第千二百四話 王女の覚悟(三)
時計の針がときを刻む音だけが、静寂に満ちた室内に響いていた。
セツナに充てがわれた一室の調度品は高級なものばかりであり、眺めているだけでも飽きないような装飾が施されている代物ばかりといってよく、それだけに、長い沈黙もある程度は我慢できたし、苦にはならなかった。気まずい沈黙というものでもない。ユノは先程からずっとにこにこしていた。なにが嬉しいのか、なにが楽しいのか、セツナには窺い知ることはできないが、彼女がこの状況に不満を抱いていなさそうなことにはほっとしていた。
レムたちが室内を去り、セツナとユノのふたりきりになってから、十分ほど、経過している。その間、セツナとレムの間に交わされた言葉といえば、わずか数語しかない。ふたりきりになることを望んだのはユノであり、彼女がほかのだれにも聞かれたくない話があるからこそ希望した状況なのだ。セツナから話しかけるようなことはなく、故にユノが口を開かないかぎり、ふたりの間の沈黙が崩れることはない。
沈黙の間、セツナは室内を見回しているか、ユノの笑顔を見ているほかなく、それも次第に辛いものを帯びてくる。ユノの笑顔は可憐だ。王族というのは、どこの国であっても気品に満ちた顔立ちをしているものらしいということがよくわかる。歴史の重みというものだろうか。数百年に渡って連綿と受け継がれてきた王族の血が、現在を生きる王族の容姿を尊貴なものにしているのだろう。
そんなことを考えて時間を潰すのも馬鹿馬鹿しくなったのは、ふたりになって二十分が経過してからのことだ。セツナが話を切り出さなければ、彼女はなにも喋らないまま時間を過ごすつもりなのかもしれない。ふと、絶望的な想像が浮かんだ。だから、というわけではないが、セツナは口を開いて沈黙を破壊した。
「それで……本当のところはどうなのです?」
「本当のところ……です?」
「ええ。わたしに逢いに来られた、本当の理由です」
セツナは、ユノの大きな目を見つめた。ユノはその可憐な顔を曇らせた。
「わたくし、嘘をもうしてなどおりませぬ。セツナ伯様とお話したい、その一心で、恥も外聞も恐れず、セツナ伯様を尋ねたのでございます」
「……それは信じます。が、それだけではないでしょう?」
それだけならば、わざわざふたりきりになる理由がない。セツナと話をするだけならば、レムやラグナがいてもなんの問題もないはずだ。人払いを望んだのは、ほかのだれかがいては切り出せない話が彼女にあったからだ。それくらい、セツナにも想像ができる。だから、緊張が強くなっている。救援要請に訪れた王女様が、要請先の領伯に対して良からぬことを企んでいるとは思い難いとはいえ、油断はできない。セツナの対応次第では、マルディアとガンディア、両国の間に溝が生まれかねないのだ。
「……さすがは百戦錬磨のセツナ伯様。わたくしの稚拙な考えなど、お見通しのようで」
「王女殿下――」
「ユノと、お呼びくださいませ」
彼女は、セツナの言葉を封殺するようにいってきた。そして、こちらが驚きに目を見開くのを見て、微笑んでくる。どこか気恥ずかしそうな微笑み。並の男ならば一瞬で魅了されてしまうかもしれないようなほど蠱惑的だった。幸い、セツナの周囲には女性が多く、そういった表情に慣れていないわけではない。特にミリュウがセツナに向けてくる態度に近かった。もちろん、ミリュウと彼女とでは、同じような態度でも受ける印象がまったく異なるのだが。
ユノは、そんなセツナの内心を知ってか知らずか、椅子から立ち上がると、流麗な動作でセツナの隣の椅子に腰を下ろした。セツナが見惚れてしまうほどに華麗な挙措動作であり、さすがは一国の王女ともあろう人物だった。
「セツナ様……どうかお力をお貸しください」
隣の席に座った彼女は、セツナを見上げてきた。彼女は、セツナよりも随分背が低いのだ。どうしても見上げる形になる。彼女にとっては好都合かもしれない。どうしたところで、上目遣いになるのだから。
セツナは、ごく至近距離で見下ろすマルディアの王女の顔に心が震えるのを認めた。とてつもなく魅力的なのだ。柔らかそうな肌の白さ、くりくりとした大きな目、濡れたような唇、どれをとっても魅力に満ちていて、セツナは目のやり場に困った。彼女から目をそらせばいいのだろうが、あまりにもわかりやすく逸らすわけにもいかない。彼女の機嫌を損ねるようなことがあってはならないのだ。だからといってユノの胸元に視線を落とすのも失礼だったし、膝の上で組まれた手に目を向けても、それもまた可憐だということを思い知らされるだけだった。
「我がマルディアはいま、国家存亡の危機に曝されております。反乱軍はベノアガルドの騎士団を国内に招き入れ、マルディアの半分が制圧されてしまいました。このままではマルディアは反乱軍、いや、ベノアガルドのものとなるのは必定。なんとしてでも反乱軍と騎士団を打ち払い、マルディアを取り戻さねばなりませぬ」
ユノが訴えかけてきたそれは、よく知っていることだ。エインから聞き、レオンガンドからも知らされた。マルディアがガンディアに使節団を送ってきた最大の理由。このまま春を迎えれば、反乱軍と騎士団によってマルディアが蹂躙され尽くすのが目に見えている。
「お、王女殿下のお気持ちは痛いほどわかりますし、陛下も心を痛めておいでです。必ずや殿下のお力に――」
「ユノでございますわ、セツナ様」
「殿下――」
セツナが言葉を失ったのは、ユノの細くしなやかな手でセツナの手に触れていたからだ。彼女は、セツナに急接近している。セツナが距離感を見失いかけるほどの急接近に、息を呑む。芳しい花の匂いは、香水かなにかだろう。
「セツナ様の仰られることも、理解しているつもりです。レオンガンド陛下は、わたくしどもの訴えに耳を貸してくださいました。マルディアの窮状も理解してくださっておられる。ですが、陛下にはその場での救援のお約束をして頂けず、会議にかけられるとのこと」
「え、ええ。会議です。そのためにわたしは王都に帰ってきたのです」
「それはつまり、会議の結果次第では、マルディアの救援は見送られるということでございましょう?」
上目遣いに疑問符を上げてくる王女の蠱惑的な表情に、セツナはなんともいいようのない気持ちになった。熱っぽくセツナを見つめてくる王女の表情は、さっきまでよりも妙に近い。物理的な距離もそうだが、精神的な距離も、近く感じるのだ。
「そう……なります」
認めるしかない。会議にかけるとなれば、そうなるだろう。反対派が多数となれば、レオンガンドといえど、決議を覆すようなことはできない。たとえ、これまでレオンガンドの独断に近い決定で戦争が行われ、国政が動かされることが多かったといえ、そのレオンガンド自身の提案で開かれた大会議である以上、その決議には従うだろう。が。
「ですが、きっと、だいじょうぶですよ」
「だいじょうぶ……とは?」
「マルディアに援軍を派遣する方向で会議は進むはずです」
「本当ですか?」
「え、ええ……」
「ですが、万が一、マルディアへの援軍派遣が否決された場合、わたくしはどうしようもございませぬ」
ユノが強く訴えかけてくるのも、理解できないではなかった。彼女にとっては、自国の存亡がかかっているのだ。マルディアが現在頼れるのはガンディアをおいてほかになく、他の近隣国に救援を要請できるような情勢にはないという。ガンディアが援軍の派遣を断れば、マルディアの未来は闇に閉ざされること間違いない。反乱軍と騎士団を相手に徹底的に戦った後、滅び去るしかないのだ。それがわかっているから、マルディアは王女を外交使節としてガンディアに送ってきた。王女を送ることで、マルディアが今回の救援要請に本気だということを示している。王女を人質にしてもいいという覚悟が、マルディアにあるのだ。
そして、反乱軍と騎士団撃退の暁には、マルディアは、ガンディアに従属することをユノらは明言している。
ガンディアとしては、マルディアに援軍を派遣することに悩む必要さえないように、セツナには思えた。問題となるのは、反乱軍に力を貸している騎士団の存在だ。ベノアガルドの騎士団は強い。強いという言葉では生ぬるいほどに強力な軍集団であり、騎士団との戦闘を避けたいのならば、マルディアの救援要請を退けるという選択肢もありうる。
「それは……わかりますが」
「ですから、セツナ様にはマルディアの救援に賛成なさってくださると、約束してほしいのです」
「わたしがお約束したところで……」
「ご謙遜なさらないでくださいませ。セツナ様は、ガンディアにおいて双璧をなす領伯のおひとりで、ガンディアの英雄と称されるお方。セツナ様が救援に賛成なされれば、会議に参加される皆様方もこぞって賛成なされるはずでございます」
ユノはそういってきたが、セツナはその話には懐疑的だった。もちろん、わからないではない。セツナには実感が少ないものの、セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドという人物の置かれた立場というものについては客観的に理解している。ユノの言う通り、ガンディアの領伯のひとりであり、英雄と呼ばれるただ一人だ。ガンディアへの貢献度でいえば、現在ガンディアに存在するだれよりも飛び抜けているという評価もある。大軍団長くらいならば、セツナの意見に左右されたとしても、不思議ではない。が、大会議に参加するのは、大軍団長だけではない。大将軍、副将、左右将軍、もうひとりの領伯であるジゼルコートも参加するし、戦場をよく知らないであろう有力貴族たちも参加することになっている。セツナひとりの意見が大会議を動かせるものだろうか。
動かせるかもしれない。
勘違いではなく、そう認識を改める。セツナの意見によって大軍団長が動けば、右に倣えとばかりに貴族たちも動き、結果として大会議の決議そのものを動かしうるのではないか。そう考えかけて、セツナは頭を振った。
(なにを馬鹿な)
だいそれたことだ。
愚かで、図々しい。
「セツナ様、どうかマルディアに、わたくしにお力をお貸しください」
「ユノ様……!?」
セツナが唖然としたのは、ユノがセツナにしなだれかかってきたからだった。華奢な少女の体がのしかかってきたところでなんの問題もないのだが、相手の立場が立場だ、押しのけるわけにいかなければ、手で触れることさえできなかった。ユノのなすがままに任せるしかないのだ。そして、そうなれば、セツナは息を止めて彼女の行動を見守るしかない。
「わたくしの覚悟、どうか受け入れてくださいませ」
そういうと、彼女は立ち上がり、セツナが押し留めるよりも早く衣装を脱ぎ捨て、一糸まとわぬ姿になった。