第千二百十一話 一月十七日(一)
一月十七日。
国を挙げての大会議の翌日、王都ガンディオンはマルディアへの派兵決定とジゼルコート伯襲撃事件の話で持ちきりだった。マルディアへの救援に関しては肯定派否定派入り乱れての論争になることも少なくなかったようだが、ジゼルコート伯襲撃事件に関しては、ジゼルコートの身を案じる声ばかりが聞かれたという。襲撃犯に厳罰を求める声もあれば、セツナ派に属していたことに関しては、襲撃犯がセツナを巻き込むためにそうしたのではないか、などという憶測を呼べば、陰謀論にまで発展した。が、ジゼルコートを亡き者にして得をする人物などいるわけもないという結論に至らざるを得ず、結局、襲撃犯カルム=ニズンの暴走として考えざるをえないのだが。
ジゼルコートは、レオンガンド派のようでいて、レオンガンド派ではない。
中立派でもなければ、反レオンガンド派でもない。派閥に属しておらず、いわばジゼルコート個人の派閥といってもいいのかもしれない。にも関わらずガンディアの政治への影響力は、ときとして国王レオンガンドを凌ぐこともあるのは、彼がガンディア王家の一員であることも大きいが、かつて影の王としてガンディアに君臨していた時期があるからだという。レオンガンドが暗愚の王子を演じていたころ、病床に臥せるシウスクラウド王に代わり、ガンディアの政を司っていたのがジゼルコートなのだ。彼は、ガンディアの瓦解を防ぐために尽力し、レオンガンドが王位を継承するまでの時間稼ぎをした。ジゼルコートの政治家としての才能が開花したのはちょうどその時期だろうということであり、もしシウスクラウドが毒に倒れず、レオンガンドが暗愚を演じる必要がなければ、ジゼルコートの立場はいまとまったく違ったものになったかもしれないらしい。
なにより、ジゼルコートはシウスクラウドによって重用されていたこともある。政治家としてではなく、軍人ジゼルコートとしてだ。ジゼルコートは、シウスクラウドの側近であった。シウスクラウドが毒によって倒れたため、仕方なく影の王となったのであり、彼としては無念なところもあっただろうという――とは、レオンガンドの評だ。
セツナがジゼルコートに関する情報を頭の中に並べたのは、ついさっきまでジゼルコート本人に会っていたからだ。同じ領伯である以上、見舞いに赴くのは当然のことだ。逆もまたしかりで、セツナが負傷して寝込んでいる時には、ジゼルコートが見舞いに来てくれたものだったし、そのときには少しばかり談笑したりもした。取るに足らない世間話を交わす程度で、なにがあるわけもないのだが。
王宮の通路を歩いていると、前方から歩いてくる文官などがこちらを見つけるなり進路を変えるか、セツナの視線を恐れるように壁際に寄った。セツナを畏れているのもあるだろうし、セツナたちが物々しいということもあるだろう。人数が人数だ。
セツナは、部下と従者、配下のものを引き連れていた。レオンガンドからの忠告だった。しばらくの間、警戒に警戒を重ね、隙を見せることにないようにしろ、ということであり、王宮内を歩くときですら仲間や配下と行動をともにするべきだとさえいわれている。ジゼルコートが襲われた以上、なにが起こるかわかったものではないのだ。
「なんにせよ、ジゼルコート様の命に別状がなかっただけ、良かったわね」
「ああ……本当にな」
少なからず安堵したファリアの言葉に小さくうなずく。カルム=ニズンに襲われたジゼルコートは、右眼と胸部の二箇所を斬られていた。軽傷とはいえないくらいの深手だったが、ファリアのいうように命に別状はなかった。しかし、負傷したジゼルコートを一目見れば、命に別状がなければいいというものでもない、という感想を抱かざるを得なかった。レオンガンドもそんな叔父の姿を見たから、セツナにも警戒するように忠告してきたのかもしれない。
ジゼルコートからも警戒するよう、忠告を受けた。カリム=ニズンのよう狂った正義に駆られた人間には、なにが正しく、なにが間違っているのか判断することなどできないのであり、たとえセツナ伯であっても襲われる可能性はないとは言い切れない、という。
『もっとも、わたしが襲われたのは、わたしの不徳のいたすところですがな』
ジゼルコートはそういって、自嘲気味に笑った。不徳とは、ジゼルコートがベノアガルドと繋がっているかもしれないという話を指している。もっとも、その話はだれもが知ることではない。ごく一部の人間だけが知っている極秘情報であり、カリム=ニズンが知ることなどできるはずのないものだった。カリム=ニズンにその情報を流したものがいるということだが、それはそれとして、カリム=ニズンがジゼルコートに正義の刃を振るったのは、自分がそう受け取られても仕方のない行動を取ってしまったからだとジゼルコートはいった。
そして、ベノガルドの諜者を招き入れたのは、ガンディアのためだともいった。ベノアガルドがガンディアに諜者を放った理由を知るためには、諜者を泳がせるのが一番だと判断したのだ、と。一応、理に適っているようには思える。実際、彼がベノアガルドの諜者アルベイル=ケルナー(テリウズ・ザン=ケイルーン)を国内に入れたことで、テリウスの目的は明らかになっている。テリウスがガンディアを訪れたのは、セツナの力量を探るためだった。
もちろん、カリム=ニズンにはそんなこと知ったことではなかっただろう。情報部の尋問にも、彼は正義を断行しただけだといっており、どこから情報を得たのか、どこまで知っているのか、といった質問には答えなかった。カリム=ニズンはガンディア人であり、ウルの支配対象から外れていることもあり、彼から情報を引き出すのは簡単なことではなさそうだった。カリム=ニズンがガンディア人以外の貴族ならば、ウルひとりであらゆる情報を引き出すことができるというのだが。
ウルは、ガンディア人を憎んでおり、支配能力によってガンディア人の精神に触れることさえ忌み嫌っているらしい。
ジゼルコートは、カリム=ニズンがセツナ派に属していたことに触れたものの、セツナに責任を問うような問題ではないともいった。エイン=ラジャールやアレグリア=シーンといった参謀局の人間が与するセツナ派の陰謀ならば、もっと上手くやっただろうというのがジゼルコートの考えであるらしい。おそらく、反レオンガンド派の人間がセツナ派を潰すために仕組んだのであり、そのためにカリム=ニズンの青い正義感が利用されただけなのだ、といった。
ジゼルコートの考察を聞いて、セツナはなるほどと思ったものだ。
セツナ派は、レオンガンド派の分派のようなものだ。たとえそう明言していなくとも、だれもがそう認識する。レオンガンドの寵愛も深いセツナがレオンガンド派と敵対するようなことがあろうはずもなく、セツナ派がレオンガンド派と意見を同じくしているのは、火を見るよりも明らかだ。故に中立派貴族の受け入れ先として機能するのであり、中立派とレオンガンド派の橋渡しになりうるのだ。そうやって中立派貴族を取り込むことがセツナ派を結成した理由のひとつだとエインも語っている。
反レオンガンド派がレオンガンドの足を引っ張るためにセツナ派に工作してくるのは、道理といってもいいのかもしれない。レオンガンドに対抗するためにセツナを暗殺しようとした派閥だ。いまでこそ鳴りを潜め、おとなしくなっているものの、その本質は変わってなどいなかったのだ。
セツナ本人を狙うのではなく、ジゼルコートを狙ったのは、そのほうが確実だからだろう。
ジゼルコート伯襲撃犯がセツナ派に属していたとなれば、大事件となるのは目に見えている。ジゼルコートの反応次第では、セツナ派の解散にまで発展した可能性もあり、エインとアレグリアなどはひやひやしていたものだ。彼らにも予期せぬことだったのだ。ふたりの軍師候補は、セツナ派に入りたがっている政治家を厳しい目で選別し、少しでも悪意を持っている可能性のある人物のセツナ派入りを認めていなかった。カリム=ニズンも同様の目で見ていて、彼の経歴にも人格にも一切の問題がないと判断したからセツナ派に入れたのだ。それが事件を起こした。
『セツナ様にはどのように謝罪すればいいのかわかりません』
『アレグリアさんのせいだけじゃないですよ。王都のことを全部丸投げしていた俺も悪いんです。セツナ様、怒るのなら俺を怒ってください』
アレグリアとエインはセツナに向かって謝り倒してきたものだが、セツナは、必ずしもふたりが悪いとは思わなかった。たとえカリム=ニズンがセツナ派に入っていなくとも、事件は起きたかもしれないし、セツナ派の別のだれかが利用されたかもしれないのだ。アレグリアとエインさえも出し抜くような人間がガンディアにいて、その人物が裏で糸を引いているのだろう。
『……ジゼルコート伯にはご注意の程を』
ジゼルコートの見舞いに行くといったときのエインの表情が忘れられなかった。彼はまるでジゼルコートこそこの事件の首謀者だとでもいうような目をしていた。
セツナには、そうは思えなかった。
まず、そうする理由がわからない。自分自身を傷つけることに一体何の意味があるのか、まったくもって理解できない。セツナ派を瓦解させるためならば、もっと上手いやりようはあるだろうし、自分を負傷させる意味がない。そして、セツナ派の解散を願ってもいないらしいことは、ジゼルコートの発言からも明らかだ。つまり、それが目的ではないということになる。では、ほかに納得のいく目的があるのかというと、セツナにはわからない。
そもそも、ジゼルコートが敵だということさえ、納得のできないものだった。彼は、戦場にこそ立たないが、ガンディアのために尽力しているではないか。特にアザークとラクシャを交渉だけで従属させたという手腕、だれにも真似のできないものだ。そしてそれこそ、彼がガンディアに尽くしているという証拠ではないのか。
そんなことを考えつつ、通路を進んでいると、きらきらとしたものが視界に飛び込んできた。
「セツナ様におかれましては、ご機嫌麗しゅうございます」
などと恭しく挨拶してきたのは、マルディア王女ユノ・レーウェ=マルディアであり、彼女が現れた瞬間、彼の周囲に緊張が走ったのはどういう理屈なのか、セツナには見当もつかなかった。
きらきらと輝いているように見えたのは、彼女の身につけている衣装だった。
衣装そのものではなく、衣装に飾り付けられた宝石の数々が通路の魔晶灯の光を反射して、あざやかにもきらめいているのだ。マルディアは宝石で有名な国だ。衣服を宝飾品で飾り立てるのはお国柄といってもいいらしく、マルディア国内における宝石の価値は、他国ほどのものではないらしい。庶民ですらひとつやふたつ、宝石を持ち歩いているくらいだというのだから相当だ。もっとも、マルディアは宝石類を高く売れる外国に輸出することで儲けてもいて、国の内外での価値観の差は理解しているということだが。
ともかくマルディアの王女は歩く宝石箱のように無数の宝飾品で飾り立てられているのだが、セツナの周囲の女性陣は、そのことが気になっているわけではなさそうだった。
「ユノ様こそご機嫌麗しくございます」
セツナは、女性陣の反応を気にしながらも、ユノの挨拶に応えた。彼女は笑顔でこちらを見ている。無論、ユノはひとりではない。侍女たちが彼女を取り囲むようにしているのだが、その侍女たちもまた、宝石に彩られた衣服を見につけている。とはいえ、ユノの衣装に比べると宝石の数も少なく、控え目だった。
「まさかセツナ様と今日もお逢いすることができるとは思ってもおらず、このような格好で恥ずかしいのですが……」
などと、彼女はセツナには理解のできないことをいって、気恥ずかしそうに頬を染めた。
(恥ずかしい?)
(どういうことだ?)
(馴れ馴れしいわ……!)
(まあまあ、ミリュウ様、抑えてくださいませ)
(そうじゃぞ。セツナに嫌われるぞ)
(ぐぬぬ……)
背後から聞こえる小声から耳を塞ぎたくなる衝動に駆られるが、どうしようもない。彼女たちがユノに食ってかからないだけましだった。とはいえ、いつまでもこうしてはいられないだろう。そのうち、ミリュウ辺りが暴言を吐いたりしかねない。
すると、侍女のひとりが腰をかがめてユノに耳打ちした。
「姫様」
「そうでした、セツナ様に感謝の言葉を申し上げたかったのでございます」
ユノがぽんと手を打って、満面の笑みを浮かべた。
「感謝?」
「はい。昨日のことでございますわ」
「ああ……大会議の」
察しがつく。
ユノがセツナに感謝することがあるとすれば、ほかに思いつかないし、それ以外で感謝する理由などあるはずもない。
ユノは、歩み寄ってくると、セツナの両手を取った。
「マルディア派兵に賛成してくださったこと、マルディア王女として、マルディア国民の代表として、感謝申し上げますわ」
「感謝されるいわれはありませんよ。困っている方を助けるのは、ひととして当然のことです」
「ああ、セツナ様……!」
「どうされました?」
「いえ……なんでもないのです」
ユノは、セツナの手を取ったまま、しばし沈黙した。距離が近いこともあって、彼女の大きな目にセツナの顔が映り込んでいるのがわかる。
(でたわ)
(でたな)
(いつものことよねー)
(そうでございますね)
(らしいのう)
(らしいのですか)
(……あとで覚えてろよ)
セツナは背後で囁き合う連中に胸中で毒づくと、こちらの様子に不思議そうな顔をするユノに向かって笑顔を見せた。
「そういえば、紹介がまだでしたね」
「紹介?」
「彼女は《獅子の尾》隊長としてのわたしの部下で、ファリア・ゼノン・ベルファリア=アスラリア――」
きょとんとするユノに向かって、セツナは周囲の女性陣をつぎつぎと紹介していった。ファリア、ミリュウ、シーラ、レム、ラグナ、ウルクの順番にだ。ちなみにルウファとエスクは不在ということで紹介できなかったが、問題はないだろう。そもそも、マルディア王女と直接関わることなど、セツナ自身ほとんどないのだ。
つまり紹介する必要さえなかったのだが、間が持たないと判断した。