第百二十話 帰路
「これでよかったのだろう、ウェイン」
アスタル=ラナディースは、夜闇の迫る集団墓地でひとりつぶやいた。
ほかにだれがいるわけでもない。霊が彷徨っていることもなければ、墓守が屯しているようなこともない。だれもいない墓地は、絶対的な孤独があるようだった。そして、沈黙が横たわっている。死者は言葉を持たないのだ。地の底に埋められる前から、彼らは語る言葉を失った。声を。影を。
空には星が瞬き始め、冷たくもない風が頬を撫でるように吹き抜ける。
彼女は、ウェイン・ベルセイン=テウロスの墓前に立ち尽くしていた。
飛翔将軍の魔剣として、ログナーの青騎士として、彼女の片翼であった青年騎士は、先の戦いで死んだ。どのように戦い、どのように死んだのか、克明に記録されているわけではないが、セツナ=カミヤと激しい戦いを繰り広げた末に命を落としたということはわかっていた。そして、その壮絶な死に様も、彼女は確認している。
ウェインの死体は、目を背けたくなるほど凄惨なものだった。それは彼とセツナ=カミヤの戦いの激しさを物語っており、セツナが立派で勇敢だったと語ったのは真実なのだろうと思える。ウェインは全身全霊をかけて、彼を倒そうとしたのだろう。そうしなければログナーに勝利はないと信じたのだろう。ガンディアに勝たなければ未来がないと想っていのかもしれない。それほどまでに追い詰められていたのか。
アスタルは生き残り、ログナーという国の最後を見届けた。ガンディアに飲まれ、組み込まれていく光景を目の当たりにし、悲鳴と歓声を同時に聞いていた。ログナー人全員が悲鳴を上げたわけではない。ガンディアという国に取り込まれることを好機と捉えるものも少なからずいたし、ザルワーン支配下よりも余程ましだと諸手を上げて喜ぶものもいた。
軍人の中にも、ガンディアでこそ名を上げようと意気込むものもいないではなかった。ガンディアは、無名の武装召喚師であったセツナ=カミヤを多大に評価し、騎士相当の待遇を与えたのだ。出自や派閥に囚われない立身出世は、末端の兵士たちの意気に繋がるだろう。
ログナー王家は領土を失い、王権を手放すことになったが、ガンディアの貴族として迎え入れられた。血を残していくこともまた、王族の務めなのだ。たとえ一貴族の身に落ちようと、いずれ返り咲くことができるかもしれない。それはエリウス=ログナーの働きにかかっている。
アスタルもまた、ガンディアに属した。そして、右眼将軍という肩書を得た。ガンディア軍ログナー方面総司令というようなものであり、元ログナーの軍人たちを纏めるための役職には違いない。もっとも、ガンディア軍で大将軍に次ぐ地位であり、彼女がこの座についたことでくだらない憶測や陰謀論が囁かれるようになったのは皮肉な話だ。
「わたしはガンディアの軍人になった。だから、ガンディアのために全力を尽くす。それがログナーのためにもなる」
許しを請いはしない。許される必要もない。そして、罰されることでもない。それが乱世の習いだ。敗者は勝者に従うしかない。勝者が暴威を振るうのなら力をもって反発したのだろうが、ガンディアの支配はきわめて穏やかで、優しいものだった。ログナーは骨抜きにされ、あっという間にガンディアの一部になってしまった。
それでよかったのだ。
ひとが無駄に死なずに済んだ。
最後まで抵抗したのはアーレス=ログナーだけであり、彼は、払うべき犠牲として死んだ。黒き矛は、だれにも容赦はしなかったのだ。
「彼は、君の死を超えて、数多の死を踏み越えて、さらに前に進む。わたしは彼の向かう先を見ていようと思う。彼はガンディアの矛先だ。彼の先にこそ、この国の未来がある」
アスタルは、つい先程まで見ていた少年のことを思い出していた。セツナ=カミヤ。ガンディアの黒き矛として、ログナーを敗北に追い込んだ武装召喚師。一見するとただの少年にしか見えず、さっきも、不安と焦燥に押し潰されそうな顔をしていた。そんな少年に負けたのかと想うとともに、黒き矛がそれでは皆の死が浮かばれないという想いが、アスタルに言葉を吐かせた。
激励など不要なのかもしれない、とは思わなかった。聞いた話によれば、彼はまだ十代の少年なのだ。心が不安定なのも当然の話だ。どれだけ戦場に立ち、どれだけひとを殺し、どれだけ戦果を上げようとも、人間的に成長するにはもっと経験を積まなければならない。二十年やそこらで成熟できるものでもないし、アスタルだってまだまだ成長の余地はあると思っている。
幼さは、悪ではない。
ただ、戦場でもその幼さを引き摺らないように注意し、成長を促してやればいい。それが大人の役目のひとつだろう。
「君はわたしを軽蔑するか? しないだろう。君はわかっているはずだ。なにもかも理解しているはずだ。だからわたしは前に進むよ。過去を振り返るのは、今日で終わりだ」
アスタルは、ウェインの墓の前で静かに祈った。彼の魂が天に召され、安らかでいられることを。そして、エレニアを見守ってくれていることを。
そうであればこそ、彼女は前に進むことができる。
アスタルと別れ、セツナは、宮殿への帰路についていた。
アスタルが、セツナが迷子になってはいけないと途中まで道案内をしてくれたおかげで、迷うことなく宮殿前まで辿りつけた。アスタルの助けなしでは、宮殿に到着する頃には夜中になっていたかもしれない。既に日は沈み、街中の魔晶灯が冷ややかな光を発しているのだ。もっと遅くなっていたのは間違いない。
アスタルが宮殿に戻らなかったのは、ほかに用事があったからだろう。右眼将軍はガンディアのログナー方面軍を統括しなければならず、多忙を極めるのは想像に難くない。
むしろ、セツナが暇を持て余しすぎているのだ。王宮召喚師、王立親衛隊《獅子の尾》隊長といっても、日々の殆どを訓練に費やすことが許されている。雑務は副長及び隊長補佐が受け持ってくれているからであり、そういった点からもふたりに感謝しなければならないのだが、訓練の日は疲労困憊で隊舎に戻ることもあり、礼をいうこともかなわないことが多かった。
帰りの足は、行きよりも軽く感じられた。自分の中の問題が解決したからだろう。安易な答えかもしれないが、見つけられたのだ。それだけでよしとするべきだ。
(死を無駄にしないように、か)
そのためには、地団駄を踏んでいる場合ではない。子供のように駄々をこねて、周りに迷惑をかけている場合ではない。クオンに居場所を取られる? そんなことを考えている状況ではないのだ。
前進するしかない。
「あれ……」
宮殿に近づくうち、門前にだれかが立っているのがわかった。遠目からでは暗くてよくわからなかったのだが、近づくに連れて王立親衛隊の制服に身を包んだ女性の姿がはっきりしてくる。ファリアだ。ファリア・ベルファリア=アスラリア。
彼女は、セツナの帰りを待っていてくれたのだろうか。
「おかえりなさい。思ったより早かったわね」
門前まで歩み寄ると、ファリアから声をかけてきた。安堵したような声音は、やはり心配してくれてはいたようだというのがわかる。
「ただいま」
セツナは、声が弾んでしまったことに気づいた。ファリアの態度が普通だったことへの安心からだろう。彼女はもう怒っていないようだ。というより、最初から怒っていなかったのかもしれない。いま思い返せば、彼女は終始冷静だった気もしないではない。
彼女が、やや無愛想に尋ねてくる。
「頭は冷えた?」
「うん、もうだいじょうぶ」
「そう。それならよかったわ」
ファリアは微笑みこそしなかったが、声音そのものは柔らかかった。眼鏡越しのまなざしも、鋭くはない。
「ごめんなさい」
セツナは、素直に謝罪した。謝ることができた。旧友へのわだかまりは、いつの間にかどこかに抜け落ちていた。だからこそ、心の底から思いの丈を吐き出すことができる。
「さっきは全部俺が悪かった。俺、気が立ってたんだ。昔のことを思い出してさ。冷静でいられなかった」
「ううん、わたしのほうこそ言い過ぎたわ。セツナの心中も察そうともしないで、言いたい放題いって。ごめんね」
「いや、ファリアのいう通りだよ。自分のことをなにも話さないくせにわかってくれだなんて、都合良すぎるよな」
「でも、言い出せない環境を作ってるのはわたしのほうかもしれないでしょ?」
ファリアがいってきたことに、セツナは笑い出したくなった。そんな馬鹿なことはありえないのだと冷静に判断する。彼女のせいではない。そんなことは断じてないのだと、叫び出したい衝動にさえ駆られる。どうしてそこまで優しいのか、と。
「それはないよ」
「どうして?」
ファリアが、きょとんとした顔でこちらを見る。彼女は否定されるとは思っていなかったのだろうか。
「だってファリアは優しすぎるくらいに優しいしさ」
「そうかしら」
「うん。助かってる」
彼女だけではない。セツナは、周囲のたくさんのひとに助けられて、生きている。ひとりで生きていけるはずもない。ここは異世界で、セツナはなにも知らない子供も同然だった。黒き矛を振るうしか能のない子供が生きていくには、ひとの手を借りるしかない。レオンガンド、ラクサス、ルウファ、ランカイン、ルクス、アスタル――そして、それ以外のいろんな人達。
その中でも、ファリアほど親身になって手を差し伸べてくれたひとはいないといっていいのではないか。そう考えると、セツナの中にこみ上げてくるものがあった。それはなんという感情なのだろう。セツナにはまだ判別のつかないものではあったが、悪い気分ではなかった。むしろ心地よさがある。
「なんか、照れるわね」
ファリアはそういうと、宮殿内に向かって歩き出した。
セツナは慌てて彼女を追いかけ、並んだ。横顔を見ると、わずかに上気しているように思えたが、気のせいかもしれない。彼女の顔は影になっている。少し残念だと思ったが、ふたりで並んで歩くのも久しぶりだ。そっちを満喫すればいいのではないか。セツナはそう思うことにした。
セツナは、ふと、彼女が門前にいたことを思い出した。
「もしかして、待っていてくれた?」
セツナが問うと、一瞬の間があった。
「馬鹿ね。そんなわけないでしょ。偶然よ、ぐ・う・ぜ・ん」
ファリアは、あきれたようにいってきたのだが。
わざわざ強調してきたのには理由でもあるのだろうか。しかし、追求すると藪蛇になりそうだったので、やめた。せっかく仲直りしたのだ。わざわざ機嫌を損ねる必要はない。
せめて、宮殿まではこのまま歩いていたいと、セツナは想った。