第百十九話 自分
アスタルが墓石に視線を移した。
セツナもそちらを見やった。歴史を感じさせる墓に刻まれた文字は読めないものの、真新しい献花の数々は、墓の下に眠る人物の生前の行いが現れている。そこにウェインが眠っている。ウェイン・ベルセイン=テウロス。ログナーの青騎士として、セツナの前に立ちはだかった強敵。だが、だれもが死ねば、ただの肉と骨に成り果てる。そして、地に埋められ、影さえも失うのだ。
「エレニアとウェインは幼い頃からの付き合いで、いつかは結婚するだろうといわれているほどの仲だったのです。婚約こそしていませんでしたが、恋仲だったのは周知の事実で、わたしも陰ながら応援していたものです」
だから、エレニアはセツナに殺意を向けてきたのだ。彼女にとってセツナは、恋人を奪った憎むべき敵でしかない。憎まれて当然のことをしたのだ。そしてそれも納得済みのことだったはずなのだが。
酷く、胸が痛む。
すべてを覚悟し、誓ったのだとしても、自身の手で殺した人物の生前の話を聞くのは、セツナには苦痛だった。しかし、耐えなければならない。セツナの意思が、彼の生涯を終わらせたのだ。そうしなければガンディアは勝てなかった。いや、そういう言い訳はいらない。それはただの逃避だ。殺人を正当化するための魔法の言葉だ。国のため、だれかのため、命令――そういう言葉が、自分を真実から遠ざけるのだ。
(認めろよ……俺)
拳を握る。
「ご存知の通り、ウェインは先の戦いで死にました。エレニアはそれで戦いが嫌になり、軍を辞めたのでしょう。軍人としてはあるまじきことだとは思いますが、彼女の決断を止めることは、わたしにはできなかった。女を捨てたわたしとは違い、女であることがエレニアの強みでした。ウェインを支え続けられたのは、彼女が女として生きていたからでしょう」
セツナは、思い出していた。ウェインとの戦いの最中に見た光景。まるでウェインの記憶を覗き見たかのような映像の中で、エレニアという少女がいた。ウェイン少年は、彼女に相応しい男になりたくて、力を欲していた。彼は最後の最後まで諦めなかった。生きようとしていた。生き抜き、エレニアを守るために。
アスタルが、こちらを見て、静かに尋ねてきた。
「ウェインは最期まで騎士として立派でしたか?」
「ええ……俺の言葉では伝えきれないくらい立派で、勇敢でした」
本心だった。
セツナの記憶において、もっとも苦戦を強いられた相手だといっても過言ではない。無謀さ故に瀕死になってしまったランカイン戦とはわけが違う。あのころはなにも知らなかった。だが、ウェインとの戦いでは持ちうる力を出しきったはずだ。出しきり、なんとか勝てた。辛勝だったと思う。一歩間違えれば、地の下に眠っていたのはセツナだっただろう。
そうなったとき、セツナの墓前には、だれかがいてくれるのだろうか。
そう考えると、無性に寂しくなった。やはりここは異世界で、自分の居場所など、どこにもないのかもしれない。
「セツナ殿からそういっていただけるのなら、彼も本望でしょう。エレニアは納得しないでしょうが……」
「本望……」
「彼はログナーの騎士として戦い、散ったのです。力が及ばなかった、ただそれだけのこと。そこに憎しみや恨みを抱くのはお門違いでしょう。たしかに、ウェインの命を奪ったのはあなたで、ウェインはあなたを恨みながら死んだかもしれない。死の際、彼がなにを考えていたのかわからないのですから」
それはそうだ。ウェインは最後まで諦めなかったのだ。生きようとしていた。そこで殺されれば、抱くのは憎悪ではないのだろうか。満ち足りぬまま、未練を抱きながら死んでいくのだから。
しかし、アスタルのまなざしは、優しい。
「ですが、だからといってあなたを憎んでもどうなるのです。どうにもならない。たとえばここでわたしがあなたを殺しても、ウェインが蘇るわけではない。ほかの兵士たちも同じです。死んだものは死んだまま。事実は覆らない。時は巻き戻らない。生き残った我々にできることは、死んでいったものたちの死を無駄にしないこと」
それは、道理だ。
だれだって頭の中ではそれくらい理解しているだろう。しかし、心は、感情は、その道理に抗おうとする。納得すれば、死を認めてしまうことになるから。
「ログナーはガンディアに統治され、安定し始めています。ここでその安定を崩すのは、それこそ先の敗戦が無意味に帰してしまう。恨みを晴らすのはたやすい。壊すのは簡単。しかし、創るのは難しく、作り直すというのはもっと難しいことです」
「だから、忘れる……?」
「忘れはしません。彼がいたという事実も、彼が死んだという現実も、すべて受け入れ、その上で前に進まなければならない。それが生き残ったものの務めだと、わたしは考えています。たとえ裏切り者と誹られようと、売国奴と罵られようと」
「そんなことをいわれるんですか?」
セツナが驚いたのは、アスタル将軍といえばログナーの人望を一身に集めていると聞かされていたからだ。その話が多少誇張されているのだとしても、ガンディアの人事を見れば、彼女がログナーで圧倒的な人気があるのは事実だろう。その人気は誹謗中傷から守る盾になってくれるものだと思っていたのだが。
「アスタル=ラナディースをよく思わない人間もいる。それだけのことですよ」
アスタルは、笑っていった。
裏切り者、売国奴――きつい言葉だが、それも仕方のない事だ。彼女は、まだ兵力的に余裕がある段階で敗北を認めた。敗戦を決定づけたのだ。そして戦後、彼女は右眼将軍に大抜擢された。敗戦の将が、ガンディア軍のトップ(上に大将軍がいるにはいるが)に立ったのだ。なにかしらの取引があったのだと噂をする声があっても、おかしくはない。
「セツナ殿、どうか心を強く持ってください」
アスタルが発したのは、セツナには予想のできない言葉だった。
「え……」
「あなたがログナーを降伏させ、この国の未来を開いたのです。わたしはあのとき、わたしの目の前で繰り広げられたあなたの戦いに目を奪われた」
アスタルの目が、きらめいている。
「わたしの部下がつぎつぎと死んでいく中で、セツナ殿の戦いは修羅のように苛烈で、華麗だった。だからわたしは敗戦を決意したのです」
セツナの脳裏にあのときの情景が浮かぶ。戦争を終わらせる最適解は敵の総大将を落とすことだと考えたセツナが取った行動は、敵本陣への特攻だった。そして、アスタル将軍の目の前で、殺到してくるログナー兵と戦ったのだ。黒き矛の力の見せ所だった。殺して、殺して、殺し尽くした。
あのときのセツナは、アスタルが敗北を認めるまで殺し続けるつもりだった。二百三十三名の兵士が、アスタルが判断するまでに死んだ。戦争を終結させるための犠牲としては多いのか、それとも少ないのか。
「どうしてそんな話を……?」
「失礼ですが、いまのあなたはとても弱っているように見えます。あなたがなにを想い、なにを望み、なにに苦しみ、悩んでいるのかはわかりませんが、これだけは覚えていて欲しいのです。あなたはこの国にとっての希望です。あなたがいたから、ログナーは敗北し、ガンディアは勝利したのです。だれもが黒き矛に、あなたに期待を寄せ、光明を見ているのです」
アスタルの言葉が衝撃となってセツナの頭を叩く。胸中を見透かされた上、心配までされたことが衝撃なのではない。まさか、元敵軍の将軍にそこまでいわれるとは思いもよらなかったのだ。期待、希望、光明――セツナにはあまりにまぶしい言葉の数々が、耳朶にこそばゆく、照れくさくもある。しかし、心の奥底で渇望していたのはこういうことかもしれないとも思うのだ。
「俺が……希望」
馬鹿げているかもしれないが、そういう言葉こそが必要だったのだろう。心が浮揚していくのがわかる。自分は単純で、わかりやすい人間なのかもしれない、などと自嘲気味に思ったのだが、それでもいいとも考えなおした。
「ですから、心配しないでください。不安にならないでください。ガンディアは、あなたを必要としています」
自信を持て、と言外にいわれている気がして、セツナははにかんだ。すると、アスタルが微笑を浮かべた。一見すると厳しいだけの女将軍は、実は思いやりに溢れた人物だということがわかって、ログナーにおける彼女の人望の源泉に触れた気がした。部下に対しては厳しい、という人物とは到底考えられない。
セツナは、つい心境を吐露した。
「俺、不安だったんです。自分のことを自分でうまく認識できていなくて、本当に役に立っているのかもわからなかった。この国にとって必要なのかどうかさえ……」
《白き盾》との契約程度で心が揺れたのが、それだ。彼らは傭兵団だ。たとえレオンガンドが彼らを気に入ろうと、契約で縛り切ることはできない。《蒼き風》のように望んでガンディアに居続けてくれるならともかく。《白き盾》は、そうではないだろう。クオン自身、ガンディアに留まるようには思えないのだ。
冷静になれば、そういう結論も見いだせる。
しかし、心が揺れ動き、正常な判断ができなくなると、すべての考えが悪い方向に落ちていく。負の螺旋だ。その堂々巡りを終わらせるには、やはり強烈な一撃がいるのだ。たとえば、アスタル将軍のことばのような。
「でも、そんなことに囚われていちゃいけないんですよね。俺は、多くのひとを殺して、その屍を踏み越えてここまで来たんですよね。立ち位置とか、立場とか、居場所とか、そんなことを気にして立ち止まっていては、殺していったひとたちに合わせる顔なんてないんですよね」
「ときには、立ち止まってもいいと思います。振り返って、深呼吸する時間も大事でしょう。しかし、そればかりでは前に進むこともままなりませんから」
「はい。ありがとうございます」
セツナは、アスタルの言葉を胸に刻んだ。一歩でも前に進むためには、過去に囚われていてはいけないのだ。クオンのことを考える必要なんてないのだ。彼は彼で、自分は自分だ。相手が無敵の軍団を持っていようと、セツナにはセツナにしかできないことがあるかもしれない。なにより、そう期待されているに違いないと、いまなら思えるのだ。それはアスタルのおかげだった。ここで将軍と出会わなければ、セツナの心は迷走を続けていたかもしれない。
「感謝するのはこちらのほうです。セツナ殿からウェインのことを聞けてよかった。ありがとう」
アスタルの感謝の言葉に込められた様々な想いに、セツナは目を伏せた。怒りや悲しみ、憎しみもすべて飲み下した人間の言葉はとても力強く、胸に響くのだ。いかに自分が矮小で、狭量な存在なのかを思い知らされる一方、こういう人間にこそなりたいとも思えた。それは成長といえるのだろうか。
(ウェイン。俺はあなたを殺し、ここにいる。だから見ていて欲しい。俺がくだらないことで思い悩み、歩みを止めないように)
セツナは、ウェインが眠る墓石を前に、強く誓った。