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第千百九十六話 誓い


 雪が降り積もっていた。

 真っ白に染まった戦神の座は、この冬一番の寒さを象徴するようであり、また、冬の日の美しさを見せつけるかのように陽光を反射して、まばゆく輝いている。雪はとっくに止んでいて、頭上には晴れ渡った空が広がっている。抜けるような蒼穹。雲ひとつ見当たらず、頂点へ至ろうという太陽の輝きばかりが滲んだ空を染めている。

 風はないのだが、昨夜から降りしきった雪のせいなのか、気温が極端に落ち込んでいた。これで風が強かったらとんでもないことになっていたかもしれない。

 リョハンの冬は厳しい。

 特に空中都は、そこに住むだけで修行を積んでいるといっても過言ではないくらいに厳しい季節だった。まず、リョフ山という峻険の頂にある時点で、人間が住むには厳しいのだ。そこに人の住処を作り上げることができたのは奇跡なのではないかと思うほどであり、何百年もの昔、リョフ山に都を築き上げた人々には驚嘆するほかない。

 人間という生き物は、ときに想像すらできないことを成し遂げるのだから、面白い。

「年は越せるかしらね」

 不意に発せられた言葉は、他愛もない世間話のようなものだったのだろうが。

 彼は、戦神の座と名付けられた中庭に向けていた視線を彼女に戻し、睨んだ。

「そんなこと、いわないでよ」

 彼の視線の先には、この戦宮の主であり、またリョハンに生きとし生けるものの精神的支柱である戦女神が、静かに座っていた。戦女神の霊域という仰々しい呼称で知られるこの部屋は、彼女の部屋であり、現在、彼女と彼以外、ほかにはだれもいなかった。戦宮そのものには、戦女神に仕える四大天侍や官吏たち、護峰侍団の侍たちが駐屯しているのだが、通常、戦女神の部屋に入ってくるようなことはない。戦女神の容体を見守るのは、戦女神の天使たる四大天侍の役割であり、ほかの連中に戦女神を任せるのは、四大天侍全員が任務などで戦宮を離れなければならないときくらいだった。それくらい、四大天侍は戦女神のことを大切に想っているし、リョハンの守護任務よりも重要なことだと認識している。そして、それは四大天侍だけの考えではなく、リョハン全体の共通認識といってもよかった。

 戦女神ファリア=バルディッシュは、このリョハンにおいて必要不可欠な存在であり、リョハンの人々の精神的支柱であり、自由の象徴であり、光であった。

 その光が陰り始めてからというもの、リョハンを漂う空気そのものが重くなり、人々は、戦女神の体調の回復だけを祈るように日々を過ごしている。

「越せるよ。きっと」

 マリクは、大ファリアの寝台のすぐ側に座って、いった。風通しの良すぎる戦宮は、冬の冷気をただひたすら取り込んでいて、マリクもその寒さに肩を竦めた。そして、大ファリアが寒さに苦しんでいないかが心配になったものの、何重にも厚着し、その上から分厚い布団を被る彼女を見る限り、その点では大丈夫そうではあった。

 もっとも、体調は決していいわけではない。戦女神という立場でなければ、リョハンの中でも温暖な山間市にでも居所を移し、静養するべきなのだが、立場がそれを許さない。いや、護山会議も四大天侍も、大ファリアの居所が山間市に移すことには反対しておらず、むしろ大ファリアにそう進言したのだが、大ファリア自身が聞き入れなかった。

 戦女神たるもの、命尽きるまでリョハンの守護者たるべし――ファリア=バルディッシュの考えは頑なで、マリクたちの気遣いは通用しなかったのだ。

「そう? マリクちゃんがいってくれるなら、間違いないわね」

 大ファリアが小さく微笑んだ。ここのところ、最低限のものしか食べておらず、体中の肉という肉が落ち始めている。なにもしなくても痩せていくなんて、そんなこともあるのね、などと彼女は笑うのだが、マリクたちには笑えなかった。それだけ死に近づいている証拠なのだ。

「うん。間違いないよ」

「うふふ。ありがとう」

「お礼なんていわれることじゃないよ」

 彼女に気を使って嘘をついたわけではないのだ。本当のことだ。マリクの見る限り、ファリア=バルディッシュの体調がこのまま推移するならば、年明けまでは持つだろう。それはまず間違いない。五百二年の終わりと、五百三年の始まりを見ることはできるだろう。しかし、それ以降のことはわからない。年が明けてからどれくらい生きられるものなのか、見当もつかない。

「ううん」

 だからだろう。マリクは、毛布の上に置かれた大ファリアの手に自分の手を重ねた。細く骨ばったしわだらけの手は、戦女神として戦場に出ていたころとはまったく異なる印象を抱かざるをえない。しかし、それがマリクの彼女への愛情を深めることはあっても、薄めるようなことはない。

「お礼をいうのは、ぼくのほうだよ」

「どうして?」

「あなたのおかげで、ぼくはぼくになれたんだもの。みんなと出逢い、触れ合い、色々なことを感じた。本当に、色々なことをさ。たぶん、あのままだったら感じられなかったようなことをたくさん、感じたんだ。知ることができたんだよ。人間がどういう生き物で、なにを考え、どうして生きていけるのか」

 人間マリク=マジクとして歩いてきたこれまでの人生。様々なことがあった。それこそ、あのままではきっとなかったであろう出会いがあった。彼女と肉声を交わすことができたのは至上の喜びであったし、クオール=イーゼンが声をかけてくれたことは忘れられないだろう。シヴィル=ソードウィン、カート=タリスマ、そしてニュウ=ディー。四大天侍の同僚たちとの出逢い、触れ合いも、忘れることはない。マリク=マジクという人間のすべてがそこにあるといっても、過言ではなかった。

「少しはわかった気になれたんだ。それもこれも、あなたのおかげだ」

 少し。

 本当に少しだけかもしれない。それでも、なにもわからないままよりは、ずっといい。でなければ、マリクは永遠に彼女のことを知ることができなかったのだ。

「ファリア」

「それは違うわ」

 大ファリアの右手が、マリクの手の上に重なる。冷えた左手と、暖かな右手に包まれる。

「マリクちゃんがマリクちゃんでいるのは、あなたがそれを望んだからでしょう? わたしはなにもしていないわ。ただ、呼びかけただけ。ただそれだけのことじゃない」

「それだけのことができる人間が、あなた以外にはいなかった」

 マリクは、大ファリアの目を見つめながら告げた。緑色の虹彩を湛えた目の美しさは、昔からなんら変わらない。純粋さを失っていないのだ。

 彼女が、彼を見出した五十年前から、なにひとつ。

「それは、特別なことなんだよ」

「そうなの?」

「うん」

「うふふ……マリクちゃんがそういうのなら、そういうことにしておきましょう」

「信じてない?」

「信じてるわよ」

 彼女の言葉の優しさがマリクには嬉しくてたまらなかった。だからだろう。マリクは、大ファリアに抱きつきたい衝動に駆られたが、我慢した。彼女が健康そのものの状態であればきっと抱きつき、彼女を困らせたに違いない。しかし、いま、彼女の体調は最悪に近い。こんな状態で無理をさせるようなことはできるわけもなかった。

 そんなマリクの心情を知ってか知らずか、大ファリアが口を開いた。

「ねえ、マリクちゃん。ひとつだけ、お願いがあるの」

「なあに? ぼくにできることなら、なんでもいってよ」

「ありがとね」

 大ファリアは感謝の言葉を忘れないひとだった。戦女神という立場を感じさせないひとでもあった。だからだれもが彼女を尊び、敬い、慕い、愛するのかもしれない。ふと、そんなことを思う。

「お願いというのはね、わたしがいなくなったあとのリョハンのことなのよ」

「うん……」

「わたしは死ぬわ。もうじきね。それは悲しいことではないの。だれにでも訪れることだもの。生まれたものは、死ななければならないわ。それが世界との約束。辛くもないわ。皆には悪いけどね。ただひとつ心残りがあるとすればミリアのことだけど……きっとなんとかなるから、心配してはいないの。信じているから」

 なにを、とは聞けなかった。

 きっと、大ファリアも漠然としたことしか考えてはいないのだ。なにを信じているのかなどと聞かれたところで、答えようがなかったのではないか。娘を信じているのか、孫娘を信じているのか、それとも娘の肉体を乗っ取った師を信じているのか。あるいは、すべてを信じているのか。いずれにしても、マリクには納得のいかない話だったが、だからといって反論しようとも思わなかった。

 彼女は死ぬ。

 その最後の願いを聞き届ける義務が、彼にはある。

「わたしが死んだら、リョハンはきっと荒れるでしょうね。戦女神という支柱がなくなったからといって、あっという間に崩れ去るなんてことはないし、あのひとと護山会議が上手く纏めてくれると信じているから、その点では心配していないの」

「なにが心配?」

「それはね。戦女神の死を知ったヴァシュタリアが、リョハンを取り込もうとしてくるに違いないということよ」

「ヴァシュタリア……」

「ヴァシュタリア共同体は、貪欲よ。いずれ大陸全土を手中に収めんとしている。それが彼らの神の教えなのだから、当然、そうするでしょう。この数百年、勢力圏の完全掌握に力を注いでいたけれど、リョハンが手薄となれば手に入れようとするのは必定よ」

「ヴァシュタリアがリョハンとの約定を破る、ということ?」

「ヴァシュタリアは確かにリョハンの独立自治を認めたわ。けれどもそれは、リョハンを落とせないから仕方なくそうしただけにすぎないの。リョハンと戦い続けても、無駄に消耗するだけだと理解したから、ね」

 リョハンの独立を巡るヴァシュタリアとの闘争は、マリクも記憶している。リョハンがヴァシュタリア共同体から独立しようとしたのは、アズマリア=アルテマックスの思惑によるところが大きい。アズマリアが研究し、発明した武装召喚術を大陸全土に広めるためには、リョハンがヴァシュタリアの支配下のままでは困難だったからだ。ヴァシュタリア支配下のままでは、武装召喚術そのものがヴァシュタリアに独占されかねない。それは、アズマリアの望むところではなかったらしい。アズマリアがなにを望み、なんのために世界中に武装召喚術を拡散し、数多の武装召喚師が誕生することを望んでいたのかは不明だが、少なくとも三大勢力の力の均衡が崩れるようなことは望んでおらず、そのためにもリョハンを独立させなければならないと考え、弟子たちに吹き込んだようだった。

 ファリア=バルディッシュ(当時はまだ結婚していなかったが)をはじめとするアズマリアの高弟たちは、師の教えに従い、リョハンの独立を掲げ、ヴァシュタリアと対峙した。ヴァシュタリアは当然、激怒し、リョハンを武力制圧するべく戦力を派遣した。その戦力とリョハンが誇る武装召喚師たちの戦闘が、リョハンの独立戦争であり、終始戦力差において圧倒していたヴァシュタリア軍に対し、リョハンの武装召喚師たちはその質において大きく上回っていた。戦いは長きに渡り続いたが、ヴァシュタリア軍は、勝利の可能性を見出すこともできず、リョハンの独立を認めるという結果に終わったのだ。それこそ、大ファリアが戦女神と謳われるようになった戦いでもあり、また、リョハンの人々が武装召喚術の凄まじさを理解することになったきっかけといってもいい。

 それから数十年、リョハンはヴァシュタリア共同体の勢力圏において唯一、ヴァシュタリア公認の自治都市として存在し続けている。

「でも、戦女神がいなくなり、リョハンの結束が失われれば、どうなるか。ヴァシュタリアは、今度こそリョハンを支配下に組み込む好機と見るでしょうね。内部工作も行ってくるでしょう。さきのラディアン=オールドスマイルのように」

「……それで、ぼくにどうしろっていうのさ。ぼくには、戦女神の真似事なんてできないよ」

「ファリアちゃんにもいったけど、戦女神はもう必要ないわ」

 マリクとしては、納得のいかないことだった。戦女神は、リョハンの柱だ。その事実は、長年リョハンを見守り続けてきた彼だから実感として理解できることだったし、リョハンに生きる多くの人々も認識している事実だった。戦女神ファリア=バルディッシュがいるからこそ、ひとつに纏まっていると言い切ってもいい。それは、リョハンを実質的に運営している護山会議も認めている。だからこそ、戦女神の後継者を作ろうと必死だったのだし、いかにして小ファリアをリョハンに帰順させるべきかと頭を悩ませていたのだ。 

 つまりマリクは、護山会議の手助けをした、ということでもある。

 無論、小ファリアをリョハンに連れ帰ってきたのは、彼が敬愛してやまない大ファリアが最期に孫娘の顔を見たいと願っていたからであり、彼女が戦女神後継者だったことは関係がない。たとえ小ファリアが戦女神の後継者でなかったとしても、大ファリアに会わせようとしただろう。結果的に、戦女神の後継者としての彼女を連れ帰ってきたことになるのだが、それは、大ファリアと彼女の夫であり護山会議評議員アレクセイ=バルディッシュの考えによって否定された。 

 戦女神の後継者は不要だと、彼女はいうのだ。彼女も、彼女の夫も、それがこのリョハンにとって最上の選択だと判断したのだ。マリクには、ふたりの判断と小ファリアの決断を支持するほかなかった。マリクには、本当のところ、リョハンの事情などよくわからない。多くの人々が戦女神なしではいきていけないといっているからそう考えているだけであって、マリクよりも深く物事を考えている大ファリアたちが導き出した答えについて、反対意見を持つことなどありえない。

 そもそも、マリクは大ファリアの考えには一も二もなく賛成するつもりだったのだ。それこそがマリクがここにいる理由といってもいい。

「リョハンは人間によって統治運営されるべきなのよ。だから、わたしの後継者は不要。マリクちゃん、あなたにお願いするのは、そういうことじゃないのよ。リョハンが安定するまで、リョハンのひとびとが戦女神の不在を受け入れ、戦女神が不要となる世がくるまで、見守ってほしいのよ。いくらヴァシュタリアが攻め寄せてきたところで、跳ね除けられるくらいになるまで」

「随分気の長い話だね」

 マリクは皮肉ではなく、素直な意見をいったつもりだった。リョハンは、この数十年、戦女神という偉大なる存在によって支えられてきた。数十年だ。リョハンの住民のほとんど全員が戦女神を信仰しているといっても過言ではなかった。戦女神なしでは生きてはいられないと考えているのは、なにも大人ばかりではない。老若男女、ありとあらゆる年代、性別の人々が、戦女神あってのリョハンだと考えている。護山会議がリョハンを統治する上で戦女神の名と威光を利用するのが手っ取り早いと判断した結果だが、戦女神たるファリア=バルディッシュ自身が利用されることを由とした結果でもある。

 そんな状況下で突如として戦女神が消えてなくなれば、リョハンはどうなるものか。

 混乱が起きることは間違いない。その混乱のほどによっては、マリクの手では負えなくなるだろうし、あっという間に瓦解してしまうことだってあるかもしれない。無論、護山会議や護峰侍団がそうはならないように動いているのだろうが、現状、どうなるものなのか、想像もつかない。このリョハンの天地を支えていた柱が一瞬にして消えてなくなるのだ。未曾有の混乱が起こることは、火を見るより明らかだ。

 そんな混乱をくぐり抜けた先に、ようやく、リョハンは戦女神という偽りの神の支配を乗り越え、人間の手に取り戻されるということだ。

「そうね。そして、勝手で、我儘な話よね」

「……でも、わかったよ。あなたのいうことだ。聞かないわけにはいかないよね」

「マリクちゃん……嫌なら、いいのよ?」

「嫌だなんて、そんなことあるわけないだろ」

 マリクは、彼女に表情を見られたくなかったから、視線を逸らした。衝立の向こう、風が吹いている。中庭に積もった雪が舞い上がっているかもしれない。ふと、そんなことを考えてしまったのも、余計なことを想いたくなかったからだ。彼女を失うまでの時間が極めて短いという事実から、意識をそらしたかったからだ。だが、直視しなければならない。

 でなければ、彼女の願いを叶えるということさえ、あやふやなものになってしまう。

「あなたが与えてくれたこの名がある限り、ぼくはリョハンの守護者となろう」

 マリクは、ファリア=バルディッシュに向き直ると、彼女の痩せ細った手を両手で包み込んだ。

 誓いは、守らなければならない。

 何年、何十年、何百年かかろうとも、守り続けなければならないのだ。



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