第百二十一話 結論
「どうなさるおつもりで?」
沈黙が支配する場で、真っ先に口を開いたのはウォルドだった。
ガンディア王との直接交渉が終わり、《白き盾》の主だった面々が、宿としている屋敷の広間に集まっている。交渉といっても、互いの条件を提示する程度のものであり、本格的な交渉は日をあらためて行うことになる。そのときは、こちらがマイラムの宮殿に向かわなくてはならないだろうが、それは大した問題ではない。例えグラハムに急襲されたときのような事態が待っていようとも、《白き盾》は生き延びる自信がある。もっとも、レオンガンド王がそのつもりなら、今回の交渉時にこそ事件が起きていただろう。そして事件を起こしたのは、相手ではなく、こちらだった。
イリスによるレオンガンド王殺害未遂は、レオンガンドの判断で不問にされた。それはガンディア側にとっての交渉材料足りうるから、というのもあるだろうが、問題にするには事が事だからかもしれない。傭兵集団《白き盾》との直接交渉に出向いたところを団員に襲われた――それだけならば、公然と糾弾できるだろう。しかし、糾弾すれば、イリスが反論するかもしれない。彼女は、ガンディアが歴史の闇に葬った外法機関と呼ばれる組織の被験体であり、被害者だった。
外法機関の存在を明らかにされるのは、ガンディアとしても避けたいのだ。もっとも、それはガンディアというより、レオンガンド王個人の判断かもしれないが。
クオンが、外法機関というガンディアの暗部について知ったのは、無論イリスから聞いたからだ。当初、クオンを暗殺しようとした彼女だ。仲間にする上で、過去の情報は重要だった。《白き盾》はなにものも拒まないが、過去を知っておくことは重要だ。だから、彼女の身の上話を聞き、その上で仲間に引き入れたのだ。
外法機関で調整された異能者。それがイリスの正体だった。異能とは、人間が本来持つことのできない能力のことらしく、それを研究し、開発することこそが外法機関の目的だったらしい。外法機関はレオンガンドらの手によって壊滅し、イリスはその騒ぎに乗じてガンディアを脱走、隣国アザークに拾われ、紆余曲折を経てクオンの暗殺に駆り出されたという。
話が逸れた。ともかくも、ガンディア側としては、外法機関関係者の話を大きくしたくはなかったのだろう。イリスの暴走を不問にしてくれるのは、クオンとしてもありがたいことだった。その事実を交渉材料に使われても文句はいえなかったし、文句をいうつもりもない。が、レオンガンドは交渉中、一度もイリスには触れなかった。それは彼の側近たちも同じで、あの場での命令を守ったということにほかならない。
そして、ガンディアからの要求は至極単純なものだった。
つぎの戦争でガンディア軍に傭兵として参加して欲しい、ただそれだけのことだ。おそらくガンディアは、つぎの戦争こそがもっとも苛烈を極めると予想しているのだろう。だから、自由になったばかりの《白き盾》に接触を図ってきたのだ。《白き盾》結成から半年以上が経つが、ガンディアからの接触はいままで一度もなかった。ガンディアにしてみれば、バルサー要塞陥落の直接的原因と交渉したくなかったから、というのは穿ち過ぎだろう。単純にクオンたちを必要とする戦場に恵まれなかっただけだ。
だが、ガンディアは今度こそ《白き盾》を必要とした。以前はなかった黒き矛という戦力を有しているにもかかわらずだ。
ガンディアがつぎに戦うであろう相手は明示されなかったが、それは情報漏洩を恐れてのことだろう。いや、さまざまな情報を鑑みれば、どこと戦うのか、だれにでもわかりそうなものではある。それでも、その予想される国とは別の国に攻めこむ可能性だってありうるのだ。飛び交う情報は、偽報かもしれず、本当の目標を油断させるための虚報かもしれない。
しかし、おおよその予想通りだろうと、クオンは判断した。
ザルワーン。
大陸少国家群の中でも規模の大きな国だ。特に中央部においては最大の国家といってもいい。強大な軍事力と潤沢な資金や資源は、度重なる内乱で枯渇しなかったことでも脅威に値する。ログナーを取り込んだガンディアにとっては、いずれ必ずぶつかる敵国であり、倒さなくてはならない国だった。
それはザルワーンにとっても同じことだ。ザルワーンにしてみれば、属国ログナーを奪われたのだ。その怒りはガンディアを倒さない限り収まるものでもないだろう。そして、早急に取り戻さなければ、ザルワーンの威信は地に落ちる。
どちらも、この一月で戦力に変動があった。
ザルワーンの情報はほとんど入ってこないが、どうやら軍の再編を行ったらしいという話だ。そして、グレイ=バルゼルグ将軍が離反したという噂も入ってきている。それが事実なら、ザルワーンにとっては大きな痛手であり、ガンディアにとっては付け入る隙ができたというべきだろうか。
ガンディアはログナー軍を全面的に吸収した。それにより、ログナーとの戦いで失った兵力を補うだけでなく、それ以上の戦力を手に入れた。兵力の補充を行うのも忘れてはいまい。軍は再編され、大将軍を頂点とする軍勢に様変わりした。王立親衛隊というものもできた。《獅子の尾》隊を率いるのはセツナ・ゼノン=カミヤだ。
セツナ・ゼノン=カミヤは、やはりクオンの知っている少年だった。神矢刹那。同じ年の高校生で、一方的に親友だと思っている人物。こちらに召喚されたとき、もう逢えないと思っていたが、まさか彼まで召喚されてくるとは考えても見なかった。運命が引きあわせてくれたのなら感謝するべきなのだろうし、元気そうで嬉しかった。もっとも、交渉の席には彼はいなかったし、言葉を交わす暇がなかったのは残念だが。
「そうだね……」
クオンは、一同を見回した。スウィール、ウォルド、マナ、グラハムがソファに座ってテーブルを囲んでいる。テーブルには、《白き盾》の雑務担当者が淹れたお茶と、街から取り寄せたケーキが並べてある。質素なケーキで、生クリームなどは乗っていない。
イリスは、この場にはいなかった。彼女は反省しているのだ。彼女に交渉を潰すつもりはなかったはずだ。ただ、感情の暴発を抑えられなかったのだろう。ガンディアの外法機関は、彼女に人間をやめさせてしまった。
「先延ばしにするのもありかと」
スウィールが、静かに口を開いた。
「待っていれば、ザルワーンも我々に接触してくるでしょう。なにせ、我々はどことも契約をしていないのです」
「ザルワーンとも交渉して、契約金を釣り上げるつもりかぁ?」
「組織の価値を高めるのは悪くないと思いますが」
グラハムがスウィールに同調する。
「お待ちくださいな。相手はザルワーンと決まったわけではないのでしょう?」
「いや、決まっているも同然だぜ。ガンディアの目の上のたんこぶはザルワーンだし、ザルワーンだってガンディアを放置できない事情がある。両者の激突は避けられない。いや、すでに水面下で始まってるんじゃないのかねえ」
「ウォルド殿の申された通り。わたしが得た情報を総合しても、ほかには考えられませんな」
「では、《白き盾》が与したほうが勝利する、と?」
「そうともいえないかな」
クオンは、マナの考えを小さく否定した。
「確かに、ぼくらが加わればそれだけで大きな戦力にはなるだろう。でも、ぼくらでは大局を動かすことは難しい。それは以前も言ったことだけどね。無敵の一部隊では、戦局を動かすことはできない。ただ……」
「ただ?」
「ぼくとセツナが揃えば、話は別かもしれない」
クオンは、脳裏に描いた想像図に胸が躍った。白き盾と黒き矛の共演。それもそうだが、セツナと肩を並べて戦うなど、想像するだけで興奮しそうだ。無論、仲間たちの手前、表情には気をつけるのだが、部屋にひとりでいるときに考えていたら危なかったかもしれない。
「揃えば……ということは」
「ぼくはガンディアとの契約に応じたいと考えている」
「俺はそれに賛成するぜ。黒き矛の戦いぶり、間近で見ることのできるいい機会だ。敵同士じゃそうもいってられないからなぁ」
「わたくしに否やはありませんわ」
「右に同じ」
三人ともが賛同したのをみて、クオンは副長に目を向けた。
「スウィールさんは?」
「団長の意に従いますとも。そもそも、ガンディアの提示金額はわたしの予想よりも多い。その点では不満はなかったのですな」
「じゃあなんで爺さんは渋ってたんだ?」
「渋ってなどおらんぞ。ガンディアの目的が見え透いているのでな、警戒したまでのこと。もっとも戦闘の苛烈な場所を当てられるのが目に見えておる」
「そうはいうが、俺たちが激戦区に出されるのはいつものことだぜ?」
ウォルドが、スウィールをなだめるようにいった。
それは事実だ。傭兵集団《白き盾》は無敵の軍勢として期待されている。そうやって売ってきたのだから、期待され、それに応えるのは当然の話でもある。無敵の盾の守護下で苛烈な攻撃を耐えながら戦うのが、《白き盾》の日常茶飯事ともいえる。それでも、戦場に立たないスウィールからすれば心配なのだろう。そしてその心配は、クオンを信頼していないということではない。万が一、ということがあるからだ。
何事にも、絶対ということはない。
無敵の盾も、守護を発動しないことには意味がないのだ。
もっとも、それに関しては、クオンがなんとかするしかない。そういうときのためにシールドオブメサイアの性能を引き出す訓練に勤しんでいる。盾の持続時間は伸びているし、守護の力そのものも強くなってきているのを実感する。召喚武装が成長しているのではない。白き盾に秘められた力を少しずつ開放しているのだ。すべてを解放することができたらどうなるのか、クオンには想像もつかない。
「みんなを護るのがぼくの役目ですよ。だから、安心してください」
告げると、スウィールの目が鈍く光った。
クオンが自分に充てがわれた部屋に戻ると、イリスが待っていた。ずっと待っていたのだろう。ベッドの片隅で、所在なげにしていた。
彼女は、クオンを発見するなり、あっという間に飛んできた。
「クオン……済まない」
抱きつかれたが、彼はなにもいわなかった。イリスが猛省しているのはなにもいわずともわかる。彼女の過去の体験が、彼女の理性を吹き飛ばしてしまっただけだ。悪いのは彼女ではない。悪いのは、彼女に心的外傷を刻んだ連中であり、そんなイリスの心中を把握していながら、彼女の行動を管理できなかったクオンなのだ。
「わたしはクオンの力になると約束した。それがわたしのすべてだった。なのに、あんなことをしてしまった。わたしは、どうしたらいい? どうしたら、クオンに許される?」
「悪いのは君じゃない」
「でも、やってしまった事実は変わらない。《白き盾》にとって最悪の――」
イリスが言い終わらぬうちに、クオンは彼女の体を離した。目を見て、話したかったのだ。抱きしめられたままでは、イリスの顔を見ることもかなわない。いつも毅然としている顔は、いまは泣きつかれた少女のような顔になっていた。
「君はなにもしなかった。だれもなにも見なかった」
クオンの言葉に、イリスの灰色の目に困惑が生まれた。
「クオン、なにをいっているんだ? わたしは確かに」
「いや、そういうことになったんだ。だから君はなにも気にしなくていい」
レオンガンドの機転のおかげで、そうなった。レオンガンドにも後ろめたさがある。彼はイリスのことを覚えていたし、外法機関についても忘れてはいなかった。ガンディアの外法機関は彼によって潰されたというのは、かつてイリスから聞いた話だったが。
「しかし……!」
「だったら話が早いわ」
イリスの声を遮るように響いたのは、毒のような女の声だった。
背筋が凍ったのは、女の声に潜む毒気のせいだけではなかった。一瞬にして室内に満ちた殺気は、まるで汚濁のようにクオンの意識を包んだ。そして、窓辺に女が出現する。なにもなかったはずの空間に、染み出してくる。染み出すとしか言い様のない出現に言葉を失う。不鮮明な色彩が明確化していき、ぼやけていた輪郭が確定する。
黒ずくめの女の姿へと収束するようだった。灰色の目が、クオンではなくイリスを見ている。
クオンは、動けなかった。
「アーリア姉さん? どうして!?」
女を振り返ったイリスが、驚愕の声を上げる。
クオンは、イリスの発言に驚いた、イリスには、同じ外法機関で調整されたふたりの姉妹がいるという話は聞いている。長女のアーリアと末女のウル。イリスの言葉が事実ならば、いま室内に現れたのがアーリアなのだろう。そして、突然現れたように見えたものこそ、アーリアという女の異能なのだ。
「あら、あのとき気づかなかった? わたし、いたのよ?」
アーリアが艶然と笑う。顔はイリスと似ているが、表情や印象はまるで違った。
「そんな……」
「王宮召喚師様が間に合わなくとも、あなたの剣は届かなかった。わたしが陛下をお護りしているもの。暗殺も奇襲も意味をなさないわ」
「どうして!」
「理由が必要?」
アーリアは、イリスの神経を逆撫でるのが楽しいのか、小首を傾げるようにした。クオンはふたりの間に割って入れない。声も出なかった。気圧されているからではない。いつの間にか、首が締められている。背後にもだれかいたのか。
「あの国はわたしたちをめちゃくちゃにしたのに!」
「子供のようなことをいうのね。世界はあなたが想うほど素直に出来てはいないわ。複雑で、いびつで、打算と情が入り混じり、極彩色に彩られている」
「なにを……」
「ただのタワゴトよ。気にしてはいけないわ。わたしに気を取られていると、あなたの大切なひとの首が落ちることになるわよ」
「え?」
クオンの視界が霞み、こちらを振り返ったイリスの顔ですら判然としなくなる。声もろくに聞こえない。意識が朦朧としている。首を圧迫され、呼吸ができなかった。だが、この苦痛の先で待つ甘美な誘惑に抗えそうもない。意識はそれほどまでに薄弱で、状況に流されやすいのだと思い知る。このまま死んでしまいたい。衝動は唐突で、かといって反発は生まれない。苦痛から解放されたいのだ。そして、死ねばすべてから開放されるのがわかっている。なにもかもから解き放たれ、自由になれる。
不意に、重力が復活したかのような感覚とともに、クオンは床に崩れ落ちた。げほごほとむせながら、空気を貪るように呼吸する。余計に喉が痛んだが、空気は必要だった。鈍い痛みが残っている。しかし、死の誘惑は消え失せていた。血が全身に巡っていくのを実感する。
「クオン!」
声が聞こえ、顔も見えた。いまにも泣き出しそうな顔だ。護ってあげたくなる。守られたのは自分だというのに。傲慢だな。ふと、そんなことを思う。
「よかったわ、あなたがいい子で。お姉さん、あなたを悲しませたくなんてなかったもの」
アーリアの言葉で、彼女がイリスとなんらかの取引をしたことがわかる。想像はつくが、クオンが問い詰めることはできそうもなかった。イリスに聞けば教えてくれるだろうが、それはあとでいい。
「じゃあね、健気なイリス」
クオンが顔を上げたときには、アーリアの姿は掻き消えていた。窓が開き、風が入り込んでカーテンがはためいた。なにもかもが幻のように消えてしまった。
「君は、だいじょうぶか……イリス」
声は、なんとかでた。しかし、喉の痛みは、発声を拒んでいる。首をきつく絞められたのだ。もう少しで窒息死するところだった。アーリアは、イリスとの取引が成功しなければ、間違いなくクオンを殺しただろう。冷ややかな事実に寒気がする。
発声を封じられれば武装召喚術は行使できない。それは一般の武装召喚師であれ、クオンであれ、変わらない原理原則だ。呪文を唱えられず、呪文の結尾を紡ぐこともできなければ、この世と異世界は繋がらない。無敵の盾と誇ったところで、召喚できなければなんの意味もないのだ。
それは、無敵の盾の数少ない欠点のひとつであり、武装召喚術に共通する弱点だ。術式を完成させる前に喉を潰されれば、負ける。
「すまない、クオン。また、わたしのせいでこんなことに」
涙を浮かべる彼女を抱きしめてあげることしか、クオンにはできなかった。彼女は、あまりにも辛い過去を背負いすぎている。そのすべてが一気に襲いかかってきたのだ。いままで心の中に溜め込んでいたものが溢れだしたとして、それをだれが責められるのだろうか。
「ぼくはこうして生きている。だから、それでいいんだ」
それに、これで今度こそチャラになるだろう。互いに王手をかけるような真似をしたのだ。アーリアの奇襲がレオンガンドの命令であろうとなかろうと、同じことだ。どちらも、同じような手を使った。
もちろん、それで帳消しになるというのは愚かで浅はかな考え方なのだが、レオンガンドの決断で無かったことにしてもらったという負い目が消えるという点では、チャラになるといっても過言ではなかった。
「これでいいんだ」
クオンは、彼女が泣き止んで眠りにつくまで抱きしめていた。