第千百八十八話 北の地で
マルディア。
ガンディア領の北に位置するアバードのさらに北に隣接する国であり、東にジュワイン、南にシルビナ、そして北西にはベノアガルドが隣り合う国として知られている。小国家群における北国のひとつであり、小国家群中央付近に位置するガンディアとは交渉を持つこともない国だった。そんな国がガンディアに使者を寄越してきたのは、もちろん、ガンディアがその国土を圧倒的な速度で拡大し続けてきたことの影響にほかならないだろう。
しかし、マルディアの王女みずからが使者として派遣されてくるというのは、どういうことなのか。マルディアの問題が関係しているのは間違いなさそうだが、想像もつかない。
ガンディアは、ベノアガルドの諜者がガンディアに忍び込んでいた事件以来、小国家群北方の情報収集も積極的に行っていた。ナーレスが構築した情報網を駆使し、ベノアガルドの国内情勢さえも把握している。マルディアは、アバードとベノアガルドに挟まるような位置にある国だ。当然、ナーレスの情報網は、マルディアの国内情勢についても詳しい。それら情報によれば、マルディアがなにがしかの問題を抱えているのは明白だった。
マルディアが王女を寄越してきたのは、その問題を解決するためなのは間違いなさそうではあるが。
レオンガンドは、謁見の間で、使者の到着を待ちながら、ひとりそんなことを考えていた。
使者は、ガンディオンに到着してからというもの、ジルヴェールにもジゼルコートにもその目的を明かしていないのだという。どれだけ聞いても、レオンガンドに直接伝えるのが使命だといって聞かず、ジゼルコートですらお手上げだったということだ。
王女の名はユノ・レーウェ=マルディア。まだ十代だというが、ジゼルコートにさえガンディアを訪れた目的を明かさなかったことから、使命に忠実であり、頑なだということが窺える。
「王女殿下が参られたようです」
エリウスの耳打ちに、レオンガンドは、瞼を開いた。玉座に腰を掛けて考え事をしている間につい目を閉じてしまっていたのだ。雑念を捨て、考えに集中するときの癖のようなものだった。
謁見の間は、獅子王宮においても特に壮美華麗な空間といってもいいのだが、石の床に敷かれた深紅の絨毯の上を歩いてくる人物は、負けず劣らず豪華絢爛たる出で立ちだった。若いというよりは幼いといったほうがいいだろう。少女だった。金や銀のほか、多種多様な宝石類を散りばめられた装束は、まさに豪華というほかなく、派手好きで有名なガンディア貴族にも、彼女の出で立ちに対抗できる衣装を持ち合わせているものはいないだろう。
マルディアは、様々な鉱石の産地として知られ、宝飾品の中心地としても知られている。マルディアの王女たる人物が、金銀財宝そのもののような格好をしているのは、そういう背景があるのだ。しかし、その少女に野暮ったさや品の無さを感じないのは、豪華絢爛ではあっても無駄な派手さがないからかもしれない。宝飾品の自己主張は控えめであり、本人の美しさを際立たせる装飾品に過ぎないのだ。
「お目にかかることができて光栄でございますわ、レオンガンド・レイ=ガンディア陛下。ユノ・レーウェ=マルディアでございます。どうぞ、お見知りおきを」
多様な宝石を身に纏った少女は、作法通りに名乗り、レオンガンドに向かって静かにお辞儀をしたのだった。
ユノ・レーウェ=マルディア。
若い娘だ。
十代半ば。少女といってもいい年頃であり、外見と実際の年齢に乖離はない。王女としての教育が行き届いているのは、その立ち居振る舞いからも明らかであり、挙措動作のひとつをとっても気品に満ちていた。言葉遣いひとつとってもそうであり、声音さえも王女という立場に則ったものであるかのようだった。
典雅で、美しく、清く正しい、というべきか。
とにかく、レオンガンドは、一瞬にしてユノ・レーウェ=マルディアのことを気に入ってしまった。それくらい、彼女は魅力的だった。
腰まで伸ばされた黄金色の髪はひとつに束ねられ、深い睫毛に縁取られた大きな眼には、鈍色の虹彩が特徴的だった。鈍色の眼はマルディア王家の血筋であるらしく、彼女いわく、マルディア王家に連なるものだという証明だという話だった。
アーリアやウルも灰色の目を持つが、彼女たちとマルディア王家に繋がりがあるわけではない。彼女たちはガンディア生まれであり、その祖先もガンディア出身だ。
身の丈は、十代前半の少女らしく、高くはない。決して低くもなく、平均的といったところか。王女として育て上げられただけあって、筋肉量は少なそうに見えた。おそらく、剣を持ったことさえあるまい。レオンガンドにとって少しばかり新鮮な気がするのは、彼の中の王女といえば、剣を持ってみずから前線に出るような人物像だからだ。レオンガンドの実の妹であるリノンクレアは、ユノと同じ年頃には剣を手に取って戦っていたし、アバードの元王女シーラも、王女でありながら戦いに赴く荒々しい姫君だった。また、レオンガンドの妃であるナージュも、戦場に立つことも辞さない人物だ。箱入り娘ではあったが、剣を持てないわけではない。
そういった王女たちに比べると、ユノの非力さは目新しく映るものなのだ。
「どうかされましたか?」
不意にユノに問いかけられて、レオンガンドは意識が現実に戻る感覚を抱いた。瞬時に状況を理解する。獅子王宮謁見の間で、マルディアからの使節団との会見中だった。使節団の代表がマルディア王女ユノ・レーウェ=マルディアであり、彼女以外にも複数名の文官が同席していた。文官たちも宝飾品を身に着けているものの、王女ほど豪華なものではない。王女のきらびやかさを際だたせるように控え目でありながら、それでいて決して貧相には見えない程度には着飾っている。だれもかれも鋭い目つきをしていて、一筋縄ではいかないようなものばかりのように思えた。
「いや……失礼した。少しばかり考え事をしていたのだ」
「まあ、それはわたくしのほうこそ、失礼をしましたわ。陛下には、じっくり考えていただかなければならないことですのに」
「……ああ、そうだな」
レオンガンドは、ユノのどこか初々しさの残る反応に目を細めた。マルディアの王女は、立ち居振る舞いこそ完璧に近かったが、言動の端々に初々しさがあり、力みがあった。外交使節としての初仕事なのだろう。レオンガンドが知るかぎり、マルディアが外交使節として王女を派遣した例はない。つまり、マルディアは今回のガンディアとの交渉に余程力を入れているということだ。
マルディアは現在、国難に直面しているというのだ。
国家存亡の危機といってもいいらしく、それほどの国難からマルディアを救うためにガンディアの力を貸して欲しいというのが、ユノ王女率いる使節団がガンディアを訪れた目的だった。もっとも、彼女たちがガンディオンを訪れるはめになったのは、レオンガンドのせいらしい。
マルディアの外交使節団は、元々、戴冠式が行われた直後のアバード王都バンドールにてレオンガンドと接触するつもりだったというのだ。しかし、マルディアとアバードの関係は必ずしも良くはなく、なんとか入国許可を取り付け、バンドールに辿り着いたのが戴冠式の翌々日、レオンガンドたちが帰国の途についたあとだったという。これではいけないということで、ユノたちはガンディアに入国し、王都ガンディオンに直行したところ、エンジュール滞在中のレオンガンドを追い抜いて王都に辿り着いてしまったということだった。
外交使節ならば正式な手続きを踏むべきだというジルヴェールの意見は、ユノによって否定された。マルディアがガンディアとの接触を試みているということが明らかになれば、マルディアの国難は加速しかねないのだという。ユノたち使節団がバンドールで密かにレオンガンドに接触しようとしたのも、マルディアを国難から救うにはそれが一番だと判断したからなのだ。
バンドールでの接触が空振りに終わった以上、形振り構ってなどいられないということで、急いでガンディオンを訪れたというわけだ。ガンディア国内への入国手続が即座に降りたことが、彼女たちには幸運だったことだろう。
それから急いで王都を目指したところ、レオンガンドたちを追い抜いたというのだから、彼女たちがどれだけ使命感を燃やし、どれだけ急いでいたのかがわかろうというものだ。
『陛下にお会いするまで沈黙を通していたのも、目的を明かすことがマルディアの危機に繋がるかもしれないからでございます』
ユノたちから話を聞いたいまとなっては、彼女たちの危機感もわからないではないし、徹底的に警戒するのも当然のように思えた。ちょっとした気の緩みが国家の滅亡を早めることになりかねないのならば、緊張もするだろうし、警戒もするだろう。
マルディアはいま、国がふたつに割れているというのだ。
群雲が、流れていく。
青ざめた空の上、ひたすらに流れ続ける風に運ばれていく。滲んだような青と、その青に溶けるような薄い白の群れ。白の形は様々で、風に流される途中でも無限に形を変えていく。巨大な鳥のように見えることもあれば、見たこともない怪物が姿を表すこともある。だが、それら化け物が地上に降りてくることはない。空の上の空想の世界で生まれ、そのまま音もなく滅び去る。
「いい気なものだ」
だれとはなしにつぶやいて、目を閉じる。瞼を閉ざし、視界を薄い闇で覆ったところで、眠れるわけもない。地面に寝転び、眠る姿勢を取ったところで、眠気が襲いかかってくることはないのだ。嘆息さえも生まれない。怒りもなければ、苛立つことさえなかった。
諦観しかない。
「なんだって?」
不意に頭上から声が聞こえる。天から声が降ってきたわけではない。寝転んでいるからそういう風に聞こえただけにすぎない。彼の頭上から声が降ってくることなど、ありえない。
「いい気なものだといった。聞こえなかったか?」
「聞こえたから、聞き返したのではないか。聞き捨てならん」
「なにが聞き捨てならぬものか」
彼は仕方なく双眸を開くと、上体を起こした。視界に声の主の男はいないが、その男の部下たちがこちらを警戒している奇妙な光景が飛び込んでくる。武装した人間の男や女だ。何人くらいいるのだろう。面倒くさくて数えてもいないが、十人以上いるのは間違いなかった。その全員が全員、武器を手に、彼を囲んでいる。声の主がその人間の集団の頭目らしい。名を告げられたことは覚えているが、残念なことに、その名は覚えていない。
覚える気もなければ、覚えられもしない。
人間、記憶できる容量というものは決まっているのだろう。それがとっくの昔に限界に達しているのだ。その上、古い記憶が消えないから、新しいことが覚えられない。あるときから彼の人生を蝕み続けている悩みだった。
「我は我のやりたいようにやるだけだ。そうやって生きてきた。これからもそうやって生きるだろう」
告げて、彼は集団の頭目に向き直った。体を軽く動かすだけで大気が唸り、地が揺れた。彼がいるのは山間の小さな街の外れだ。街の住人は気のいい連中ばかりで、彼にとっては安息の地といってもいい場所だった。その安息が奪われて、どれくらい経過するのだろう。思い出すことすら馬鹿馬鹿しい。覚えていないのだから、思い出せるはずもない。
戦いがあったような記憶がある。その戦いのせいで街が滅びたのもなんとなく覚えている。滅ぼしたのは、北からの勢力だったように思う。
(騎士団と……いっていたか)
騎士団とベノアガルドという名称を覚えているのは、それだけ強く印象に残っているからだろう。安息の地を奪い去った軍勢とその所属国の名だ。忘れようがない。
「戦鬼グリフ!」
「あー……あ?」
叫び声を聞いて、彼は、ようやくその男の小さな顔を見ていることに気がついた。人間の戦士だ。宝石を散りばめた鎧兜を身に纏う屈強な男は、この国によくいる種類の戦士であり、だから印象に残らないのかもしれない。男は、こちらを睨んでいる。目が血走り、顔面に血管が浮いてさえいた。なにやら怒っているらしい。
「なんだその間抜けヅラは……!」
「グリフ……確か、そんな名前だったか?」
「貴様!」
「あー……済まぬ。記憶が確かではないのだ」
素直に謝ったものの、なぜ謝る必要があるのかとも思った。男に従う道理がない。腕を掲げる。
「うぬの名も、なにゆえうぬとこうして話しているのかも、忘れてしまった」
「なんだ――」
彼は、男がなにかを言い切る前に拳を振り下ろし、男の小さな体を叩き潰した。さすがに防具に身を固めた人間の体を潰すのには多少のコツが必要だったものの、それさえあれば、簡単なものだった。圧倒的な質量の前では、鋼鉄の鎧兜など意味をなさない。
周囲で、悲鳴が上がる。
「隊長!?」
「きっ、貴様!」
「こ、こいつ、隊長を殺しやがった!?」
「なにをぼさっとしている! 攻撃しろ! 奴を殺せ! 殺すんだ!」
「し、しかし……!」
「あー……うるさい」
彼は、適当に腕を振り回した。地を撫でるように振り抜いた腕は、周囲の木々を薙ぎ倒しながら、周りを囲んでいた人間たちを殺戮する。悲鳴は聞こえたが、それは断末魔などではなく、理不尽な暴力に対するもののようだった。もちろん、彼の両腕は無傷だ。
彼は、両腕に付着した血や泥を手で拭ってから、周囲を一瞥した。木々を根こそぎ薙ぎ倒してしまったが、同時に人間たちを皆殺しに出来たのだから、構いはしないだろう。植物も人間も勝手に増える。少しくらい殺したところで気に病むことはない。そもそも、人間同士殺しあっているのだ。彼がその手助けをすることが悪いわけがない。
「相変わらず傍若無人な男だ」
突如として飛び込んできたのは、女の声だった。人間の女だ。右を見ると、転倒した木の幹に腰掛ける魔女の姿があった。燃え盛る炎のような髪が風に揺れ、本当に燃え上がっているようだった。
「……うぬにだけはいわれたくない言葉だと思うのだが……」
「そのいいよう……わたしのことも忘れたか? 戦鬼グリフよ」
「いや、覚えている。忘れようがない」
彼は、苦い顔をした。紅蓮の女とはあまりいい思い出がない。
「旧友よ」
そう呼べる相手は、そんなに多くはなかった。
数えるほどしかいない上、ほとんど、この時代を生きてはいまい。