第千二百二十八話 彼らの運命(十六)
ニーウェ・ラアム=アルスール。
このイルス・ヴァレにおけるセツナともいうべき少年は、右半身が異形化したままだった。悪魔のように禍々しい右半身と、セツナを鏡写しにしたような左半身。生きているのか、死んでいるのか。死んではいないはずだ。セツナは彼を殺した覚えがない。振り絞った全力は、彼の力を相殺するためのものであり、その上で彼を打ちのめすためだけのものだった。
ニーウェが見えない手で吊り下げられているかのように虚空に浮かんでいて、首や腕が力なく垂れ下がっているのは、彼の意識がないからだろう。
「どうする……って」
「おまえと彼は同一の存在だ。本来ならば同じ世界に存在することなど許されない。七つに分かたれ、別々に召喚された俺とはわけが違う」
「だから、ひとつになれって?」
「そうだな。それが手っ取り早い」
「ひとつに……」
「なにを躊躇する必要がある? 同一存在の合一は、なんの矛盾もなく順応し、おまえにさらなる力を与えるのだ。ニーウェ・ラアム=アルスールの武装召喚師としての経験や技量がそのままおまえのものになる。おまえは、武装召喚師として、手っ取り早く高みに行けるというわけだ」
黒い男は、まるでセツナを誘惑するようにいってくる。甘い囁きだった。甘美な提案だった。その話を効く限り、拒む理由がないようなことのように思えてならない。が、惹かれない。興味がわかない。
「統合しない道理がどこにある?」
彼の疑問に対し、セツナはしばし瞑目した。特に意味があるわけではない。考える時間など必要ではない。答えはとうに決まっていたし、その答えが彼の言葉によって揺らぐようなことはなかった。
「……ここに」
セツナは、自分の胸に手で触れて、告げた。
「ある」
「なにをいっている?」
「確かにあんたのいうとおりなんだろう。同一存在であるニーウェを受け入れ、ひとつになれば、俺はもっと強くなれるんだろう」
ニーウェの武装召喚師としての経験や技量がそのまま自分のものになるというのなら、強くなれるのは疑いようがない。少なくとも、いまのままの自分よりは遥かに強くなる。黒き矛の力をこれまで以上に簡単に引き出せるようになるだろうし、マリク=マジクに少しでも近づけるかもしれない。それは、セツナが黒き矛の使い手として、一歩前進するということでもある。より多くの力をより長い時間引き出せるということであり、三回しか使えなかった全力攻撃が四回、五回と使えるくらいになるかもしれない。
「けど、それは俺じゃない。ニーウェだろう」
見えざる力で虚空に吊り下げられた少年を見やる。ニーウェのことなど、知ったことではない。彼がどのような人生を歩み、どのように力を身につけ、どう考えてここまできたのかなど、知る由もない。知りたいとも思わない。彼は彼で、自分は自分だからだ。他人の人生のことなど、考えたくもない。しかし、彼を受け入れるということは、彼の人生のことまで引き受けなければならなくなる。
そこまでする必要はない、と黒き矛ならばいうだろう。
しかし、セツナとニーウェの意識が統合されるということは、そういうことになるのだ。きっと、そうだ。間違いない。いまのままの自分でいられなくなるという確信がある。弱気に思われるかもしれないが、それが自分なのだと認識している。必ず、ニーウェの意識に引きずられる。ニーウェの記憶に引っ張られる。
「俺は俺だ」
強く、告げる。
自分自身を強く持ち続けるのは、簡単なことではない。ニーウェとひとつになったとき、それはもはや自分ではない。そして、彼の経験から得た力など、自分のものとして誇れるものではないのだ。きっと、その力を他人に認められたとしても、嬉しくもなんともないだろう。黒き矛の力を認められるのとは、わけが違うのだ。
黒き矛も借り物の力だが、それはだれもが知っていることだ。セツナ自身、そう認識している。だから構わないともいえる。自分を見失わずに済むのだ。
「俺は、俺でありたいんだ」
そのためにも、彼との合一など、認められるわけがない。
「だから、さらに強くなれる機会をみずから手放すというのか?」
黒い男が冷笑したのは、おそらく、普段からのセツナの言い分と矛盾しているからだろう。セツナは普段、力を求めている。強くなろうとしている。日々、訓練漬けなのもそのためだ。少しでも体力をつけ、精神力を鍛え、黒き矛を制御するだけの力を身につけようとしている。彼は、ニーウェとの合一がそのためにも手っ取り早いといっているのだ。
しかし、セツナはそれを認められなかった。それを認めれば、自分は自分でいられなくなる。胸を張って、皆の前に帰れなくなる。
だから、別のことをいった。
「あんたがいるだろ」
「うん……?」
「完全になったあんたがいれば、それ以上の力なんて必要ないんじゃないのか」
「ふ……確かにな」
彼はなにがおかしいのか、どこか愉快そうに笑った。そして、右手を翳す。ニーウェの姿が灰色の世界に溶け、消失する。まるでニーウェを元の世界に戻したかのような演出だったが、意味はあるまい。ここはセツナの夢と現の狭間。ニーウェそのものが連れてこられたとは思い難い。
「確かに、俺さえあればどうとでもなる。確かにその通りだよ、セツナ」
彼は苦笑気味に告げてきた。
「おまえは賢いな」
「なーんか馬鹿にされてる気分」
「馬鹿になどしていないさ。むしろ、褒めている」
「そういう言い回しが引っかかるんだよなー」
「気にするな」
「気にはしないけどさ」
肩を竦めながら言い返す。
世界が震え始めていた。灰色の世界が崩れようとしているのだ。ここは夢と現の狭間だ。そんな世界が崩れようとしているということは、セツナの意識が目覚め始めていることにほかならない。
目が覚めることは嬉しいのだが、妙な寂しさを感じるのは、なぜだろう。
「ニーウェとひとつになれば、その寂しさからも逃れられるかもしれんぞ?」
「逃れられないかもしれないだろ」
「……そうだな」
「人間なんて孤独な生き物だからな」
セツナは自分に言い聞かせるようにいったことに気づいて、胸中で苦笑した。言い聞かせなければならないほど心が弱っているとでもいうのだろうか。
そうなのかもしれない。
ニーウェとの戦いは死闘そのものだった。
苦しかった。
生きた心地がしなかったのだ。
死ぬかもしれなかった。
たったひとり、だれにも看取られずに、だ。
それは少しだけ、嫌だった。
だから勝とうとした――というわけではないが。
「さて、行こう」
黒い男が、いう。彼もこの世界の崩壊を実感しているということだ。
「ああ、またな」
「また……か」
「また、会えるんだろ?」
「いずれ、な」
彼が微苦笑を漏らしたとき、世界が震撼した。
音もなく吹き荒ぶ暴風によって灰色の土砂が巻き上げられ、視界が灰色一色に染まった。かと思うと、意識の断絶があり、一瞬、なにもわからなくなる。天地がどこにあり、自分がどこを向いているのかさえ定かではない。重力さえ感じられない。五感が正常さを取り戻すまでここまで時間がかかるのは、はじめてといっても良かった。ただ夢から覚めるのではないような感覚がある。なにが起きているのかさっぱりわからない。理解のできないことの連続。しかしながら、不思議な事に不安はなかった。きっとなんとかなるだろうという漠然とした確信があった。
五感が復活して、真っ先に感じたのは激痛だった。全身がばらばらになったかのような激痛は、全身の筋肉という筋肉を酷使しすぎた反動に違いない。傷の痛みもある。みずからつけた傷もあるが、ニーウェにつけられた傷も少なくない。特に臀部と頬の痛みが酷かった。聴覚が風の音を広い、視覚が視界いっぱいの土を認識する。嗅覚が拾うのは土の匂いであり、血のにおいだった。血はおそらく自分の血だろう。感じるところ、周囲に人気はなく、ニーウェの姿はない。
セツナは、自分がどうやら倒れ伏しているらしいということを知って、ゆっくりと両手を動かした。わずかにでも動かすだけで筋肉が悲鳴を発するが、気にしてもいられない。歯噛みして我慢する。顔面を地面から引き剥がすようにして上体を起こし、なんとかその場に座り込む。胡座をかくだけで泣きたくなるくらいだったが、仕方のないことだ。
周囲、まっ平らな地面が横たわっている。
(ここ……使者の森だよな?)
疑問が浮かんだのは、森らしい景色が遠くにちょこんとあるだけで、あとは平らかな大地があるだけだからだ。しかし、よく観察すると、セツナがいるのは平地ではなく、盆地状になっている場所のほぼ中心だということがわかり、彼はしばし茫然とした。
おそらく破壊の爪痕なのだが、黒き矛の全周囲攻撃による破壊跡にしては規模の大きすぎるものだった。
セツナとニーウェの最後の激突の余波が、大地を刳り、使者の森の大半を消し飛ばしてしまったとでもいうのだろうか。
「嘘だろ……」
声に出してしまうくらい信じられないことだった。それほどの力が爆発したというのなら、セツナの体が無事で済むはずもないのだ。しかし、セツナの体は、最後の激突によって大きく損傷したというわけではなさそうであり、だから信じられない。もちろん、多少傷は増えていて、鎧がばらばらになり、隊服が焼け焦げ、皮膚も焼けている。だが、それだけだ。致命的なものではない。これだけの範囲に破壊をもたらしながら、セツナだけが無事で済むというのは、到底信じられない。
もちろん、実際にセツナが無事で、周囲が破壊されているのだから信じるしかないのだが。
(ニーウェは!?)
セツナは慌てて周囲を見回したが、先ほどの感覚通り、周囲に人影はなかった。見つかったものといえば、地中から露出した歪な石塔であり、遺跡の一部にも見える代物だった。
(なんだあれ……?)
セツナは、その歪な石塔に違和感を覚えた。使者の森の地下に遺跡が隠れていたということだろうか。それが、セツナとニーウェの地形を破壊するほどの戦いで露出したとでもいうのかもしれない。
力を振り絞って、立ち上がる。
石塔までは距離があったものの、近寄って調べずにはいられなかった。
異様な形状の石塔には、古代語でも共通語でもない文字が刻まれているだけであり、間近で見たところでなにもわからなかった。
石塔のことはレオンガンドたちに任せればいいと考えなおしたセツナは、ふと思い立って右手を掲げた。呪文を唱える。術式を完成させるための結語。
「武装召喚」
全身から爆発的な光が溢れ、右手の中に収束、一振りの矛が具現する。黒き矛は、相変わらず破壊的なまでの禍々しさを誇っている。セツナが黒き矛の再召喚を試みたのは、いつの間にか矛が消え失せていたからだ。ニーウェとの戦闘後、無意識のうちに送還していたのだろう。そうとしか考えられない。
黒き矛を手にしたことで、セツナのあらゆる感覚が何倍、何十倍にも引き上げられた。視覚の強化によって視野が広がり、わずかに残った森の部分まではっきりと見えるようになった。聴覚が彼方の物音を広い、嗅覚が戦場跡に散らばった血のにおいを嗅ぎ取る。痛覚だけは増大しない。痛覚まで強化されれば、ちょっとした痛みの衝撃で死ぬ可能性があるからかもしれない。逆に痛覚を鈍らせるという芸当もできるのだが、精神消耗のことを考えると、あまり得策ではない。また、痛覚を鈍らせると肉体の限界がわからなくなり、負担が増すということもある。極限まで消耗したいま、使うべきではないだろう。
(ニーウェは……いないか)
全周囲を探してみても、どこにもそれらしき気配はなかった。ニーウェの気配の残滓も消えてなくなっている。
最後の激突の余波で消滅したとはとても思えない。
彼を殺したのならば、セツナの意志とは関係なく合一されたはずだ。
つまり、黒き矛の誘惑に乗っていたら、セツナはニーウェを殺していたということだ。
セツナは、黒き矛の悪魔のようなやり方に憮然とした。最悪の場合、帝国がガンディアに押し寄せてきたかもしれない。
が、一方でそれこそ黒き矛の望む状況かもしれないとも思った。
黒き矛は、破壊者だ。
帝国のような大軍勢を相手に大立ち回りを演じたいという気持ちがあったとしても、不思議ではなかった。
迷惑極まりない話だったし、勘弁願いたいことではあるが。
その破壊者に頼っているセツナがどうこういえた話ではない。
(なんにせよ……)
セツナは、わずかばかりの寂寥感の中で、風を感じていた。
(終わったんだな……)
ニーウェとの戦い、エッジオブサーストとの戦いは、終わった。
セツナの勝利によって決着がついたのだ。
ニーウェがどう想っているかは知らないし、知る由もない。彼がまた性懲りもなく戦いを挑んできたのなら、今度こそ徹底的に撃退すればいい。何度だって、撃退すればいい。黒き矛は、完全化した。ただの武装召喚師に成り果てたニーウェに負ける要素はない。