第千百八十七話 北よりの使者
レオンガンド・レイ=ガンディアが、王都ガンディオンに帰り着いたのは、年の瀬も押し迫る十二月十九日のことだった。
戴冠式のためアバード王都バンドールに出向いていたレオンガンドは、同行した側近らとともにガンディアに戻ると、龍府からゼオル、ナグラシアへ至り、ナグラシアからマイラムではなくバッハリア、そしてエンジュールに立ち寄っている。セツナの領地であるエンジュールは温泉地と知られているが、もちろん、温泉に浸かるために立ち寄ったのではなかった。レオンガンドは、エンジュールで療養中のナーレス=ラグナホルンに逢うためにエンジュールを訪れている。
エンジュールは、セツナの領地だ。セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドの最初の領地であり、領民の多くがセツナを支持しているらしいことはエンジュールを訪れたレオンガンドにもなんとはなしにわかった。セツナが領伯として上手くやれていることの証明なのかもしれないし、司政官ゴードン=フェネックの働きも大きいのだろう。エンジュールの司政官にゴードン=フェネックを推したのはナーレスだった。ナーレスは、ザルワーン潜伏中、ゴードンを翼将に任命したのだが、それはザルワーンを弱体化させるための工作であり、ゴードンは本来武官ではなく、文官向きの性格と能力の持ち主だということだった。ナーレスの眼識が確かなのは、ゴードンが現在、司政官としてエンジュールを上手く運営していることからも明らかだ。
レオンガンドは、当然、ゴードンに会い、彼からナーレスの居場所を聞いた。ゴードンは、ナーレスが死んでいることを知らないようだった。ゴードンのみならず、エンジュールにいるだれひとりとして、エンジュールに滞在し、療養中のナーレス=ラグナホルンが既に故人となっていることは知らないはずだ。オーギュスト=サンシアンかメリル=ラグナホルンが口を滑らせたりでもしないかぎり、その事実が漏れることはなく、ふたりがそんな迂闊な真似をするはずもなかった。
エンジュールの外れ。
小さな温泉宿の離れにメリル=ラグナホルンはいた。もちろん、ナーレス=ラグナホルンはいない。メリルと夫婦を演じているのは、オーギュスト=サンシアンであり、彼は、ナーレスの死が露見しないよう、長らくエンジュールに滞在していたのだ。
レオンガンドは、オーギュストからナーレスの死に様を聞き、最期までガンディアの将来を案じ、また軍師として戦い抜いたという話を聞いた時には、その光景が脳裏に浮かぶようだった。ナーレスは、やはり軍師として傑出した人材だったのだ。彼なくしてはガンディアの連戦連勝がなかったのは疑いようがない。
レオンガンドは、メリルともたっぷり話し合った。ナーレスの死を悼み、また、死の悲しみや痛みが癒えぬうちに彼の死を隠さなければならなくなったことを謝罪した。本来ならば、ガンディア最大の功労者ともいうべきナーレスの死は、ガンディア全国民とともに悼むべきことであり、ナーレスの望みとはいえ、死んだという事実さえ隠し通さなければならないというのは苦痛以外のなにものでもない。
レオンガンドがそのようなことをいうと、メリルは、気丈に微笑んだ。
『旦那様は、こういうときこそ笑っていろとおっしゃいましたわ』
メリルはそんなことをいってきたが、彼女が辛くないわけもなく、レオンガンドはオーギュストに彼女のことを頼んだ。一方で、喜ばしいこともある。メリルのお腹が膨れていたのだ。つまり、ナーレスの子を宿しているということだ。八ヶ月くらいだという。
レオンガンドが嬉しかったのは、ナーレスの子が生まれるという事実よりも、ナーレスの願いがかなったという事実のほうが大きかった。ナーレスは、血を残したがっていた。子孫を残したがっていたのだ。だから、メリルがナーレスの子を宿しているという事実は、レオンガンドにとっても喜ばしいことだった。たとえナーレスの子が、彼の後を継ぐような人材ではなかったとしても、そこは関係がない。ナーレスが子を成すことができたという事実だけでも喜ぶべきことだった。
レオンガンドがそのことを心の底から喜ぶと、メリルもまた嬉しそうに微笑んでくれたものだった。ナーレスとの子供を無事に出産し、育て上げることこそ、ナーレスの愛に応える唯一の手段だと彼女はいっていた。
レオンガンドはオーギュストに彼女を支えるよう命じると、側近たちにエンジュールの警備をさらに厳重にすることを命じた。
ナーレスの死が露見するのを恐れたというよりは、メリルの身辺を護ってやるべきだと考えたのだ。ナーレスの子が生まれることは、ガンディアにとっても喜ばしいことだ。たとえその子に軍師の才がなかろうと、ラグナホルン家の家督を継がせることができる。ラグナホルン家は、ナーレスひとりの活躍によって一気に名門に並ぶ家となったが、ナーレスには兄弟がなく、両親も既に他界していた。また、親戚筋も、ナーレスがガンディアを離れ、ザルワーンに属したとき、処罰を恐れてラグナホルン家との関わりを断っている。ナーレスはガンディアに復帰したあともそれら親戚筋との関係を修復しようとはせず、ナーレス自身がそうである以上、親戚側もどうすることもできなかった。結果、ラグナホルン家の跡継ぎはおらず、このままでは家そのものが宙に浮いた存在となるところだった。
しかし、メリルの妊娠が発覚したことで、それらの問題は解消された。あとは彼女が無事に出産するのを待つだけのことだ。男児であれ、女児であれ、構うことはない。男児でなければ当主になれない法はない。
レオンガンドは、エンジュールに六日間、滞在している。
エンジュール自慢の温泉に浸かり、長旅の疲れを癒やしたりした。
エンジュール到着から六日後の十二月十一日、王都を目指しての移動を再開し、マルスール、バルサー要塞、マルダールの順に越え、やがてガンディオンに到着した。それが、十九日のことであり、レオンガンドはやはり王都市民による盛大な出迎えを受けたものだった。
レオンガンドは、王都のひとびとの出迎えに笑顔で応えながら王宮区画へと急いだ。ガンディオンは広い。新市街を抜け、旧市街を進み、群臣街を通過して、ようやく住居というべき王宮区画に辿り着く。王宮区画には、王の不在の間、政務の一切を任せていたジルヴェール=ケルンノール、エリウス=ログナーが待ち受けており、ジゼルコート・ラーズ=ケルンノール・クレブールの姿もあった。
レオンガンドは、側近ふたりと言葉を交わすと、ジゼルコートにも留守を任せたことの礼をいった。
「陛下の不在を任せられるのは、家臣として光栄の至りにございますゆえ」
ジゼルコートの返答に嘘はなかったのだろうが。
レオンガンドは、ジゼルコートの眼光の鋭さに目を細めた。ジゼルコートがここまで強い目をしたことがこれまであっただろうか。
彼がなにかを企んでいるのではないかという疑念は、今年の春からずっと頭の隅をちらついていた。ベノアガルドの諜者を招き入れたということが疑いを生んだのだが、それ以来、ジゼルコートがガンディアに不利益となるようなことは一切しておらず、むしろガンディアに貢献する日々を送っているといっても過言ではなかった。
なにしろ、レオンガンドがアバードに赴いている間、ジゼルコートはアザークとラクシャというガンディアの近隣二国を従属させたというのだ。
その話を聞いたのは、エンジュール滞在中のことであり、エンジュール滞在を六日で切り上げた理由のひとつでもあった。本当はあと数日ほど滞在する予定があった。ナーレスと議論を戦わせているという風に装い、彼が生きていることを印象づけるためにだ。しかし、レオンガンドは、エンジュール滞在とナーレスとの密議を六日で打ち切ると、すぐさまガンディオンを目指した。
従属させたということはつまり、ベレルやアバードのような属国になったということだ。
アザークは、まだわからないではない。ガンディア本土の真西に隣接する国であるアザークは、反ガンディアを掲げていた前王時代とは異なり、現在の国王になってからというもの、ガンディアに対して友好的な態度を貫いている。アザーク国王が、強大化したガンディアと友好関係を続けるよりも、いっそのこと従属してしまうほうがいいのではないかと考えたとしても、不思議ではなかった。ジゼルコートの交渉がその後押しをしたのだろう。
ラクシャは、完全に不意打ちだった。想像もつかないとはまさにこのことだった。ラクシャは、ガンディア・ミオン方面の真東、ベレルの南東に位置する国だ。ガンディアよりもミオンとの関係が深い国であり、ミオンとは敵対したり、友好的に振る舞うこともあったり、時と場合によってその旗色を変えてきた国だ。ガンディアがミオンを降して以来、ガンディアが交渉を持つことになった国のひとつだが、決して友好的とはいえない間柄だった。かといって、ラクシャがガンディア領土に攻め込んでくる可能性は極めて低く、交渉の余地はあるだろうと見ていたのは事実だった。ジゼルコートは、その交渉の余地を上手く利用したということになる。
しばらくは友好関係を維持するだけでも構わないと判断していたアザークはともかく、ようやく交渉の余地を見出したばかりのラクシャに関しては、寝耳に水の話といっても過言ではなかったのだ。
その報せを聞いたとき、レオンガンドは膝を打って驚いたものだ。ジゼルコートの外交手腕の凄まじさには舌を巻くしかなく、彼がガンディアの国益に貢献してくれているという事実に唸るほかなかった。疑念は疑念に過ぎない。ジゼルコートがガンディアのために力を尽くしてくれているという事実を前にすれば、一瞬にして吹き飛ぶものだ。
属国が増えるということは、レオンガンドの夢である小国家群の統一が前進するということにほかならない。何度も言うが、小国家群の統一とは、小国家群すべてをガンディアの領土にすることではない。小国家群全体をひとつの勢力として纏め上げることであり、そのために一番わかりやすいのがガンディアの領土にすることであるから、ガンディアは積極的に外征を行ってきたに過ぎない。国土が拡大し、戦力が強大化したいま、外征によって国土を増やす必要性は薄くなってきていた。戦争は犠牲も大きい。損失をなくして勝利は得られない。それならばいっそ戦いを起こさず、外交によって勢力を増していくほうが賢明であり、手っ取り早いといえる。交渉次第では戦争に発展することもありうるが、圧倒的な戦力を誇るガンディアと一戦でも交えたがる国がどれだけあるものか。もちろん、なにもせず、交渉だけで傘下につく国というのもまた、そう多くもないが、今後、ガンディアがさらに勢力を拡大していけば、交渉によって下につく国は増大するだろう。
ジゼルコートの成果は、その試金石ともいえるものかもしれない。
「ジゼルコート伯、アザーク、ラクシャとの交渉、真、大儀であった」
レオンガンドがジゼルコートの功績を手放しで褒め称えたのは、王宮に入ってからのことだった。謁見の間に入ったのは、玉座に腰を落ち着けるためだった。ナージュやグレイシアへの挨拶を後回しにしたくはなかったが、いまはそれよりも優先しなければならないことがある。
「恐悦至極にございます」
ジゼルコートが恭しく頭を下げる。
「さすがは父上というほかありませんね」
とは、ジルヴェールだ。彼は、実の父親であるジゼルコートを尊敬しているのだ。彼もまた、ジゼルコートを警戒してはいるものの、ジゼルコート本人の政治力、政治家としての手腕にまでケチを付けるわけもない。
「ジルヴェール。そなたはいずれ、わたしを越えねばならんぞ」
ジゼルコートが、ジルヴェールを見遣った。レオンガンドの側近であるジルヴェールは、玉座の近くに立ち、ジゼルコートは玉座の対面にいる。ジゼルコートの側には、彼以外にも左眼将軍デイオン=ホークロウや、副将ジル=バラム、参謀局第二作戦室長アレグリア=シーンなどがいる。
「はは……父上を越えるとなると、並大抵のことではいけませんね……」
「当然だ。そなたの陛下への忠誠心、並大抵のものか?」
「いえ」
「ならば、わたしを超えてみせよ。さすれば、陛下の夢は必ず叶う」
「はい」
ジゼルコートの言葉に、ジルヴェールは静かに、しかし強くうなずいた。父と子の会話に割って入る隙はなかった。
「ということですので、陛下」
「ん?」
「ジルヴェールのこと、くれぐれも扱き使ってやってください。人間というものは、使われなければ成長することなど不可能でございますゆえ」
「わかった」
にこやかにうなずき、ジルヴェールに視線を向ける。
「これからもジゼルコート伯同様、よろしく頼むぞ」
「御意に」
ジルヴェールが首肯する様を満足げに見届けてから、今度は反対側に立つエリウス=ログナーに話しかける。
「ところで、マルディアから使者がきたということだったな?」
「はい」
「マルディアの王女様みずから使者として参られております」
それもまた、レオンガンドがエンジュールを早々に引き上げた理由だった。
マルディアの王女ユノ・レーウェ=マルディアが家臣団とともにガンディアを訪れたという話が、エンジュール滞在中のレオンガンドの耳に届いたのだ。
マルディアは、ガンディア領の北、アバードのさらに北に位置する国であり、アバードとベノアガルドのちょうど間に位置する国だった。