第千百八十五話 ”知”の探求者(前)
旧リバイエン家本邸は、天輪宮から徒歩数分の距離にある。ミリュウいわく、オリアン=リバイエンが天輪宮との往復のわずらわしさを軽減するために手に入れた、というだけはある近さだった。
十二月十五日。ファリアがガンディア領ザルワーン方面龍府に帰り着いて、二日が経過している。
帰国当日の十三日は、帰国の報告と旅の疲れを癒やすことに費やされた。《獅子の尾》隊長補佐の業務は、疲れがしっかりと取れてからでいいという隊長命令もあり、ファリアはじっくり休むことができたものの、その分ルウファに負担をかけているのではないかと心配になったりもした。実際、ルウファへの負担は大きかったに違いなく、そんな副長の機嫌を損ねないために、彼への土産物は一番豪華なものにしていた。セツナよりも豪華ということでエミルから妙な勘ぐりを受けたものだが、無論、彼女の勝手な勘違いだ。
翌日の十四日は、土産物を仕分けし、配るのに時間を費やした。土産物は、リョハンで買い集めたものであり、個人的な理由で長い間留守にしたファリアなりの恩返しというか、ご機嫌伺いとでもいうべき代物かもしれなかった。別段、大したものではないが、小国家群ではまず見られないようなリョハン特産の工芸品の数々や銀細工などを手当たり次第購入していた。それらの土産物をレムに手伝ってもらって仕分けし、皆が天輪宮にいる時間帯である午前中に配り終えた。セツナ、レムには銀細工の装身具を手渡し、ラグナにも彼に似合うと確信していた銀の宝飾品を渡し、ファリアみずからが身につけさせてやった。銀の首飾りなのだが、緑の小飛竜には妙に似合っていたのはファリアの思った通りだった。
シーラ率いる黒獣隊の面々にも、シドニア戦技隊全員にもそれぞれ土産物を手渡している。龍宮衛士五十人には、専用に用意したものではなく、大量に購入した菓子を配った。
『まるで女神のようですな』
などという声には苦笑するほかなかったが。
また、ファリアとは直接関係のないことだが、十三日、マリクは長距離飛翔によって失った血を補うため、またしてもセツナから血を吸った。ほかのだれでもなくセツナを選んだのは、セツナ以外のだれかから血を吸うとセツナが怒るかもしれないという彼なりの配慮からであり、セツナならば喜んで犠牲になるだろうという判断からだろう。実際、セツナはほかのだれかが犠牲になるくらいなら、率先して自ら犠牲になる種類の人間ではある。その結果、無茶をしすぎるのがセツナの悪いところであり、ファリアたちが止めたくても止められないところだ。
マリクに血を吸われたセツナは、しばらく安静にしていなければならなくなり、マリクを見送るのもファリアの役目となった。マリクは、翌十四日、早々に龍府を飛び立っている。リョハンから龍府に再度飛び立つまで数日を要したのは、万全を期したからであり、龍府からリョハンに戻るのを急いだのは、時間がないからだろう。
時間。
ファリア=バルディッシュの命の時間は、あとどれくらい残されているものなのか。
最期まで側にいてやるべきだったのではないか。
ファリアはそういう風に考えたりもしたが、祖母や祖父の言葉を思い出して、考えを改めたりもした。祖母の、戦女神の死を看取れば、ファリアに自由はなくなるだろう。戦女神の継承者とならざるをえない。たとえ祖母や祖父がそれを望まなくとも、ファリアが別の道を歩もうとしていても、周囲がそれを許さなくなる。しがらみが、ファリアを戦女神に仕立て上げ、逃れられなくなる。そして、そうなったとき、ファリアは戦女神であろうとしただろう。
自分のそういう性格がわかるから、あのとき、無理にでも飛び立ったのは正解だったのだ。でなければ、ファリアは後悔を抱き続けながら、戦女神を演じることになったに違いない。
祖母の最期を看取ることができないというのは辛いことだし、いずれ後悔するのはわかりきっている。しかし、祖母の願いや祖父の望みを叶えるためには、そういった後悔を飲み込み、前に進むしかないのも事実だった。
(自分の人生……)
ファリアは、龍府の空に消えていくマリクを見やりながら、胸中でつぶやいたものだ。
自分で決めた自分の人生を歩むことこそ、ファリア=バルディッシュとアレクセイ=バルディッシュの望みにほかならなかった。
そんなこんなで、龍府への帰還から二日を過ごしたファリアが旧リバイエン家本邸の門前にいるのには、ふたつ、理由がある。
ひとつは、リョハンからのお土産を手渡すためであり、私的な用事だ。もうひとつは、《獅子の尾》の隊長命令であり、隊士であるミリュウの様子を見てきてほしいというものだった。ミリュウは、ファリアがリョハンへと旅立ってからすぐにリバイエン家を入手し、それからというもの屋敷にこもりっぱなしなのだという。
ミリュウのことだ。大人で、なんでもひとりでできるのが彼女だ。別に不安も心配もしていないが、たまには無事かどうかの確認をしておきたいというのが、セツナがそんな命令を下した理由だった。
(まあ、心配なんでしょうけど)
門兵には、セツナから話が通してあり、ファリアは、なんの問題もなく門内に通された。前庭を抜け、屋敷に辿り着くと、ひとりの老執事が待ち受けていた。長身痩躯、いかにも好々爺といった面差しのある人物であり、ファリアの脳裏には彼の名が浮かんだ。ミリュウに聞いたことがあるのだ。
「セナ=タールトンにございます」
老執事は、深々とお辞儀をしてきたので、ファリアも軽く敬礼した。セナ=タールトンの年齢は六十歳くらいだろうか。外見からはおおよその年齢を推察することしかできないが、六十代とすればファリアの祖父母と同年代であろう。がっしりしたアレクセイの体格に比べると頼りがいのない感じがあるが、年齢的には彼くらいが普通というべきかもしれない。アレクセイは元戦士だ。いまも体を鍛えることが趣味というような人物であり、祖父と比べれば同年代の男性がか弱く見えるのは当然だった。もっとも、そんな祖父も、ガンディアの大将軍アルガザード・バロル=バルガザールに比べると軟弱に見えるのだから、現役の戦士というのはおそろしい。
「《獅子の尾》隊長補佐ファリア・ゼノン・ベルファリア=アスラリアです。ミリュウ=リヴァイアに会わせて頂きたいのですが」
ファリアが名乗り、訪れた理由を告げると、老執事は難色を示した。
「ミリュウ様は現在、なにやら研究に没頭されておりまして、だれにも会われないかと想われるのですが……」
「それでも構いません。彼女の居場所まで案内してもらえますか? 隊長命令ですので」
「隊長命令……ということは、セツナ伯様の御命令でもございますな?」
「ええ。まあ、そうなりますね」
もちろん、《獅子の尾》隊長と龍府の領伯としての命令は異なるものだが、同一人物であることに違いはない。受け取りようによっては領伯命令にもなるかもしれない。
「さすがにセツナ伯様の御命令とあらば、拒否するわけにも参りませんね。ミリュウ様がお会いになされるかどうかはお約束できませんが、居場所までの案内ならばお任せください」
「よろしくお願いします」
ファリアが頭を下げると、セナは屋敷の中にではなく、庭に向かって歩き出した。ファリアは怪訝な顔になったが、すぐに彼の後を追いかけた。旧リバイエン家本邸の敷地は広く、前庭そのものも広い。正門から屋敷の正面玄関まで続く石畳の道があり、その左右で異なる景色が横たわっている。右手には小さな森があり、左には巨石群が儀式の跡を示すように聳えている。
セナは、その巨石群の脇を抜けて、敷地の外れに向かって歩いている。その挙措動作は、長年リバイエン家の執事を務めているだけあって機敏であり、年齢による衰えを微塵も感じさせないものだった。
ふと、話しかける。
「セナ=タールトンさん、でしたね?」
「はい。なんでございましょう?」
「いえ、別になんでもないんですが……」
本当になんでもないことだ。他愛のない、世間話。それでも声をかけたのは、いっておきたかったからだ。ミリュウの性格上、彼には直接伝えていない気がした。
「ミリュウのいっていた通り、優しそうな方ですね」
「……ミリュウ様がそのようなことを?」
「ええ。セナさんだけが心の支えだともいってましたよ」
「おお……なんと過分なお言葉でございましょう」
先を行くセナが懐から手拭を取り出すのがわかった。目元を押さえているような動作は、彼が涙を拭ったということだろう。ファリアの一言に感激したらしい。彼がミリュウのことを敬愛しているという証明であり、ファリアには、それが嬉しかった。
しばらく進むと、前方に倉が見えてきた。大きな倉で、小さな家といってもいいくらいだった。セナはその倉を目指しているらしい。ということは、ミリュウはその倉に篭っているということなのだろうが、彼女が倉の中でなにをしているのかなど想像のしようもなかった。
「ところで、ミリュウ様は、《獅子の尾》の皆様と上手くやれておられるのでしょうか?」
「心配ですか?」
「……心配がないといえば嘘になります。御存知の通り、ミリュウ様は、いまより十一年前、突如として魔龍窟へと落とされたのです。わたくしどもの力ではミリュウ様をお救いすることはおろか、手助けすることもままならず、ただミリュウ様が生き抜いてこられることを祈るよりほかありませんでした」
セナの声が、小さく震えていた。そこには苦渋と悔恨があり、彼の心の痛みが伝わってくるようだった。足取りは重く、倉に近づくほど歩幅も短くなる。ミリュウに近づくことが恐れ多いとでもいわんばかりであり、実際そう想っていたとしても不思議ではないようなことを、彼は口走っていた。
「ミリュウ様が無事帰還なされ、わたくしどもの命を断たれること――それが、わたくしどものささやかな願いでした」
「ミリュウに殺されることが願い?」
「はい。わたくしどもの使命は、ミリュウ様をお護りすることでした。時の権力に屈し、ミリュウ様を差し出すのを見届けたとき、わたくしどもの存在意義は消えてなくなったのでございます。ミリュウ様に報いを受けるのは、当然の道理」
「でも、ミリュウがそんなことをするわけないわよね」
ファリアが告げると、セナは静かにうなずいた。
「……はい。ミリュウ様は、わたくしを以前と同じように受け入れ、扱ってくれました」
「そうでしょうね。ミリュウのことだもの」
ファリアは、そういったものの、内心安堵していた。
ミリュウは激情家だ。一度感情に火がつくと手がつけられなくなるという困ったところがある。しかし、一方で、やっていいことと悪いことの区別がつき、特にセツナの評判が悪くなるようなことや、セツナの機嫌を損ねるようなことは決してしなかった。
その上、彼女の根底には家族への深い愛情がある。ミリュウが十年に渡って憎悪を募らせてきたオリアン=リバイエンを殺せなかったのもそれだろうし、実兄リュウイ=リバイエンから屋敷を取り上げず、交渉で交換したのだって、そういう感情の現れではないのか。本人にいったところで否定されるのが落ちだが、ファリアはそのように考えていた。
執事は本来家族でもなんでもないが、セナ=タールトンは、ミリュウが家族同然に想っている人物だ。彼が殺されなかったのは当然というべきだろう。
「だから、だいじょうぶです。ミリュウは上手くやっていますよ。なんの心配もいりません。わたしたちがついていますしね」
「そういっていただけると、わたくしとしましても安心することができます」
セナは、こちらを見て、心の底から安堵したような顔をした。それから、倉を指し示す。ふたりは既に倉の目の前に辿り着いている。
「ミリュウ様は、この倉の奥におられます」
「なにをしているのか、ご存じですか?」
「いえいえ、滅相もない。ミリュウ様がなんのためにこの屋敷を手に入れようとなさったのかさえ、わたくしにはわかりかねます」
「そう……。入ってもいいのかしら」
「わたくしが立ち入ることは許されませんが……ファリア様ならば問題ないかと」
そういって、セナは倉の扉の鍵を開け、扉を開いてみせた。
「中は真っ暗ですので、これをお持ちください」
「ありがとう」
ファリアは、セナから携行用の魔晶灯を受け取ると、蔵の暗闇の中に踏み込んでいった。