第千二百十七話 彼らの運命(五)
ニーウェの気配は、森の中を移動し続けていた。
感知範囲内を物凄い速度で移動していた最初に比べると、ずっと遅くなっている。これならばすぐに追いつくだろうが、セツナは警戒を禁じ得なかった。速度を緩めたということは、セツナに追いついて欲しがっているのではないか。つまり、先ほどのように罠を張り巡らせた地点に誘い込もうとしているのであり、だからわざと移動速度を落とし、セツナが追いすがってくるのを待っているのだろう。
セツナはそう判断すると、彼の辿った経路を追うのではなく、大きく迂回して彼の気配に接近した。迂回する分、接触まで時間はかかるものの、先ほどのような罠に引っかかる可能性は少なくなる。その上、今回は先ほどとは違ってニーウェの気配だけに集中しているわけではなかった。全周囲、あらゆる気配の変化を読み取り、認識している。活発化した皇魔の行動を恐れるように退避する小動物の群れさえも意識の端に捉えている。この森に住む皇魔はブリークのみらしいということも、わかった。ガンディア国内においてブリークの潜む森といえば、使者の森のことを思い出したものの、ブリークは使者の森以外にも生息しているし、なにもガンディア国内にしか生息していないわけでもない。クルセルク戦争時に嫌というほど見たのだ。
研究によれば、ブリークは小国家群の中央部から北部にかけて広く分布し、森に巣を作るという。森の中でブリークに遭遇したからといって、この森が使者の森だとは限らないわけだ。
セツナは、森の中を集団移動するブリークの群れとの遭遇を避けながら、ニーウェの気配への接近を続けた。はたと立ち止まる。ニーウェが突如として足を止めたからだ。前方、森の中の開けた場所にいるらしいことがわかる。半球形に抉れたような地形は、記憶にも懐かしい。
それはまさに、セツナとブリークの群れとの戦闘によって破壊された地形だった。
(使者の森だったか)
セツナにとってはもはや懐かしいとしかいいようのない場所だった。
使者の森とは、ガンディア方面王都ガンディオン南方に横たわる小さな森のことだ。ガンディアの建国神話において銀獅子レイオーンが降り立った地として知られている。レイオーンはガンディア王家の祖に力を与えたといわれており、それによって獅子の国ガンディアは誕生した。国名が獅子の神なのも、王都が獅子神庭なのも、国章が銀獅子なのもすべてレイオーンの伝説によるものだという。
そんな伝説に彩られた森だが、セツナが懐かしく思うのは、この森こそ、セツナがこの世界に召喚された場所であり、はじめて見た異世界の風景だったからだ。
異世界における原風景といってもいいのかもしれない。
この森でアズマリア=アルテマックスに出逢い、彼女によって武装召喚術の使い方を伝えられ、黒き矛を手にした。ブリークと戦闘した結果、森の一部に破壊痕が刻まれてしまったことはだれにも教えていないのだが、ガンディアでは一時期大騒ぎになったらしい。使者の森は、ガンディア王家にとっても国にとっても重要な場所であり、破壊されることなどあってはならないのだ。
聖地といってもいいのだろう。
だからブリークのような小型皇魔の巣窟となっているといってもいい。ガンディア王家の聖地であるがゆえにだれも入ることができず、また、王家の人間にとっても重要な地ではあっても訪れるようなことはないため、手入れされることもない。ただ、伝説の地というだけで放置されているといっても過言ではないらしいのだ。遥か昔は使者の森で儀式が行われていたということだが、儀式のたびに皇魔による被害が甚大なため、使者の森で儀式が行われることはなくなったということだ。
セツナは、呼吸を整えて、木の幹から顔を出して破壊跡を見やった。ニーウェはひとり、じっと佇んでいる。まるでセツナが襲い掛かってくるのを待っているようだった。なにか罠でも張り巡らせているようには見えない。彼がいるのは半球形に抉れた大地のまっただ中であり、罠を張るには目立ちすぎる場所だった。もし罠を張り巡らせるのであれば、森の中にこそ仕掛けるべきだろう。わざわざ森の外に誘いだしたのは、どういう理由があるのか。
警戒するものの、このままじっと相手の出方を待っているわけにもいかない。
(……いや、これは……)
セツナは、耳朶を掠める声に眉根を寄せた。共通言語とは異なる言葉の羅列。式に則った古代言語の詠唱。呪文の詠唱。術式の構築。武装召喚術。
即座に跡地に飛び出し、矛の切っ先をニーウェに向ける。ニーウェは、両手とも無手であり、エッジオブサーストを手にしていなかった。いつの間にか送還していたのだろう。
(あのとき速度が遅くなったのはそれか!)
セツナは、黒き矛から光線を発射しながら内心舌打ちした、ニーウェを警戒するあまり、彼の移動速度の低下の理由を罠としか認識できなかった自分に腹が立つ。実際には罠でもなんでもなかったのだ。ニーウェは、最初にセツナをブリークの群れに突入させたことで、ほかにも罠があるものだとセツナに誤認させた。その間に送還を行い、再召喚のための詠唱を始めていたに違いない。
なぜ送還する必要があったのかは、彼が二刀一対の短刀の片割れしか手にしていなかったからだろう。
(片方だけ……)
ニーウェが黒き矛の光線を容易くかわした。威力を絞りに絞った攻撃など、やすやすと回避されても仕方がない。そもそも、セツナもニーウェと同じなのだ。ニーウェがエッジオブサーストを召喚してくれなければ、戦うに戦えない。エッジオブサーストの破壊こそがセツナの目的であり、黒き矛の目的なのだ。エッジオブサーストを手にしていないニーウェなど相手にならないが、相手にできないともいえる。
(そういうことか!)
セツナは、ニーウェがなぜ片方の短刀しか手にしていないのかを把握した。エッジオブサーストの空間転移能力の弊害というべきものだろう。エッジオブサーストの空間転移能力は、おそらく、短刀の位置を交換するというものなのだ。
ニーウェは使者の森にエッジオブサーストの片割れを置き、もう片方のエッジオブサーストとともに演武中のセツナと接触、空間転移能力を発動させた。結果、使者の森に置いていたエッジオブサーストと空間転移能力を発動させたエッジオブサーストの位置が入れ替わったのだ。そして、それに触れていたニーウェと、彼に触れられていたセツナまでもが使者の森に転送された。
推測だが、そういうことだろう。
無論、それがエッジオブサーストの能力のすべてではない。でなければ説明できないことがあるのだ。推測が正しくないという可能性も大いにあり、あらゆる可能性を想定しなければならないのもまた、事実だ。
だが、双刀の位置を入れ替える能力だけでも十二分に厄介だった。片方を遠方に投げ放てば、即座に戦闘区域から逃げ出すことだって可能なのだ。
エッジオブサーストの厄介な能力に気づいたその瞬間、
「武装召喚」
ニーウェの周囲に呪文が瞬き、術式の完成が提示された。爆発的な光がセツナの視界を白く塗り潰した。セツナは着地と同時にさらに踏み込んでニーウェに迫った。光がニーウェの両手の中に収束し、ふた振りの短刀が出現する。黒一色の短刀。エッジオブサースト。セツナの黒き矛による突きが、二刀一対の短刀に挟まれ、激しい物音を立てて火花を散らせた。穂先が双刀の切っ先に絡め取られ、矛を握るセツナごと強引に投げ飛ばされる。飛ばされながら上体をねじってニーウェを視界に収め、矛の穂先を相手に向け、牽制の光線を発する。視界を灼く光の奔流は一瞬にしてニーウェのいた場所に到達するも、彼は左に飛び退いている。光線が地面に突き刺さり、小さく爆発する。直撃したところで致命傷にはならないが、行動不能に至らしめることはできるだろう。とはいえ、光線の精神消耗は激しい。いくら威力を抑えたところでそう頼っていられるものではない。着地と同時に地を蹴り、ニーウェに殺到する。正体不明の能力を使わせる暇を与えるわけにはいかないのだ。全速力で跳びかかったのも束の間、セツナの刃がニーウェに届く距離に至るよりもずっと早く、彼は冷ややかに告げてきた。
「遅い」
ニーウェの声が聞こえた直後、彼が双刀の刀身を重ねるのが見えた。深黒の双刀が触れ合った瞬間、気配がセツナの真後ろに出現した。圧倒的な重量感をもった殺意。
(避けきれない……!)
セツナが咄嗟に矛を後ろに向けて光線を射出するのと、臀部に激痛が走ったのはほとんど同時だった。跳躍の最中、背後から喰らった一撃の勢いで地面に叩きつけられる。衝撃。そのまま横に転がりながら腕力だけで跳ね起きる。周囲にニーウェの気配はない。空間転移とは異なる能力でセツナの周囲四方から離脱したのだ。セツナを確実に殺すために、だろう。
黒き矛を握り直しながら、襲撃地点に視線を向ける。左手は臀部の傷口に触れていた。傷口は決して浅くはなかった。熱を感じる。血が流れているのだ。当然のことだが、エッジオブサーストによる攻撃は新式装備の腰当てを容易く貫通するということだ。
武装召喚師同士の戦いに防具がほとんど意味をなさないというのは、ある意味では常識として知られている。故にファリアなど熟練の武装召喚師ほど軽装を好む。重装でがっちり着こむということは動きが鈍るということと同義であり、武装召喚師同士の戦いで動きが鈍るということほど致命的なことはない。
(そして俺はその致命的な状態になったというわけだ)
臀部の傷は、セツナの身体能力を低下させることだろう。動きが悪くなるのは間違いない。著しく、というほどではない。我慢すればなんとでもなる。しかし、相手が相手なのだ。エッジオブサーストは黒き矛の眷属であり、その能力は圧倒的だ。さすがに黒き矛を上回っているとは思いがたいが、エッジオブサーストを手にしたニーウェの身体能力は、黒き矛を手にしたセツナの身体能力に肉薄しているか、わずかながら上回っている可能性がある。
ニーウェは、セツナとは違って生粋の武装召喚師であり、何年もの間修練を積み、肉体を鍛え上げてきている、セツナのような付け焼き刃の訓練ではなく、だ。
(だが、それは相手も同じ)
ニーウェに切りつけられた地点には、おびただしい血の痕があった。まず間違いなく、矛の光線がニーウェに直撃したか、掠ったのだ。だから、この場を離れた。とはいえ、致命傷を与えたとは思い難い。至近距離ということもあって、極力威力を絞っていた。当たりどころが悪ければ死ぬことだってありうるかもしれないが、彼が消えている以上、それはないだろう。
問題は、彼がどうやってセツナの背後に現れ、そして背後から消え去ったのか。
(どんな能力だってんだ)
位置交換による空間転移とは異なる力。エッジオブサーストの能力なのは、間違いない。別の召喚武装の能力ならば、わざわざエッジオブサーストを再召喚する必要がないからだ。そして再召喚しなければならなかったということは、片方だけでは発動できない能力ということだ。
セツナの脳裏にニーウェが消える寸前の光景が浮かんだ。ニーウェは、双刀の刀身を重ねた瞬間、セツナの背後に出現していた。そしてそれは、昨年、新市街で彼と戦ったときもそうだったのだ。彼は、エッジオブサーストの双刀を重ねた瞬間、セツナの背後に出現し、背を斬りつけている。最初、セツナはそれこそニーウェの空間転移能力だと思ったのだが、どうやら違うらしいことがわかってきていた。
双刀を重ねて発動する能力が空間転移ならば、セツナを使者の森に運ぶのにわざわざ位置交換の能力を使う必要がない。位置交換は、エッジオブサーストのひとつを犠牲にしなければならない能力だ。セツナに急接近する必要がある状況で、双刀のひとつを失わなければならないのは非常に不利だ。別の方法で空間転移できるのならば、そちらを使うに越したことはない。
つまり、双刀を重ねて発動する能力は空間転移とは別種の能力だということだ。
(けどよお……あれはどう考えたって転移したようにしか思えないぞ)
ニーウェは、あのとき、セツナの視界から消失すると同時に背後に現れていた。
セツナは、全神経を集中した。周囲のあらゆる変化を見逃してはならない。半球形の荒れ地だけではなく、森の中にも意識を向け、一瞬でも変化が訪れれば、それに対応しなければならなかった。ニーウェの能力が不明である以上、注意してし過ぎることはないのだ。その結果、ニーウェの気配を察知することに成功した。彼は、森の奥で息を潜めているようだった。どういう状態なのかまではわからない。軽傷なのか重傷なのか。戦いを継続する気があるのか、ないのか。それともセツナの出方を窺っているだけなのか。
臀部の傷が疼く。血が流れているのがわかる。さすがに出血多量で死ぬような傷ではなさそうだが、いつまでも無視できるようなものでもない。
このまま放っておけば、いずれ戦闘に支障を来すだろう。
セツナは嫌な予感を抱いた。
(まさか……)
ニーウェは、セツナが体力を失うのをどこかで待っているのではないか。
セツナを殺し、黒き矛を破壊するという目的のためならば手段を選ばない人間である可能性も十二分にあった。
であれば、こちらから出向くしかなくなる。