第千二百三十一話 解放(一)
光が吹き荒れた。
網膜を白く塗り潰し、聴覚を断絶し、嗅覚を殺し、痛覚を破壊するほどに強烈な光。黒き矛の力と黒き矛の眷属の力が激突したことによって生じた力の爆発が、なにもかもを真っ白に染めた。破壊的な力の奔流がすべてを飲み込む。なにもかもすべてだ。
大地を砕き、抉り、壊し、貫き、打ち、破り、潰す。純粋な力の衝動。無差別に、無慈悲に、周囲にあったあらゆるものを破壊した。その破壊の中にあって、破壊しきれないのはふたりの肉体だけだ。力の爆発は、周囲にこそ影響を及ぼしたものの、当の本人たちにはなんら影響を与えなかった。もし影響があったのなら、互いに消し飛んでいたに違いない。
それほどの力が炸裂した。
爆裂し、勝敗が決した。
気が付くと、空を見上げている自分がいた。
ニーウェ・ラアム=アルスールは、灰色の空を見上げながら、自分がなぜ、そのような景色を目の当たりにしているのかわからず、困惑した。ついさっきまでセツナと戦っていたはずだ。残された力を振り絞って、肉体的な力も精神的な力も、そしてエッジオブサーストのすべての力を注ぎ、最後の一撃を放ったはずだった。無造作な、拳による一撃。すべての力を使いきったのだ。ただ全力で殴る以外になかった。そして、相手に対応された。相手も、全力を込め、黒き矛で殴りつけてきた。
ニーウェの拳と、黒き矛の切っ先が激突した。
それによって戦いに決着がついたのだ。
(そうだ。決着がついたんだ)
ニーウェは、漠然と理解した。セツナとの最後の打ち合いに競り負けたのだ。競り負けた結果、爆発的な破壊の力がニーウェに集中したものの、ニーウェは死ななかった。死なず、ただ上空に打ち上げられるだけで済んでいる。しかし、このまま落下すれば死ぬだろう。死ぬのは恐ろしくもなんともないが、ここで死ぬのは、セツナのためにもよくないだろう。セツナが可哀想だ。
彼はせっかくニーウェを殺さずして勝利したというのに、その結果としてニーウェが死ぬのは、彼の本意ではあるまい。彼は、最後までニーウェを殺そうとは思ってもいなかったのだ。ニーウェは、最後までセツナを殺すことを考えていたというのにだ。それによって、ニーウェは生かされた。破壊の奔流がニーウェを殺さなかったのがその証拠といっていい。
『済まない』
突如、脳裏に聲が響いて、ニーウェは愕然とした。
(なにが)
なにが済まないというのか。
ニーウェは聲の主に問おうとしたが、声が出なかった。すべての力を使いきったからかもしれない。喉から声を出すことすら困難だった。
『俺は、おまえの力になれなかった』
気が付くと、聲の主が目の前にいた。灰色の空に浮かぶ黒き竜。夢と現の狭間にいるのかと一瞬錯覚するくらい、黒き竜と曇り空は似合っていた。しかしここが夢と現の狭間ではないことは、自分の手を見れば一目瞭然だ。黒き異形の右半身も、人間のままの左半身も、色彩を帯びて視界に写り込んでいている。ここは現実世界で、黒き竜も現実世界に現れているということだ。
黒き竜は、夢幻の狭間に現れるエッジオブサーストの化身であり、本来、現実世界に干渉する力など持っていないはずだ。しかし、黒き竜は現実に現れ、その巨大な顎でニーウェをくわえて離さなかった。それが幻覚などではなく現実だということは、ニーウェの体が重力に抗い続けていることからも明らかだ。これがただの幻覚ならば、ニーウェの体はとっくに地上に向かって落下しているはずであり、ニーウェは落下死しないための方法を考えなければならなかった。
『おまえの渇望に応えたというのにだ』
漆黒の外皮に覆われた飛竜が雲海を泳ぐように飛行する中、エッジオブサーストの聲が脳裏に響き続けていた。
その間、ニーウェは何度も声を出そうとしたが、出せなかった。まるでエッジオブサーストに言葉を封じられているかのように、だ。
『済まない』
(謝るのはこっちのほうだ)
叫びたかった。
しかし、ニーウェの声は封じられたまま、ついに黒竜はその姿を失い始めた。現実世界への干渉などという荒業、そう簡単にできるものでもなければ、長時間続けられるものでもあるまい。
『俺はここまでだ』
彼は、告げてきた。
ここまで。
エッジオブサーストは、すでに黒き矛によって破壊されていた。エッジオブサーストは、二刀一対の短刀として顕現する召喚武装だ。その短刀の片方が破壊されて使い物にならなくなり、残った片方はニーウェと融合して、空を舞うための翼となった。翼もまた、破壊された。つまり、最後の最後、ニーウェが繰り出した攻撃にはエッジオブサーストの力は加わっていなかったし、いま、こうしてエッジオブサーストの化身たる黒き竜が現実世界に現れることなど、到底考えられることではなかった。奇跡といってもいいのではないか。
『おまえの望み、叶うといいな』
黒き竜が顎を開き、ニーウェを解放した。落下が始まる。ニーウェは、急激に遠ざかる黒き飛竜の姿が虚空に溶けながら、黒衣の青年に姿を変え、ゆっくりと消滅していくのを見届けた。見届けるほかなかった。竜へと伸ばした右手は、空を切っていたからだ。
右手。
異形化したままの右手は傷だらけだった。最後の激突に敗れた結果、吹き荒れる力の一部が右半身を破壊していったのだろう。しかし、左半身には傷らしい傷はなく、そのおかげで痛みを感じずに済んでいた。だが、痛みを感じないことが、喪失感をより深刻なものにしているような気がした。
エッジオブサーストは、もはやニーウェの召喚に応じることはあるまい。黒き矛に破壊され、吸収されたのだろう。それでもなおニーウェのことを案じ、最後まで見守ってくれたのだ。実にお節介焼きなエッジオブサーストらしい最後だった。故に、ニーウェは呆然とした。呆然と、空から落ちていくのを実感していた。
手から滑り落ちたのは、なぜか。
ニーウェは、静かに考える。
空から落ちながら、考える。
この手から滑り落ちたのは、すべてだ。
彼がこれまで築き上げてきたすべてが、一瞬にして滑り落ちた。
たった一度の敗北。
それがすべてを奪い去った。
これまで得てきたもののすべてと、これから得られるであろうもののすべてを。
奪い尽くされた。
負けたのだ。
当然だろう。
冷ややかに認める自分と、未だに抗おうとする自分がいる。
その鬩ぎ合いを冷静に見ている自分もまた、いる。
いくつかの自分が言い争い、冷笑し、激情を吼え立て、嘲笑い、嘆き、罵倒し、呪い、恨み、妬み、褒め称え、震え、喜んでいる。
(喜ぶ……?)
疑問が生じた瞬間、自分が解放感の中にいることに気づき、愕然とした。
その解放感というのは、ニーウェの運命に関することだ。
空が遥か彼方に遠ざかり、小さな衝撃が体を貫く。落下の衝撃にしては小さすぎるのだが、それもエッジオブサーストの保護だと考えれば、納得がいく。もちろん、黒き矛に吸収されてなお現実世界に影響を及ぼし、ニーウェの無事を願ってくれる召喚武装の意志が存在するなど、そう簡単に納得できるものでもないのだが、エッジオブサーストならば考えられなくもなかった。エッジオブサーストは我の強い召喚武装であり、ニーウェは彼とのやり取りには常に精神疲労を感じなければならなかった。そんな彼だからこそ、彼のためにも黒き矛を打倒しなければならないと思えた。
もちろん、エッジオブサーストの強化は、ニーウェにとっても喜ばしいことだからでもある。が、エッジオブサーストが気に入らなければ、彼の言葉に従う道理はなかった。気に入っていたから、彼の望みを叶えようとした。彼もまた、ニーウェの望みを叶えるため、力を貸してくれていた。
望みは、叶わなかった。
少なくとも、エッジオブサーストの望みは。
(俺の望みは……)
ニーウェは、ぼんやりと空を仰いだまま、視界に入り込んできている建物の壁らしきものに疑問を禁じ得なかった。
ここはどこなのか。
エッジオブサーストの化身に、どこまで運ばれてきたのだろうか。
セツナと戦ったのは、使者の森だ。使者の森付近で人家がある場所といえば、ふたつしかない。
カランの街か、それとも、王都ガンディオンか。
カランの街でこれほど真新しい建物は見たこともないため、ここが王都ガンディオンの新市街であるということは想像がつく。
王都ガンディオン。
なぜ、エッジオブサーストは、ニーウェをここまで運んできたのだろうか。
ニーウェは、わけもわからないまま、呆然と空を仰ぐほかなかった。