第千二百十八話 彼らの運命(六)
傷が疼く。
右太ももの皮膚と肉を削がれたのだ。立っているだけでも酷く傷み、意識を苛んだ。止めどなく流れる血が装束を濡らし、足を重くしていくかのようだった。だが、致命的なものではない。まだまだ戦えるし、この程度の痛みで泣き言をいうほど、やわな人生を歩んできたつもりはない。
森の奥地に移動したのは、傷の深さを確かめるためだった。黒き矛を手にしたセツナの感知範囲がどれほどのものかは不明だが、かといってニーウェがセツナの位置を認識できない場所まで移動するのは論外だった。セツナに逃げられては意味がない。
立ち上がり、呼吸を整える。そのときには、足の痛みは意識の外へ追いやっていた。激痛による身体能力の低下も考える必要はない。召喚武装による補助を得ているいま、どうとでもなる。元より圧倒的に強化された身体能力は、常人には到底辿り着きようのない領域に足を踏み入れている。多少肉が削がれたくらいで動きが鈍るような程度の低さではやっていけないのだ。
(さすがに、やる……)
ニーウェは、セツナの咄嗟の反撃を思い返して、歯噛みした。おそらく彼は、以前の戦闘で背を斬られた経験から、常に背後に注意を向けていたに違いない。でなければ反撃などできるわけのない速度だった。気配を感じた瞬間に体を動かしていては間に合わない。きっと、ニーウェが消えた瞬間に背後を攻撃するという訓練なりなんなりを行っていたのだ。
反射でなければ、間に合わない。
いや、反射であったとしても、通常、間に合うものではない。
空間転移ではないのだ。
ニーウェはあの瞬間、一切の時間差もなく、彼の背後から斬りかかっている。それが対応された。最初の戦いの経験によって対処法が練られたというわけだろう。相手は黒き矛の使い手だ。そうなる可能性は十二分にあった。だから、最初で最後の戦いにしなければならなかったのだ。あのとき、殺さなければならなかったのだ。それが失敗に終わったことをいまさら後悔しても遅い。対処法は作られ、実際に反応されてしまっている。
(しかし、だ)
セツナのニーウェ対策は、完璧なものではない。
ニーウェの攻撃をかわすことは相変わらずできていないのだ。受けながらも、反撃することで致命傷を回避しているに過ぎない。二度、三度と続けていけば、セツナの体は傷だらけになるだろうし、逆に反撃が来るとわかっているのであれば、こちらはいくらでも対策のしようがある。なにも背後から襲いかかる必要はないのだ。
当然のことだが、エッジオブサーストの能力は、背後に転移する能力などではない。まっすぐに接近してくる相手のもっとも隙だらけの場所が背後だというだけの話だ。その背後への攻撃に対策が取られているというのならば、背後以外の死角から攻撃すればいい。初戦のように、セツナの進路上にエッジオブサーストの片方を設置しておくのも悪くはない。全速力で前進する彼には避けようもない攻撃となり、場所によっては致命傷を与えることもできる。
(冷静になれ。全力で彼を殺すことだけを考えるんだ)
ニーウェは、胸中で自分に言い聞かせると、エッジオブサーストの黒い刃を見つめた。光を一切帯びることのない純粋な黒き刃は、見ているだけで心を落ち着かせる魔力があった。エッジオブサーストの持つ狂おしいまでの禍々しさも、ニーウェにはこの上なく魅力的に見えるのだ。そしてその魅力こそ、ニーウェがエッジオブサーストの力を追求し、黒き矛の破壊へと駆り立てた。
結果、ニーウェは黒き矛の主である自分と同一の存在を認識した。
それがセツナだ。
セツナ=カミヤ。セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルド。長たらしい名前は、彼がこの国に貢献してきたことの現れでもある。彼は、ガンディアの英雄と呼ばれている。ログナー戦争、ザルワーン戦争、クルセルク戦争――ガンディアの将来を揺るがす戦いのすべてで、だれも寄せ付けないほどの活躍をしてきたのが彼だった。そんな彼の前歴は謎に包まれている。カラン大火の前、彼がなにをしていたのか、だれも知らないようなのだ。彼ほどの力を持った武装召喚師が無名のまま何年も世間に潜伏しているなど考えられるものではない。無論、その力というのは彼個人の武装召喚師としての技量ではなく、彼が召喚した黒き矛の力のことだ。が、いずれにせよ、それが彼の力だということに変わりはない。召喚武装の力こそ、武装召喚師の力なのだ。だからこそ、不自然なのだ。カラン大火の以前、ガンディアのみならず、周辺諸国にもセツナ=カミヤなる人物の影も形も現れてはいない。
セツナは、カラン大火と同時期にこの世界に現れたからだ。
彼が異世界の存在だということは、ニーウェにはわかりきったことだ。でなければ、おかしい。不自然だ。彼は、ニーウェと同一の存在だ。同じ世界に生まれるはずのない、異世界の自分。異世界におけるニーウェの可能性。故にニーウェは彼を殺す必要に迫られている。殺さなければ、ふたりとも、この世界から排除されるかもしれないからだ。
ふたりの同一存在を受け入れてくれるほど、世界が優しいとは思い難い。
セツナを殺し、黒き矛も破壊する。
両方成し遂げて、はじめて、ニーウェは完全に勝利したといえるのだ。
だから今日まで待ち続けた。いまのいままで、機会を待ち続けたのだ。彼が黒き矛を躊躇なく召喚できるくらいに回復するまで、待った。黒き矛を召喚していない彼を殺すのは至極簡単なことだ。そういう機会ならいくらでもあっただろう。しかし、それでは意味が無い。エッジオブサーストが完全なものとなるには、黒き矛を破壊し、その力を奪い尽くす必要がある。そして、エッジオブサーストが真の力を得てようやく、ニーウェは彼女を迎えにいける。胸を張って、彼女に愛を伝えることができる。
すべては愛しいひとのために。
決意を新たにした瞬間だった。
ニーウェは、感知範囲内ぎりぎりのところにあったセツナの気配が消失するのを認識した。即座に飛び退く。右太ももが悲鳴を上げる。黙殺し、双刀の切っ先を前方に向ける。視界が歪み、空間そのものが破壊された。破壊の中から出現するのは黒き矛のセツナだ。黒き矛の能力のひとつ、血を媒介にした空間転移能力を駆使したのだろう。彼はこちらを認識するなりにやりとした。ニーウェは、双刀に収束させた力を解き放った。力は光となり、光は双刀の刀身を伝わって切っ先で収斂、弾丸となって弾き出される。光弾はしかし、セツナの斬撃に弾かれ、あらぬ方向に飛んで行く。破壊された空間が一瞬にして修復する中、セツナが地を蹴った。接近戦を挑んでくるつもりなのだろう。
(甘いな)
ニーウェは後ろに大きく飛びながら、無策にも飛び込んでくるセツナを認識して内心嘲笑った。森に乱立する木々は、黒き矛の攻撃から身を守る盾にはならないが、セツナの接近を阻む障害として利用することはできる。視線はセツナの方向に注いだまま、しかし、死角となった背後の木にぶつかることはない。強化された五感は、周囲の木々の在り処をわずかな誤差もなく伝えてくれている。前方、セツナが黒き矛を大振りに振り抜くのが見えた。凄まじい斬撃が彼の前方の木々を軽々と薙ぎ倒す。まるで草でも刈るような気軽さだった。唖然としかけて、気を取り直す。
(あれが黒き矛の力……!)
こちらに向かって倒壊してくる木々と、その中を突っ切って迫り来るセツナを認識しながら、ニーウェはぞくぞくするような高揚感に包まれた。黒き矛の力がエッジオブサーストのものとなれば、いまと同じことをさらに少ない力で実行することができるようになるだろう。それは恐ろしく、頼もしい。
ニーウェはようやく後退を止め、足を止めた。いつの間にか、森の中心近くまで移動していたが、それは問題ではない。むしろ、木々が乱立する森の中のほうが、セツナの相手をしやすいかもしれない。セツナも追撃の足を止めた。接近を諦めたというよりは、ニーウェが突如として足を止めたことに警戒したようだ。
その警戒が命取りだということも知らずにだ。
ニーウェは、双刀の刀身を重ね、エッジオブサースト最大の能力を発動させた。
それは、世界を支配する能力。