第千二百三十二話 解放(二)
生の実感の中にいる。
生きている。
生かされ、生きている。
同一存在との全存在を懸けた決戦に敗れてなお、生きている。
本来ならばあり得ないことだ。
ニーウェは、右手の感覚を確かめるように手のひらを開いたり、握ったりしながら、考えていた。新市街の路地裏。幸いにも人通りはない。雨模様だから、ということもあるだろうし、新市街自体、まだまだ機能し始めたばかりというのもあるだろう。いずれはこんな路地裏さえもひとで溢れることだってありうるかもしれない。王都ガンディオンは、拡大し続ける巨大国家の首都なのだから、これからも発展し、ひとが集まること間違いない。
(生きている……か)
全存在を懸けた以上、敗れれば死に、死ねば消えてなくなるのが道理だ。
だが、ニーウェは生き残った。
生かされたのだ。
セツナに合一を拒絶された。
意識の合一、肉体の合一、精神の合一、魂の合一。
同一存在がひとつの世界で生き続けるためには、それ以外の道はない。
エッジオブサーストがいうには、そうらしい。いや、エッジオブサーストだけではない。ニーウェの魂がそういっていた。他に方法はないのだと。戦い、倒し、未来を勝ち取る以外に生き延びる方法はない。でなければ、両者とも世界に拒絶され、消え去るだけだ。
だからニーウェはセツナとの決戦を必要とした。
決戦でなければ、ならない。
暗殺では意味がない。
全存在を懸けた決戦でなければ、合一は果たされないからだ。そして、決戦の勝者が合一のあと、すべてを得る。敗者はただすべてを失う。自我も記憶も心も体も失われる。消滅するも同じだ。
だが、ニーウェは消滅しなかった。
決戦に敗れてなお、生きていた。
なぜか。
簡単なことだ。
セツナが合一を拒否したのだろう。
彼はニーウェとひとつになることを拒み、ひとりであることを選んだ。
その結果、同一存在が同じ世界に存在するという歪な状態なままなのだが、ニーウェは、どういうわけかセツナを殺さなければならないという強迫観念を抱かなかった。魂が、その必要性を感じていないのだ。まるで、同一存在がいなくなったかのような、そんな感覚。理由はわからない。セツナが合一を拒絶したからといって、それでどうにかなるような問題ではないはずだった。
「ニーウェ!? どこに行ったの!?」
唐突に、聞き知った少女の悲鳴染みた叫び声がニーウェの耳朶を揺るがせた。
ニーウェは、苦笑を禁じ得なかった。自分が叱責されているような気がしてならない。少女が探しているのであろう小犬の名前が、自分と同じだからだ。
(ということは……)
ニーウェが視線を巡らせていると、一方の路地から黒い毛玉のような生き物が飛び出してくるのが見えた。全身真っ黒な小型犬は、なにが嬉しいのか、尻尾を振り乱しながらニーウェに駆け寄ってくる。小犬のニーウェは、最初から、ニーウェに対してそんな風な態度を取っていた。あったこともない小犬に気に入られるなど不思議というほかないが、彼のことを知れば、理解できないことではなかった。小犬のニーウェは、セツナと仲が良いらしいのだ。ニーウェはセツナと同一の存在だ。ニーウェにセツナのにおいを感じ取ったとしても不思議ではない。小犬には、ニーウェとセツナの違いなどわかろうはずもない。
小犬のニーウェは、座り込んだままのニーウェの目の前までくると、ちょこんと座った。
「エリナに怒られるよ」
ニーウェは、彼の頭を撫でつけようと右手を伸ばしかけて、やめた。右手は、異形化したままであり、そんな手で彼を撫でたくはなかったからだ。そして気づく。小犬のニーウェが、こちらを見て、小首をかしげていた。ニーウェになにか疑問点でもあるかのようだった。
「どうしたんだい?」
小犬に問いかけたところで答えなどでるわけもなく、ニーウェは、鼻をくんくんとさせながらにおいを嗅ぎ分けているらしい小犬の様子に、どうすればいいものかと困り果てた。彼がそのような反応を見せるのは始めてだった。
「どこにいったのーっ!?」
エリナ=カローヌの声がすぐ間近まで聞こえてきて、ニーウェは少なからず安堵した。小犬のニーウェのことは彼女に任せなければならない。でなければ、彼がニーウェについてくることになりかねない。さすがにエリナから小犬のニーウェを取り上げるようなことをしたくはなかった。もちろん、子犬のニーウェがついてこなければそれが一番なのだが、どうやら彼はニーウェにつきまとうつもり満々なのだ。無視して移動すれば、においを辿ってついてくるに違いない。
その前にエリナに引き渡すことさえできれば、安心だ。いくら彼でもエリナに抱えられていれば、どうすることもできなくなる。
やがて、エリナがニーウェのきた方とは逆の通路から現れた。
「ニーウェ! 勝手に走り回っちゃ駄目だっていってるでしょー!」
彼女は、こちらには目もくれず、小犬のニーウェに駆け寄ると、彼の首輪につけた紐を確保した。それから紐を自分の手にぐるぐると巻きつける。
「まったくもう……どうしてわたしのいうことを聞いてくれないのかしら」
「君のことを嫌っているってわけではなさそうだけど」
「そうだといいんだけど……って――!?」
エリナがこちらを見るなり尻込みし、絶句したのは、ふたつの意味でだろう。おそらく。
「ニーウェ……さん?」
彼女は、愕然とした表情で尋ねてきた。彼女がそのような反応を示すのは、当然のことだ。ニーウェの姿は、普通ではない。右半身が異形化したままなのだ。異形の怪物同然の姿をしているといっても過言ではない。いくら半分が彼女のよく知っている少年と同じであっても、半分が異形ならば腰を抜かせて当然だった。いや、むしろ、半身がセツナと同じだから、余計に衝撃的な姿に映るかもしれない。
「うん」
「本当に……?」
「君の大切なセツナ伯に見えるかい?」
「……半分だけ、そっくりだよ……」
「ふふ。そうだったね」
ニーウェは、エリナの怯えたまなざしを見つめながら、苦笑した。
(ああ、そういうことか)
そして、彼は、小犬のニーウェやエリナの反応によって、自分がどういう存在になったのかを把握した。理解もする。自分がなぜ、セツナへの殺意を抱かずに済んでいるのか。決戦を行う必要性を感じていないのか。同一存在であるというのに、危機感を感じないのか。
簡単な理屈だ。
完全に同一の存在ではなくなったからだろう。
胸中、自嘲せざるを得ない。
セツナを倒すための最終手段だったエッジオブサーストの能力が、まさかセツナを倒す必要性を失わせるものだったとは、さすがのニーウェもまったく気づかなかった。気づくわけがないのだ。この能力は、エッジオブサーストの能力の中でも極めて強力な反面、どうなるのか想像がつかない能力でもあり、これまで一度しか使ったことがなかった。消耗が激しく、反動も大きい。
自分の中に異世界を召喚するのだ。
生半可な覚悟で行えることではない。失敗すれば、自分そのものを失うことになりかねない。だから、これまでの生涯でただの一度しか使っていない、それも、能力の確認のために使ったきりであり、それ以降、封印し続けてきた能力だった。エッジオブサーストはほかの能力も強力極まりないのだ。この異界召喚能力を使わなければならない場面に遭遇したことがなかった。
それこそ、セツナとの決戦までは。
セツナとの戦いの最中、異界召喚能力を使わなければならなくなったのは、偏にエッジオブサーストの片方が破壊され、最大の強みである時間静止能力が使えなくなったからだし、エッジオブサーストは二本揃って初めて強力な召喚武装だからだ。片方だけでは、黒き矛に太刀打ちできるとは到底思えない。故に異界召喚能力を駆使し、状況を打開しようとした。
実際、異界化した右半身と融合したエッジオブサーストの能力によって、ニーウェはセツナと対等に戦うことができたのだから、選択肢は間違っていなかっただろう。片方だけで戦い続けていれば、あっという間に負けていたに違いない。あそこまで追い詰めることができたのは、異界召喚能力を駆使したからだ。
しかし、その結果、ニーウェの半身は異界化した。異世界そのものとなった。人間ですらない。生物ですらない。この世にあらざるもの。破壊的なまでに禍々しい異形。異質。そのことが、ニーウェをセツナと別種の存在にしたのだ。
もちろん、それだけが理由ではあるまい。
それに加えて、セツナが合一を拒否したことが影響を与えているのではないか。
でなければ、そもそも、合一現象が起きるはずがないのだ。決戦の勝敗による合一は、同一存在だからこそ起こる現象であり、あの瞬間まではニーウェはセツナと同一の存在だったのは間違いない。
セツナが合一を拒否したことと、ニーウェの半身が異界化したことが合わさり、同一存在としての認識が消え去ったのかもしれない。
確信があるわけではないが、その可能性が強い。