕然とするミーティアとシャルロットに見せつけるように右腕を掲げると、腕の装甲のような突起物を隆起させて見せた。それからすぐさま小さくし、消滅させる。異形化した右半身は、それそのものが召喚武装のような能力を秘めているといってもいいのだ。
右半身の禍々しい突起物が消え去ると、人間の頃の右手右足の形状となる。
「それにこんな姿になっても、俺は俺だよ」
ニーウェは、なんとはなしにそんな風にいって、自分を肯定した。
いつかだれかがそんなことを告げていた。
だから、ニーウェは自分になれたのだ。
運命から解放されたのだ。