第千百八十一話 ファリアとファリア(九)
ガンディアに帰る。
戻るのではなく、帰るのだ。
ガンディアは、ファリアの第二の故郷であり、いまやリョハンよりも大切な場所になりつつあった。もちろん、本当の意味での故郷もまた大切だったし、大事だったが、いまはガンディアに帰ることばかり考えていた。
そう決めたのは、祖父母の大きな後押しがあったからであり、ふたりによって戦女神の後継者という役割から解放されたからだ。ふたりがそういってくれなければ、ファリアはリョハンに残り続けたかもしれないし、戦女神を受け継いだかもしれない。実績や人格としては不十分でも、戦女神の血を引き、名を受け継いでいるという事実は、リョハンの人々を納得させるのに十分過ぎる説得力がある。時が立てば、戦女神に相応しい人間になることだってできるかもしれない。
しかし、ファリアは、戦女神になることをやめた。
『戦女神というたったひとりにすべてを背負わせるのではなく、護山会議がすべての責任を持つよう改革しなければ、リョハンはいずれ破綻する。簡単な道理だ。君ならばまだしも、君のような後継者ばかりが続いていくわけもないからな』
祖父アレクセイ=バルディッシュの発言が、ファリアのことをとてつもなく評価しているように聞こえて、少しばかり照れくさかったし、嬉しくもあった。祖父に褒められた記憶はほとんどない。だから、時折の褒め言葉がこれ以上ないくらいに嬉しくて、どうしようもないくらいに記憶に残るのだ。
『議員どもを説得するのは骨が折れるだろうが、なに、あとはわたしの仕事だ』
『わたしもいますよ』
『君は、ゆっくり休みなさい』
祖母をいたわる祖父のまなざしの優しさには、深い愛情以上のなにかを感じた。長年連れ添ってきたことを証明するかのようで、ファリアはふたりの関係性が羨ましくてたまらなかった。
『あら、お言葉に甘えてもいいのかしら』
『……もう、いいだろう』
『うふふ。そういうことらしいから、なんの心配もしなくてもいいわよ。あとはお祖父ちゃんに任せて、あなたは自分のやりたいようにやりなさい』
大ファリアに目配せされたアレクセイは、顔を背けて咳払いした。恥ずかしかったのかもしれない。
『後悔なんてしないように、ね』
脳裏に残る祖母の言葉が、ファリアの行動指針となっていた。
だからファリアは、リョハン滞在中、自分にできることをできるかぎりやってしまおうと考えたのだ。
ガンディアに帰ることこそ決めたものの、昨夜のうちにリョハンを旅立てるわけもなかった。リョハンからガンディアに帰るための移動手段の確保が必要だった。移動手段とは、レイヴンズフェザーとマリク=マジクであり、マジクが血液を回復させるまでの時間が必要だった。とはいっても、彼がレイヴンズフェザーの吸血能力を用いれば、数日以内には再び飛び立てるようになるということであり、ファリアに与えられた猶予はその数日間しかないのだが。
それでもできることはあるだろう。
たとえば、リョハンが誇る最強の武装召喚師たちに話を聞くことが、それだ。
「うえー」
ファリアは、奇妙なうめき声を上げる物体を見下ろしながら、どうするべきか考えていた。
「……えーと」
戦宮の一室に彼女はいる。戦宮は、極めて開放的な建物だ。敷地こそ壁で囲われているものの、敷地内の建物の中には扉や仕切りはなく、各部屋への出入りは自由自在といっても良かった。とはいえ、戦宮は戦女神の居所という以外になにがあるわけでもなく、金銀財宝が隠されているわけでも、高級な調度品などがあるわけでもない。戦宮に潜入して盗賊行為を働くものなどいない上、たとえそのようなものが現れたとしても、リョハンではどうすることもできない、ということもある。あらゆる事情が護山会議に筒抜けであるリョハン内では、盗品を処分することなど不可能に近く、リョハン外に持ち出したところで、近くの街まで移動するだけでも困難を極めるものだ。
リョハンでは賊徒は生きにくいということだ。
無論、リョハン内で犯罪がまったく発生しないというわけではないが、護峰侍団による厳重な警備は、この数十年、戦宮で犯罪行為を起こさせていなかった。戦宮には、一般人はおろか、護峰侍団の侍たちや武装召喚師ですら、許可がなければ立ち入ることはできないのだ。
そういうこともあって、戦宮を宿代わりに利用するということは、ある意味では安全を保証されているといってもよく、ファリアもぐっすり眠ることができた。問題は冬の寒さだけだが、防寒着を着こみ、毛布を幾重にも被るという常套手段で乗り切っている。
「うげー」
寝台の上で何重もの毛布にくるまり、うめき声を上げている人物も、そのようにして冬のリョハンの寒さを乗り切ったのだろう。
「だいじょうぶですか?」
「ぐえー……」
「あの、ニュウ様……?」
いつまで立っても毛布の中から出てこないニュウ=ディーのことが心配になったファリアは、意を決して枕元に回り込み、毛布の中を覗き込んで声をかけた。すると、ぐったりとしたままのニュウが顔を上げ、こちらに気づく。妙にげっそりとした様子には、ファリアも驚かざるを得なかったが。
「あ、あれ? ファリアちゃん? なんでここに……?」
眼の焦点があっていないようなぼんやりとしたまなざしだった。血の気もなく、元気もない。ともすれば、ファリア=バルディッシュ以上に重症なのではないかと思えるほどだったが、彼女がそのような状態にあるという話は聞いていなかった。リョハンへの道中、マリクから聞いた限りでは、シヴィルをはじめ、カート、ニュウら四大天侍は皆健康そのものだということだった。そういう話を聞かせてくれたのは、ファリアの不安を少しでも取り除こうという意図があったのかもしれない。
「マリク様に連れて来てもらったんです」
「あー……そういえば、そんな話をしていたような気がするかも……」
判然としないような反応に、ファリアは心配になった。
「本当にだいじょうぶなんですか?」
「だいじょうぶだいじょうぶ、ちょっと多めに血を吸われただけだから」
ニュウは、ファリアの心配を他所に毛布の中からぬけ出すと、その豊満な胸を見せつけるように伸びをしてみせてきた。もちろん、彼女にそんなつもりはないだろうし、そんなことで嫉妬や敗北感を覚えるファリアでもない。確かに胸はニュウのほうが大きいが、胸の大きさがすべてを決めるわけではないのだ。
「多めにって……それ、だいじょうぶなのか怪しいんですけど」
「さすがの“吸血鬼”も死ぬまで吸わないでしょ」
“吸血鬼”とは無論、マリク=マジクのことだ。つまり、ニュウはマリクに血を吸われることを了承し、昨晩のうちに吸われたということだろう。そのまま寝込んでいたのかもしれず、ちゃんと眠れたのかどうか、そのことが心配になった。彼女のように、レイヴンズフェザーの吸血能力によって血を吸われたからといって死ぬことはないにしても、だ。
ニュウは、寝台の上で座ったまま、首を回すような動作をした。それから、ため息混じりにいってくる。
「そうよ、そうなのよ、血を吸われすぎて頭が回らないのよねー」
「な、なるほど……」
「でもさあ、吸血って癖になるのよ。困ったことにさ」
「そういえば、そんな話、聞いたことありますね」
レイヴンズフェザーの前任者であるクオールが、“吸血鬼”の二つ名で忌み嫌われる一方、彼に血を吸わせた女性たちが魅了されてやまなかったという事実がある。クオールにいわせればそれこそレイヴンズフェザーの呪いであり、“吸血鬼”の“吸血鬼”たる所以だと自嘲したものだ。
レイヴンズフェザーは、吸血行為による痛みを官能的で甘美なものへと変化させることにより、対象への吸血行為への嫌悪感や拒否反応を打ち消し、むしろ依存性を植え付けるのだという。それによって、クオールはリョハン各所に超加速のための血を提供してくれる女性を確保したし、リョハン外の都市にもそういった女性を作っていた。超加速能力は血を消費する。消費した血を補わなければ、すぐまた飛ぶことはできず、それでは仕事に差し支えがあるからだ。
とはいえ、そう何度も吸血するわけにはいかない。自身の血を補うために相手の血を吸い尽くして殺してしまうなど、本末転倒になりかねないのだ。クオールにせよ、マリクにせよ、リョハンのためにレイヴンズフェザーを使っている。リョハンのためにリョハンの人間を死に至らしめるようなことはあってはならない。
「だからあんまりひとから吸いたがらないみたいだけど」
「マリク様が、ですか?」
「うん。あの子なりに色々考えてるみたいね」
ニュウがそうつぶやいたときの表情は、いつも以上に優しげだった。
(そういえば……そうか)
ファリアには思い当たる節があった。マリクが血の使いすぎで消耗しているのを見かねたファリアが申し出ても、彼に断られたことがある。マリク曰くセツナを怒らせかねないからということだったが、そんなことでセツナが彼を怒ったり嫌ったりするとは思えなかった。彼なりの気遣いだろう。
「ま、だからわたしが一肌脱いで血を吸われてるわけなんだけどさ……」
そういって彼女が右手で指し示した首筋には、くっきりと“吸血鬼”の牙が刺さったような痕が残っていた。龍府を旅立つ前、セツナの首筋にも同じ痕が残されていたのを見ている。まず間違いなくマリクが吸血した痕跡だった。
「そうだったんですか」
「そういうことよ。それで、ファリアちゃん。わたしになにか用なのかしら? ううん、その前に、大ファリア様には逢えたの? ちゃんとお話出来た?」
「はい。しっかりと話せました」
それこそ、ファリア=バルディッシュが倒れ、いまにも命が尽きるという話が嘘なのではと思うほどに、長々と話していた。夜中に始まった祖母との会話が終了したのは、夜明け前だったのだから、どれだけ長時間話し合っていたのかがわかるというものだ。最後には祖父を交えた世間話になっていたのだが、そのことをファリアがニュウに伝えると、彼女は目を丸くして驚いたものだった。
そして、ファリアは自分の結論も伝えた。ガンディアに帰るという結論だ。
「ニュウ様……勝手なことをいって、申し訳ありませんが」
「ううん。なにが勝手なものですか。あなたの人生よ」
「お祖父様も、お祖母様もそのように仰ってくださいました」
「大ファリア様に護山会議評議員のお墨付きをもらえたなら、だいじょうぶよ。だれもなにもいわないわよ」
ニュウの得意満面な笑顔が、とてつもなく心強い。
「お祖母様のこと、リョハンのことは、お祖父様と、ニュウ様方にお任せすることにいたしました」
「任せて頂戴。大ファリア様へのご恩返しのときだもの。リョハンのことも、大ファリア様のことも、わたしたちが最後まで護り通してみせるわ」
そういったとき、彼女は寝台から降り立っていた。彼女はかなりの薄着なのだが、冬の朝の寒さをものともしないように振舞っている。さっきまで布団に包まっていたのが嘘のようだ。肉感的な肢体が衣服の上からでもはっきりとわかるほどの薄着。そんな格好で寝ていて寒くなかったのかと思わないではないが、そんなことよりも重要なことがある。
ファリアは、ニュウに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いっておくけれど、感謝されるいわれはないわよ。これは四大天侍としての義務と責任に過ぎないのよ。四大天侍として選定されたとき、戦女神ファリア=バルディッシュに忠誠を誓ったときに決めた覚悟なのよ」
ニュウの言葉は強く、ファリアは、はっとして顔を上げた。視線の先には、四大天侍のひとりとしてのニュウ=ディーが立っていて、威に打たれるような感覚があった。鋭い眼光、きりっと引き締まった表情、立ち姿――どれをとってもリョハン最高峰の武装召喚師に相応しいものであり、ファリアは息を止めた。そこには、四大天侍としての誇りや自負、矜持といったものがあって、だからこそ、ファリアには真似のできないものなのだと思い知る。四大天侍には四大天侍にしか理解できないものがあるのだ。
「あ、でも勘違いしないでね。あなたのことを責めているわけでもなんでもないからね」
「わかっております」
うなずくと、ニュウがにこりとした。
「それなら、いいけど」
それから、軽くふらついたので、ファリアは慌てた彼女の体を支えた。血を吸われ、貧血だというにも関わらず急に立ち上がったからだろう。ファリアは、ニュウの鍛え上げた肉体からは想像もつかないような柔らかさに内心どぎまぎしながら、彼女を寝台に座らせた。
「あ、ありがと。助かったわ」
「いえ」
それから、ニュウが気を取り直したように尋ねてくる。
「それで、わたしに会いに来たのは、挨拶にしきてくれただけかしら?」
「もちろんそれもありますが」
肯定しつつも、ファリアは彼女の目をじっと見つめた。
「ニュウ様にご教授願いたいのです」
「わたしに?」
ニュウは、ファリアの申し出に再び目を丸くしたのだった。