第千二百五話 王女の覚悟(四)
セツナは、時間が止まるような感覚を覚えた。それはきっと気のせいで、本当は時間が流れているのだろう。しかし、彼の感覚としては、すべての時間が静止しているように思えた。そう思わなければやっていられなかったというべきか。
慎ましやかにも宝石が散りばめられた衣装を脱ぎ捨てた王女は、一糸まとわぬ姿のまま、セツナの膝の上に座ったのだ。突如として真っ白な素肌を見せつけられて、思考停止する。
(なんでこうなった?)
胸中で頭を抱えるが、答えは明白だ。
マルディアの惨状と、それにともなう大会議と、セツナの立場と、彼女の覚悟が複雑に絡み合って起きた事態だ。どれかひとつ欠けても起こり得なかった事態であり、セツナがいなければ、決してあり得なかったことだろう。セツナほどの影響力を持ちあわせた有力者など、そういるものではないのだ。考えられるとすればアルガザード大将軍かジゼルコートくらいのものだが、ふたりとも、セツナほどの気安さで近寄れるものではないし、セツナほど迂闊ではない。
つまるところ、セツナの迂闊さが招いた事態といってもいい。
セツナは愕然と認める。迂闊にも彼女を招き入れ、迂闊にも彼女とふたりきりになり、迂闊にも彼女の接近を許したがために、彼女のしたいようにさせてしまった。なにもかも、セツナの迂闊さが原因だった。ほかのだれでもない。
セツナが悪いのだ。
そう思うことで、セツナはなんとか冷静さを取り戻そうとした。が、そう簡単に行くものではない。少女の柔肌が目の前にある。目の前、などという距離でもなかった。ユノは、顔を真っ赤にしながら目を閉じ、セツナに体を委ねている。どうなってもいいという覚悟と決意が彼女の表情から窺えるのだが、同時に彼女の体が小刻みに震えていることも、全身で伝わってくる。ユノはセツナの膝の上にいる。膝の上に乗り、セツナの胸に顔を埋めるようにしていた。
「ユノ様……」
「セツナ様、わたくしを抱いてくださいませ」
彼女の声は、震えていた。わずかに恐怖が顔を覗かせている。十代半ばの少女だ。まだそういう経験がないのは明らかだった。
(馬鹿なことを)
言葉には、出せなかった。
彼女の覚悟を踏みにじるようなことは、いえない。
ユノは、マルディアの救いたいという一心でガンディアを訪れたのだ。マルディア王家の人間として、王女としての役目を果たすためにだ。そして、その役目とは、ガンディア政府の首を縦に振らせ、援軍をマルディアの地に導くことだ。だというのに、レオンガンドは即答を避け、大会議にかけるという。彼女がガンディアを訪れてから約一ヶ月。ユノたち使節団は焦れに焦れただろう。このまま大会議の開催まで待たされるだけ待たされ、否決されたとあっては立つ瀬がない。どのような顔をしてマルディアに帰ればいいのか。帰るに帰れないのではないか。
ユノたちは考えに考え抜いたに違いない。どうすれば、ガンディア軍をマルディアに連れていけるのか、何度となく密議を交わしたに違いない。結果、大会議を賛成に導くほかないということになったのだろう。そして、そのためにはどうすればいいのか頭を巡らせた。セツナに白羽の矢が立つまで時間はかからなかったかもしれない。長年ガンディアの将軍として君臨してきたアルガザードや、ガンディア一の政治家であるジゼルコートではなく、セツナを選んだのは、まだ若く、経験も浅いであろうセツナならば与し易いと判断したからだろう。それくらい、セツナにも想像がつく。そして、それはおそらく正しい判断だ。大将軍もジゼルコートもこういう状況に持ち込めはしなかっただろう。そんな隙を見せるふたりには思えない。
相手がセツナだから作ることのできた状況なのだ。
「では、ユノ様」
「はい……」
セツナが改めて声をかけると、ユノの体がびくりとした。これから起こるのであろうことを想像して、緊張を強くしたようだった。セツナは胸中苦笑しながら、彼女の華奢な背に腕を回した。手で触れた瞬間、またしても彼女の体が小さく跳ねた。
「震えていますね」
「……初めてなんです。その……優しくしてくださいね」
ユノは顔を赤らめながら、潤んだ目でこちらを見上げてきた。はっとしてしまうほどに蠱惑的で可憐な顔だった。じっと見つめていると、良からぬ感情が湧いてくることがわかるから、目をそらす。
「ええ、もちろん」
セツナは、我ながらなにをいっているのだろうと思いながら彼女を抱えて立ち上がると、すぐさまユノの軽い体を床に下ろした。そして、きょとんとする彼女には目もくれず、床に落ちて、花のように広がっている衣装を拾い上げる。
「セツナ様……?」
「着てください。いくら室内とはいえ、冬ですからね。風邪を引きますよ」
「あ、あの……その……」
「ユノ様のお覚悟、しかと受け止めましたよ」
「はい……?」
「マルディアへの救援要請には賛成いたしますので、ご安心を」
「セツナ様……?」
衣装を受け取った彼女は、しばしきょとんとしていたが、セツナの言葉の意味を理解した途端、顔を輝かせた。
「本当でございますか!?」
「ええ、本当ですよ」
「で、でも、あの、わたくし、その……」
「とにかく、着てください。寒いでしょう?」
セツナは、彼女が自分の膝の上で震えていたことを思い出しながらいった。あれは羞恥心と恐怖と寒さからくるものだったに違いない。
「それは……そうですが……でも……」
衣装を抱きしめるようにしたまま、顔を赤らめ、もじもじする少女を見やりながら、セツナは困惑した。ユノがなにを戸惑うことがあるのだろう。
「どうしたんです?」
「セツナ様に抱かれる覚悟をしていたのに、これでは、その……なんとも締りがないといいますか」
「いいじゃないですか。わたしがマルディアの味方をするといったのです」
「でも、どうしてですか?」
ユノが、小首を傾げる。
「でしたら、わたしを抱いてからでもいいじゃないですか」
「それじゃあ駄目ですよ」
セツナはきっぱりといった。それでは、なにもかも駄目だ。
「だめなんですか?」
「ええ。駄目です」
「どうして?」
「それだと、ユノ様を抱いたからマルディアの味方をすることになるからですよ。わたしは、わたしの意志で、マルディアの、ユノ様のお味方をすると決めたのです」
「……セツナ様」
ユノが目を潤ませながら、上目遣いにこちらを見上げてくる。衣服を着ていないこともあって肌寒そうなことこの上ないのだが、彼女はまるで気にしていないようだった。セツナは、彼女に早く服を着て欲しかったが、話の途中、催促するわけにもいかない。
「ユノ様がそこまでなさる覚悟と決意、よく伝わりました。それだけユノ様がマルディアのことを愛されている証拠でしょう。わたしが援護するには、それだけで十分です」
ユノのような少女がそこまでの覚悟をするというのは、並大抵のことではない。無論、彼女がただの少女ではないからこその決断に違いないのだが、いくら王女とはいえ、だれもができることではないだろう。自分自身を政略に使うなど、普通の神経ではない。そうまでしてでも守りたいものがあり、取り戻したいものがあるのだ。
王族としての教育が彼女にそういう行動を取らせたのかもしれない。
「セツナ様は、お優しいのですね」
「そうでもありませんよ」
セツナは、本心でいったつもりだった。だれにでも優しいわけではない。敵には容赦ないし、味方でも、自分と関わりのない人間には興味も持たない。そしてそれでいいと想っている。悪いわけがない、とさえ考えている。自分に関わりのない他人のことまで気を遣う必要がどこにあるのか、と。しかし、一旦関わりを持ってしまうと、どうしようもなく気になってしまうのが、この性格の困ったところだ。
「困っているひとを見ると、放っておけない性分なんですよ」
「それがきっと、セツナ様が皆様に慕われている理由、なんでしょうね」
「それはわかりませんが……」
セツナは、ユノが衣服を着始めたのを衣擦れの音だけで判断しながら、言葉を続けた。
「そうありたいとは想っていますよ」
無関係な人間に嫌われようと構わないが、身近にいるひとたちには好かれていたいとは想っている。そういうことからも、ユノを抱くという結論には至らないのだ。そんなことをすれば、皆に嫌われることがわかりきっている。
「セツナ様……」
「なんでしょう?」
「……わたしくも、セツナ様をお慕い申し上げても、よろしいでしょうか?」
気恥ずかしそうな笑顔を浮かべるユノに対して、セツナは言葉を持たなかった。