第千百八十二話 ファリアとファリア(十)
結局、ファリアはリョハンに五日滞在した。
十二月二日から十二月七日まで五日間で、ファリアは、リョハンが誇る最高峰の武装召喚師である四大天侍それぞれに教えを請うている。四大天侍筆頭シヴィル=ソードウィンは無論のこと、ニュウ=ディーや、同年代のカート=タリスマ、年下のマリク=マジクにさえ頭を上げ、教授を願った。
武装召喚師としての実力を高め、さらなる力を得るために形振り構っていられないというのが、ファリアが四大天侍全員に弟子入り染みたことをした理由だった。
力を欲した。
これまで何度となく欲してきたことだが、今回は、いままでよりも渇望の深度は深かった。なにより、自分のためにではないというのが、いままでの力を求める理由と大きく異なる。これまでは、どんなことであれ、根本には自分のためという理由があった。自分のために力を追求し、武装召喚師としての力量を高めようとしてきた。
だが、今回は違う。
他人のため。
セツナのためだ。
それはセツナを護るためでもあれば、セツナと並んで戦うためでもある。
いまのままでは、セツナを護ることはおろか、彼とともに戦うことさえ困難なのではないかと思えるのだ。
セツナとカオスブリンガーは、日々、強くなり続けている。ファリアの想像を軽く凌駕する速度での成長は、常識的に見て考えられないほどのものだ。元々強大な力を秘めていた黒き矛は、眷属と思しき槍と仮面を破壊し、吸収したことでより一層強くなり、さらに召喚者たるセツナが肉体を鍛え始めれば、それに応じるように黒き矛もさらなる力を発揮していった。
黒き矛は最初から強かった。しかし、当初の強さというのは、想像の範疇に留まるものであり、オーロラストームやシルフィードフェザーでも対抗できそうな気配はあった。だが、セツナの成長と黒き矛の強化によって、いまでは、ファリア、ルウファ、ミリュウのだれひとり、彼の戦いについていけなくなっていた。
そのことを強く実感したのが、ラグナの前身であるワイバーンとの戦いだ。
あの戦いではファリアたちが繰り出した最高威力の攻撃もラグナを撃破する決め手にはならず、セツナが全身全霊で放った一撃がワイバーンを消滅させるに至った。そのとき生じた膨大な熱量は、ラグナをして即座の転生を可能とするほどのものであり、それほどの力を使う人間など存在するわけがないというのが、ラグナの評価だった。
それがすべてではないせよ、ファリアは、そのときから、強く自分の力不足を感じるようになった。
決定的になったのが、セツナがニーウェとの戦いに敗れ、瀕死の重傷を負ったときだ。あのとき、ファリアは、ランスロット=ガーランドと名乗るニーウェの腹心に行く手を阻まれ、セツナの元に辿り着くことができなかった。もし、ランスロットを一蹴するだけの力があれば、セツナが瀕死の重傷を負うよりも早く駆けつけられただろうし、セツナが意識不明のまま、数日間を過ごすようなことはなかっただろう。
ランスロットの武装召喚師としての力量は、ファリアと大差はないだろう。だが、大差がないということは、こちらが上回っているわけでもないということであり、防戦に徹せられた場合、ファリアが勝つことが困難になるということなのだ。ランスロットに打ち勝つには、圧倒的な力量差が必要だ。
ニーウェは、まだ、セツナを諦めてはいない。それどころか、ニーウェは必ずセツナを殺そうとするだろうということがわかりきっているのだ。そのとき、ファリアたちは、ランスロットらニーウェ配下の武装召喚師たちに邪魔されるに決まっている。ニーウェは、一対一でセツナに圧倒したのだから、つぎもまた、一対一に持ち込もうとするだろう。その場合、ファリアたちの存在が邪魔なのだ。いまもどうにかしてファリアたちの行動を封殺し、一対一で戦う方法を考えているに違いなかった。
だから、ファリアは、力を欲した。
もちろん、それだけがすべてではない。今後のことを考えてもいる。
ガンディアが大陸小国家群の統一を目指す上で戦力の底上げは必須事項といってもいい。ファリアたち《獅子の尾》の武装召喚師ひとりひとりが実力を高めていくことは、多少なりともガンディアの戦力の底上げに繋がるのだ。
そういったことからも、ファリアの自己強化は必要不可欠だった。
そのためにファリアは四大天侍に弟子入りしたのだが、感覚派のニュウ=ディー、もっと感覚派のマリク=マジク、寡黙で女性が苦手なカート=タリスマからはまともに教えを請うことができなかった。もちろん、色々と勉強にはなったし、四大天侍の実力を目の当たりにしたことで大きな刺激にもなった。ニュウのブレスブレスの使い勝手の良さと破壊力は相変わらずだったし、マリクのエレメンタルセブンの術式と能力のでたらめさも健在だった。カートのホワイトブレイズも強力極まりない召喚武装であり、冬場には特にその冷厳さが発揮されたものだ。
しかし、前述の三人(特にニュウとマリク)は師匠とするには独特すぎ、色々と足りない部分が多かった。本人の実力と、技術を伝え教える能力は別のものだということだ。そういった当たり前の結論に辿り着いたとき、シヴィル=ソードウィンがいてくれたことは、ファリアにとっては救いとなった。
四大天侍の筆頭であり、四大天侍の指揮官とでもいうべき彼は、ひとに物を教える能力も長けており、武装召喚師としての力量も相俟って、ファリアが師事するには十分過ぎる人物だったのだ。年季の違いもあるのかもしれない。四大天侍の中で彼だけが三十代で、ニュウとカートは二十代、マリクに至っては十代である。そう考えれば、前述の三人に教える能力がなかったとしてもなんら不思議ではないのかもしれない。
もっとも、リョハンで教室を開く武装召喚師というのは大体二十代半ばから後半であり、ニュウなどは既に教師として教室のひとつでも持っていてもおかしくはないのだが。そこは、四大天侍としての仕事が忙しいということにしておいた。
ともかく、ファリアは、リョハンを旅立つまでの約五日間、シヴィルの元で武装召喚術について学び、徹底的に鍛え直した。
それですぐさま強くなるわけもなかったが、決して無駄な時間ではなかった。
なにより、マリクが再度飛翔することができるまでの時間を無駄にせずに済んだことは大きかった。
十二月七日早朝。
ファリアは、だれに見送られることもなく、マリクとともにリョハンを飛び立った。山門街からではなく、空中都から、一気に飛んだのだ。そうしなければ、だれかの目に触れるかもしれない。だからどうということはないが、小さな問題も起こしたくなかったファリアの心情としては、だれの目に触れることもなく飛び立つことが重要だった。
もちろん、帰国当日にはファリア=バルディッシュと言葉を交わしている。
『精一杯、生きなさい。後悔するような人生、送っちゃ駄目よ』
『わたしと君の孫がそのような人生を送るものか』
『それもそうね』
アレクセイの一言に笑う大ファリアの顔は、終生、忘れえぬものとなるのは、疑いようのない事実だった。なにしろ、今生の別れなのだ。
(今生の別れ……)
龍府への移動中、何度心のなかに浮かべたかわからない言葉は、祖母がみずから発した言葉だった。
『ともかく、今生の別れよね』
『そんな悲しいこと、いわないでくださいよ』
ファリアは抗議したが、祖母は笑うだけだった。夜明け前の中庭。ファリアと祖父母以外には、マリク=マジクだけがその場にいた。ほかの四大天侍はまだ眠っている頃合いだった。別れの挨拶は、夜のうちに済ませている。
『うふふ。でも、本当のことだもの。わたしの命はもうすぐ終わる』
『だったら――』
『戦女神の最期を看取る覚悟が、君にあるのか?』
祖母の体を支える祖父のまなざしは鋭く、リョハンを引っ張ってきた政治家としての顔をしていた。
『いっただろう。護山会議は、リョハンは、君を戦女神の後継者にしたがっている、と。君が彼女の最期まで付き添えば、リョハン中が君が戦女神になることを望み、声を上げるだろう。周囲の期待には応えずにはいられない君のことだ。そうなったとき、君は間違いなく戦女神となるだろうな』
否定は、できなかった。
つい数日前も、そんなことで覚悟が揺れた。周囲の意見を聞くといえば聞こえはいいが、要するに優柔不断なのだろう。優柔不断で情に流されやすい。だからすぐむきになったり、すぐに自分を見失ったりする。欠点にも程がある。
『ファリアちゃん。あなたはセツナちゃんの側にいたいのでしょう? それなら、わたしのことなんて忘れて、すぐにでも飛び立たなきゃ、ね』
『お祖母様……』
駄々をこねる子供に言い聞かせるような、それでいてとてつもなく優しい言葉に、ファリアは、しばらくなにも言い返せなかった。
口を開いた時には、今度こそ、覚悟が決まっていた。深々と、頭を下げる。
『こんなわたしを今日まで見捨てないでくださり、まことにありがとうございました。わたし、ファリア・ゼノン・ベルファリア=アスラリアは、あなたの孫娘として生まれて、本当に幸せでした』
『わたしも』
顔を上げたとき、ファリアは、祖母の細い両腕に包み込まれていた。痩せ細り、ちょっとしたことで折れてしまいそうなほどに儚い腕が、戦女神と謳われた女傑の現状であるという事実が、ファリアの心に様々な感情を去来させる。
『あなたが孫娘で、幸せだったわ』
涙がこぼれたのは、そのときだった。
自分の言葉ではなく、祖母の言葉が涙腺を刺激し、視界をでたらめに歪めた。
『願わくば、あなたの結婚式をこの目で見たかったけれど……』
『なに、見れるさ』
『そうね。いつか、見れるわよね』
『ああ』
『お祖父様……お祖母様……』
祖父と祖母のやり取りにも、なんといっていいのかわからなかった。抗議するようなことでは決してない。気恥ずかしいわけでもない。ただ、悲しく、ただ、辛い。せめて、祖母にそういった自分の姿を見せてやることができれば、と思うのだが、できるわけがない。
アレクセイが、目を細めた。
『さあ、行くがいい。夜が明ける。だれにも見つからずに出ていくには、いましかない。あとのことはわたしのほうでなんとでもなるが、いま見つかれば騒ぎになるかもしれん。そうなれば、どうなるものか』
『そうよ。さっさと行きなさい』
『はい……!』
どこか突き放すようでいて、とにかく優しいだけの祖母の言葉には、うなずくほかなかった。
『マリクちゃん、ファリアちゃんのこと、よろしくね』
『はい。おまかせあれ。必ず、小ファリアを愛しいひとのもとへ送り届けますよ』
『マリク様まで!』
ファリアの抗議に対して、マリクは笑みを浮かべて、手を差し伸べてきただけだった。彼の背には、漆黒の翼が翻っていた。
『さあ、行こう。小ファリア』
『も、もう、知りません!』
そういいながらも、ファリアは彼の手を掴むしかなかったのだが。
かくして、ファリアはレイヴンズフェザーを召喚したマリクとともに戦宮の中庭を飛び立ち、そのままリョハンから旅立った。
戦宮は、薄い闇に包まれている。
夜明け前。晴れ渡った夜空に瞬いていた星々も月もその主張を抑え始め、太陽が東の彼方に登りはじめんとする頃合。東の空から白く染まり始めていて、ファリアたちがだれにも気づかれず飛び立つ最後の機会ともいうべき時間帯だった。もちろん、今日がだめなら、明日のこの時間に飛び立てばいいだけの話だが、そうやって日を先延ばしにすればするほど、ファリアはリョハンから離れられなくなる。早ければ早いほうがいいということだ。
「行ってしまったな」
アレクセイの声が少しばかり寂しげに聞こえるのは、自分だけだろう。そんなことを思いながら、肯定する。
「ええ。行ってしまいましたね」
ファリアのことだ。ファリア・ゼノン・ベルファリア=アスラリア。アレクセイとファリアの孫娘であり、戦女神の後継者と目された人物だった彼女は、今日、この瞬間をもって戦女神になることはなくなった。彼女は、国に帰ったのだ。彼女が籍を置く国に、帰ってしまったのだ。
もはや、リョハンの命令ではどうすることもできなくなった。元より、護山会議は、彼女を命令違反によってリョハンと無関係の存在にしてしまっている。それは、彼女をアズマリアから遠ざけるための方便だったのだが、結果的に、彼女をリョハンからも遠ざけることになってしまった。リョハンから見捨てられた彼女はガンディアに属し、セツナという少年とともに生きることを選択した。
祖母であるファリアは、その選択こそを応援したのだ。自分の孫になにもかも背負わせるというのは、間違いだということに気づけたからだ。
「これで……良かったのか?」
「めずらしいことを聞くものですね」
ファリアは、アレクセイの手を握りながら、彼の横顔を見た。歳を重ねた老人の横顔は、しかし、どんな若者よりも魅力的に見えるのだから、不思議だ。
「これで良かったに決まっています。あの子はもうガンディアの人間ですよ。リョハンのことは、リョハンの人間でどうにかするべきなのですから」
「ああ、そうだな」
アレクセイが静かにうなずく。まるでファリアの考えがわかっているとでもいわんばかりに、彼女の手が握り返された。それがただひたすらに嬉しくて、彼女は表情を綻ばせるしかなかった。
「冷えますね」
「部屋に入ろう。ゆっくり休むといい」
「はい……」
今度は、ファリアがうなずく。アレクセイにうながされるまま、戦女神の霊域などという大層な名前をつけられた部屋に向かう。戦宮は扉がなく、どの部屋にいても寒いのだが、リョハンで独自に発展した暖房具のおかげで、雪の日でも余裕で耐えることができた。ただし、それは暖房具に包まっている状況のみであり、なにもしない状態で冬の寒さに耐えられるはずもない。
空中都は、リョフ山の頂にあるのだ。その気温の低さたるや山門街の比ではない。その点、洞窟内にある山間市は冬場は暖かく、夏場は涼しいということもあって、もっとも人口の多い居住区となっている。
「マリクが戻ってくるまでは、生きるつもりだろう?」
不意の一言に、ファリアは足を止めた。アレクセイがまさかマリクのことを言及してくるとは想わなかったのだ。
「ええ……もちろんですよ」
「彼には苦労をかけるな」
「あの子がわたしのためにここまでしてくれるだなんて、想ってもみませんでしたわ」
「君が愛されている証拠だ」
アレクセイの言葉には、どこか棘がある。ファリアは冗談めかして問いかけた。
「あら、嫉妬ですか?」
「嫉妬もするさ。君は、わたしの愛しいひとなのだからね」
またしても、足を止める。胸が高鳴るのは、いつ以来だろう。
「わたしも、あなたのことを愛していますよ」
ファリアは、アレクセイに向き直ると、彼の大きな体に身を委ねるようにした。
「まったく……孫がいなくなったらこれだ」
「うふふ……いいではありませんか」
ファリアは、アレクセイの胸に体を預けたまま、静かに目を閉じた。
夜明け前。
骨身にしみるような冷気の中、アレクセイの体温は穏やかにファリアを包み込み続けた。