第百十八話 衝動
焦燥に駆り立てられるまま、セツナはマイラムの市街を走っていた。宮殿を抜け出し、あてもなく迷走する、目的地などあろうはずもない。ただただ、駆け抜ける。
体力的な心配はない。ガンディオンから数日に渡る道程は、日々の訓練に疲れ果てた体を休めるには十分だった。だからといって、出立前に師ルクスから言い渡された日課を欠かすこともなかったが、日課はセツナがだらけ過ぎないようにという配慮からのもので、肉体を酷使するものではなかった。翌朝には回復する程度の疲労に悩まされることはない。
街を走りながら、セツナは、不安や焦り、自分への失望を感じていた。全部自分が悪い。そんなわかりきったことが、頭の中をぐるぐると回る。自分の心の弱さのせいで、ファリアと口論になってしまった。怒っているだろうか。傷つけてしまったかもしれない。いや、くだらない男だと馬鹿にしているかもしれない。嫌われてしまったとしたら、どうしよう。
堂々巡りに繰り返すのはそういったものばかりではない。クオンへのわだかまりも一向に消えず、心の中で螺旋を描いている。解決策など見当たるはずもない。ファリアとの口喧嘩という新たな問題が出てきて、セツナの小さな頭を混乱させていく。
街行くひとびとの視線が痛い。そういえば、服を着替えていなかった。レオンガンドの交渉に従事したときと同じく、王立親衛隊の正装を身につけている。きらびやかな衣装だった。とても自分には似合わないと思うのだが、ファリアの評価は低くはなかった。《獅子の尾》の隊章こそないものの(どういう意匠にするのかもめているらしい)、ガンディア王立親衛隊の格好をしている子供など、セツナ・ゼノン=カミヤ以外には考えられないはずだ。マイラムの人々のうち、どれだけのひとがその事実について知っているのかはわからないものの、ログナーの軍人を数多に殺戮した黒き矛の悪名は、マイラム市民の大半が知っていてもおかしくはない。敵意の目を向けてくるのは、そういう情報からセツナを断定したひとたちだろう。
とはいっても、黒き矛を手にしていない限り、そういった敵意や悪意に対する感受性は薄くなった。黒き矛が異常ともいえる。あの漆黒の柄を握った瞬間、セツナの感覚は何倍にも何十倍にも肥大し、先鋭化するのだ。まるで戦場が自分の支配下にあるかのような万能感に満たされ、圧倒的な力を振るう快感に打ち震える。恐ろしい力だ。まるで自分そのものが強大化したような錯覚に陥るし、その力に魅了されたら最後、セツナはセツナではいられなくなるのだろう。
だからこそ、未熟な自分を鍛えあげなければならない。矛の力を制御し、真の意味で黒き矛の主とならなければならないのだ。
(なのに、なにやってんだ俺……!)
セツナは、自分の心の弱さに泣きたくなった。それもこれもクオンのせいだ、などとはいえまい。彼が悪いわけではない。彼はなにも悪いことをしていない。昔からだ。彼は根っからの善人で、お人好しで、おせっかい焼きで、だからこそ眩しくて、近くにいるだけで火傷しそうになっていた。火傷を負うのはセツナの心だ。セツナ自身の卑屈さからくる心の暗さが、彼のまばゆさに焼かれてしまうのだ。
いつだって彼は正しく、彼は清らかで、彼は光だった。
だから、セツナは敗北感に打ちのめされ続けなければならなかった。セツナは、彼の庇護下で、学生生活という青春を謳歌していたからだ。いや、謳歌というほどのものでもなかったが。
(ここは……)
セツナは、周りの風景がさっきまでと大きく違ってきていることに気づき、足を止めた。市街地から遠くはなれているのはなんとなくわかる。喧騒もなく、人通りもない。無論、活気などあるはずもなく、寂寥とした静けさが辺りを包んでいる。日は既に傾きかけており、この場所の寂しさを助長するかのように影を伸ばしている。
道は舗装されているものの、周りに人家はあまり見当たらない。町外れだろうか。
そんなことを考えならが歩くのを再開する。
ここがどこかはわからなかったが、とにかく前に進んでみることにした。走っている間に考え込んだおかげか、精神状態は安定を取り戻しつつある。しかし、いますぐ宮殿に戻るという選択肢はなかった。今帰っても、また口論してしまいそうなのだ。頭は冷えてきたとはいえ、わだかまりは残っているし、なにも整理できていない。
やがて視界に飛び込んできた光景に、セツナは、声を失った。
(ここは……)
紅い日に照らされた敷地内は、切りだされた石が整然と並べられているのが見える。石の大きさや形は様々だ。大きい物は像のようであり、小さなものは半ばまで地面に埋められている。集合墓地なのだろうということは想像がつく。だからこそ、一目見て言葉も出なかった。周辺が静謐に包まれている理由もわかった。霊前で騒ぐのは、どこの世界でも不謹慎なのかもしれない。
セツナは、まるでなにかに誘われるかのように墓地に足を踏み入れていた。集合墓地はだれでも入れるようになっているのか、セツナを呼び止める声はなかった。あったとしても、素通りできたかもしれない。この街はガンディアの支配下で、セツナはいま、王立親衛隊の服装を身に纏っている。
人気はない――と思ったが、大きな墓標の前にひとの姿があった。ひとりは喪服で、ひとりはガンディア軍の軍服を着ている。将校だというのは、遠目にもわかった。ガンディアの軍服は、軍における位階が高くなるほど派手になっていくのだ。しかし、王立親衛隊は華々しい派手さにあるのに対し、軍の制服というのはどれだけ階級を上り詰めても質実さが損なわれない絶妙なものだった。
空は、赤く燃えている。たなびく雲が炎を彩る煙のようで、夏の熱気を帯びた風がセツナの頬を撫でる。静寂と、沈黙と。物音は遠くから響いてきて、耳朶をかすめて流れていく。
死者の霊を呼び起こさないよう、慎重な足取りで歩いて行く。死後の世界や霊魂の存在を信じているわけではない。信仰する宗教もなかった。神に縋って祈っても、困窮する日々が変わることなどなかった。だから神はいないのだろうと考えている。かといって、すべてを否定するつもりもなかったが。
死者の魂は、霊となるかもしれない。
墓前で祈りを捧げる喪服の女性と、その背後で女性を見守る軍服の女。近づくうちに、軍服の女のことがわかった。アスタル=ラナディース。旧ログナー軍においては飛翔将軍の異名で知られた歴戦の猛将であり、ログナーがガンディアに吸収された現在、ガンディアのログナー方面軍を統括する右眼将軍として名を馳せている。
旧ログナー領を掌握するには、彼女の人望を利用するのが最適という判断なのだろう。アスタル=ラナディースのログナーでの人望は凄まじいもので、前王権に対して起こした反乱による混乱は、彼女の名の下に急速に収まったという。ログナーの混乱が長引いていれば、ガンディアはもっと簡単にログナーを占拠できたかもしれないといわれ、また、ザルワーンの介入によって混迷を極めたかもしれなかった。
セツナは、彼女の武名に泥を塗った数少ない人間だと賞賛されたこともあった。
アスタルが、こちらに気づいた。
「これは……王宮召喚師殿」
女将軍の一言に、喪服の女性が反応したが、彼女はこちらを見ようともしなかった。死者を悼むほうが大事なのだろう。それはセツナにだって理解できる。
「こんなところになにか用事ですか?」
女将軍の秀麗な容貌が、怪訝に曇る。セツナよりも上背で、たくましく、黒き矛を呼ばずに戦えば簡単に打ちのめされるだろうことは想像に難くない。傷ひとつ付けられないだろう。そして彼女は失望するのだ。こんな奴に負けたのか、と。・
「道に迷ってしまって……」
「そうだったのですか」
正直に話すと、アスタルは微笑した。
「見ての通り、ここは集合墓地です。マイラムに生まれたものが死ねば、貴賎の隔て無くここで眠ることになります」
「貴賎の隔て無く……」
「ええ。王家の方々も、この墓地に眠っています。わたしも、この地の下に葬られるでしょう」
そおれにはセツナも驚いた。王族の墓が一般市民と同じ墓地にあるとは思いもしなかったのだ。周りを見渡すと、奥の方に大きな墓標があるのがわかる。王族の墓だろうか。墓石には差異があるものの、それ以外の設備等はほとんど変わらないように見えた。
「ログナー王家の方々が、マイラム市民にとっても親しみ深い理由のひとつですね。ログナー家はいまやガンディアの貴族に組み入れられましたが……」
そのおかげでマイラムは落ち着いているのだ、と彼女はいった。マイラム市民にとって親しみ深く、敬愛してやまない王家の人々が、ガンディアによって処刑されていたら大変なことになったかもしれない――暗にそういっているのだろう。王家ではなくなったが、家は残り、血は続くのだ。いつか、マイラムに帰ってくることもあるかもしれない。そういう思いが、マイラムの人々の心を慰めたのかどうか。
喪服の女性が立ち上がった。挙措動作の美しい女性だった。毅然とした態度は、ただの一般人ではないことを知らせてくる。
「将軍、わたしはこれで」
「ああ。席は空いているんだ。いつでも戻ってきなさい」
アスタルは告げたが、彼女は微笑みさえ返さなかった。そして、女がこちらを向く。
(え……?)
女の目に一瞬、殺意の影が過ったような気がして、セツナは身を竦めた。しかし、背筋が凍るようなまなざしはつぎの瞬間には消えていて、気のせいだったのかと思うほどだった。女は、すでにセツナの横を通りすぎている。
「申し訳ない。わたしの部下が無礼なことを」
それは女性が挨拶もしなかったことを指しているのだろうが、
「いえ……」
セツナが返答に困ったのは、自分の立場がよくわかっていないからだ。王宮召喚師、王立親衛隊、《獅子の尾》隊長という肩書は、ガンディアにおいてどのような位置づけなのか。王宮召喚師は、騎士に匹敵する称号だと聞いた覚えはあるが。王立親衛隊といえば、王直属の部隊であり、精鋭中の精鋭といってもいい。かといって、軍に対する指揮権があるわけではない。セツナの支配下にあるのは《獅子の尾》隊の隊員だけであり、そういう意味ではファリアもルウファもセツナのいうことを聞かなければならないのだが。
(あのふたりを支配できるとは思えないけど)
胸中苦笑しながらも、セツナは、女性のことが気になった。一瞬、怖気を覚えるほどの視線を感じた。気のせいではないと言い切れるのは、冷や汗が背を伝っているからだ。女を振り返る。喪服の女性は、もはやこちらを見てもいない。まっすぐ、墓地を後にしようとしている。
「部下……?」
「厳密にいえば元部下ですが。彼女エレニア=ディフォンは、ログナーの騎士でした。戦後、わけあって軍を辞し、家に籠もっていると聞きます。エレニアは優秀な騎士で、指揮官としての才能も稀有なものを持っていました。ですので、こうして暇さえあれば勧誘に出向くのですが、振られてばかりです」
セツナは、アスタルの説明に、はっとなった。エレニア=ディフォン。どこかで聞いた名前だった。どこで聞いたのかは思い出せないのだが、強く引っかかりを覚える。とても大事なことだと、無意識が告げている。
「彼女の気持ちも、わからなくはないのですよ。彼女は、先の戦いで大切な人を失っていますから」
「そうだったんですか……」
セツナは、相槌を打つしかなかった。先の戦争でのログナー側の死者といえば、大半がセツナの手によるものだ。何百人。数えきれない敵兵を殺した。戦場に立つ以上、敵がだれであれ、殺さなければならない。手負いの敵は、いずれ強敵となって立ちはだかる可能性がある。ウェインとの戦いで学んだことだ。容赦はしないと、覚悟を決めた。
だから、セツナに後悔はなかった。この手が血にまみれ、元の世界に帰る場所がないのだとしても、もう決めたことだ。敵は殺し、味方を生かす。そのための力だ。そのための黒き矛なのだ。もう躊躇はしないと誓った。
「そう、王宮召喚師殿が倒したというウェイン・ベルセイン=テウロス」
「……!」
アスタルの目が、セツナを見据えている。しかしそこに敵意はなく、憎悪もない。強い意志の光を湛える眼は、セツナの心を見ようとしているようにも思えた。
「彼が、ここに眠っているのです」