第百十七話 焦燥
「反応は悪くなかった。君を連れて行ったおかげかな」
レオンガンドにそういわれたときは、セツナも悪い気はしなかった。
交渉が終わり、宮殿へ戻る帰路のことだった。レオンガンドはセツナを側に呼び、内緒話のようにそっと耳打ちしてくれたのだ。街の中だ。たったそれだけのことでも他人に聞かれるのを恐れたのだろうが、その行動がいかにもセツナが特別であるかのように感じられて、心の中で小躍りしかけたのは事実だ。
しかし、レオンガンドの晴れやかな笑顔に、セツナはまたしても不安を覚えた。交渉中、ずっと抱いていたものよりもずっと大きくなっている。いや、その前から感じていたことだ。足元が崩れ去るような不安。
レオンガンドが《白き盾》と契約を結びたいというのはわかる。傭兵集団《白き盾》の評判は、セツナの耳にも入っているし、《蒼き風》の団長たちからも聞いたことがある。師匠との訓練の最中にだって、何度か耳にした。
無敵の軍団と人は呼ぶ。負けない戦い方をする無敵の傭兵集団。様々な国で短期契約を結んでは戦果を上げ、組織としての評価も上げる。また、無償で皇魔の巣を根絶するところから慈善団体のようにいわれたりもするが、その行為自体を非難するものはいない。皇魔は人類の天敵なのだ。人間社会にとって害をなすだけの存在で、根絶は積年の願いでもある。自分たちの意志で討伐してくれるのなら、近辺の住民にとってこれ程嬉しいことはないだろう。その積み重ねは、自然、《白き盾》の評判を高めていったのだろうが、彼のことだ。計算しての行動ではないだろう。
守屋久遠とはそういう人間だった。並外れたおせっかい焼きで、親切の押し売りこそ人類愛なのだと勘違いしている。他人の事ばかり考えていて、自分のことなんてこれっぽっちも考えていない。自分がどうなろうと知ったことではなく、他人の幸せこそが自分の幸せなのだと思い込んでいる、そんな少年だった。
セツナは彼に救われ、彼に打ちのめされた。苦手意識が生まれ、それはいつしか敵意へと変わった。それでも彼の元を離れられなかった自分の弱さこそ唾棄すべきなのだと理解していながら、敵意は彼に向いた。
不安が、心を焦がす。
《白き盾》が一時でもガンディアと契約を結べば、レオンガンドは彼を気に入るだろう。彼はそういうところがある。だれにでも気に入れられ、可愛がられるという特性がある。それは彼の生来の明るさ、太陽のような眩しさが他人をしてそうさせるのかもしれないが、セツナとしては気に入らないことこの上なかった。いつだって彼は特別で、セツナは地を這う虫のように惨めだった。
レオンガンドがクオンを気に入れば自分はどうなるのか。
考えるだけで寒気がした。
マイラム宮殿内の《獅子の尾》隊にと用意された部屋は、レオンガンド王の使っている部屋に極めて近い。それは《獅子の尾》隊が王立親衛隊だからであり、今回のマイラム行きに護衛として随行したからでもあるのだろう。なにか起きたとき、王の元に一秒でも早く駆けつけるのがセツナたちの役目だ。
そんなわかりきったことを考えながらも、セツナは苛立ちを隠せなかった。ベッドのひとつに大の字になって寝転び、天井を睨んでいる。
室内にベッドは三つある。当初、《獅子の尾》唯一の女性隊員であるファリアには別の部屋が用意される手筈になったのだが、彼女のほうがこれを断った。ひとつには、マイラム到着時点で疲れきっていたことがあり、すぐにでも寝たかっただろうこと。もうひとつは、セツナもルウファも無害だと思われているからだろう。それは構わない。彼女に対して害意はないし、急遽カーテンで仕切られた向こう側に入り込む勇気はない。そしてそれは勇気ではなく、無謀というのだ。
ファリアはいま、部屋の片隅で椅子に座って読書をしているはずだ。ルウファはお茶でも飲んでいるのか、カップと皿が重なる音が時折聞こえた。濃厚なお茶の薫りがセツナの鼻にまで届いてきたが、悪い気のするものでもなかった。
宮殿は、ガンディオンの獅子王宮よりも一回りは小さいだろう。前に来たときは、抜け道から寂光殿に潜入しただけで全体像はわからなかったが、今回は正面から入っている。潜入ではなく、堂々とだ。しかも、王立親衛隊という晴れがましい肩書は、潜入時にはなかったものだ。
王宮召喚師にして《獅子の尾》隊長。
セツナがこれまでの戦いの結果、得た立場だ。しかし、それが揺るぎないものとは到底思えない。流動的で、ともすれば明日にでも崩れ去ってしまいそうな不安定さを覚える。原因もわかっている。彼の存在が、ここに来て急浮上してきたからだ。
クオン=カミヤ。半年ほど前、セツナの周囲から消息を絶ったと思っていたら、この世界で傭兵団《白き盾》の団長をやっていたという少年。ようやく、逢った。直接、彼の存在を目の当たりにした。言葉を交わすような暇はなかったものの、セツナは、その必要もないと思っていた。早くその場を離れたいという願いは、レオンガンドに届いたのかどうか。
レオンガンドは、彼を欲している。無敵の盾も、不敗の軍勢も、両方だ。それらがガンディアに加われば、まさに鬼に金棒といったところか。ログナーの地を得て波に乗るガンディアが、さらなる勢いをもって戦乱の世に羽撃くだろう。
(でも……)
腕を伸ばす。広げた手の向こう側、天井の石材が霞んで見えた。涙でも出たのか。唖然とする。泣くようなことではない。が、拭いたくもなかった。泣いていることを認めることになる。
(でもそれは、俺の居場所がなくなるということ……?)
胸中でつぶやいて、即座に否定する。そうとは限らない。クオンの盾は、攻撃的な武装ではないという話だ。比較するようなものではない、とルクスにもいわれた。釘を差されたのかもしれない。
剣術、体術の師としてのルクスは、鬼のように恐ろしく、セツナは訓練のたびに彼に支持してよかったと思うのだが、それとこれとは別の話だ。ルクスの忠告も理性ではわかるのだが、感情がそれを許さない。至極個人的なわだかまりが、クオンに対するすべての事象を歪めてしまう。
「セツナ、どうしたの?」
いつの間にかベッドの脇に来ていたファリアが、こちらの顔を覗きこんでいた。赤い縁の眼鏡をかけた彼女を見るのは久しぶりだった。普段、外していることが多いのだ。普通の生活を送る分には、眼鏡の補助は必要ないらしい。
「なんでもない」
セツナは、腕をベッドの上に投げ出した。ファリアは、納得出来ないらしい。
「なんでもないような顔には見えないわ」
図星だったが、言い返す言葉も見当たらず、セツナは視線を逸らした。
「別にいいけどね。君がなにを考えていても」
冷たい言葉が耳朶に刺さる。いや、鼓膜だけにではない。心の奥にまで刺さるようだった。いつもなら受け流すような言葉も、いまは鋭く響く。クオンのことがあってから、なにもかもがうまく噛み合っていない。自分の中で、うまく処理できていないのだ。そして、それがわかっているから余計に苛立つのかもしれない。自分自身への苛立ちだ。他人ではない。のだが。
「だろうな」
セツナはベッドから起き上がった。ファリアは既にベッドを離れていて、さっきまで座っていた椅子に戻ろうとしている。その毅然とした背中が、やけに険しく見えた。
ファリアがこちらを振り返り、首を傾げた。
「ん?」
「俺のことなんてどうだっていいんだ」
いってから、自分が駄々をこねる子供がいうようなことを口走っていることに気づいたが、もう止まらなかった。激発してしまった感情は、意味もなくのたうち回って醜態を晒すだけなのだ。
「……あのね、そういうことじゃないでしょ」
「じゃあ、どういうことなんだよ!」
「君がなにも話してくれないから、ああいうしかなかっただけじゃない。それともなに、君に聞いてもなにひとつ教えてくれないのに、その複雑な心中を察しろっていうの? わたしは超人でもなんでもないの。自分の考えてること全部わかってくれなんて、いくらなんでも身勝手が過ぎるわよ」
「……俺の気持ちも知らないくせに」
それはいってはいけないことだとことくらいわかっていた。しかし、無意識に口をついて出る言葉というのは、いつだって相手の心を踏み躙り、自分の中に悪意を残す。いまだってそうだ。自分自身を傷つけながら、相手の感情を逆撫でにしている。しかし、ファリアの表情が怒りに染まることはなかった。むしろより冷たく、氷のようになっていくのが見て取れる。
「知らないわよ。聞いたら教えてくれるの? いまの気持ち。どうしてそんな状態なのか、はっきり答えてくれるの? できないんでしょ? 自分の気持を伝えるの、下手だものね。そうやってわがままいって、みんなに迷惑かけて。子供でいていい時間は過ぎ去ったのよ。君はガンディアの王宮召喚師で、《獅子の尾》の隊長なの。責任を自覚しなさい」
こうまで正論をまくし立てられると、どうすることもできなくなった。返す言葉もなければ、感情のやり場もない。かといって、この場に留まっていられるだけの意気地もない。冷徹な彼女の視線にも、耐えられない。
「俺は……!」
セツナは、部屋を飛び出した。
「追いかけないんですか?」
「それは過保護というものよ」
ルウファに尋ねられて、ファリアは、小さく肩を竦めた。頭の中は極めて透明だった。最初こそセツナの言い様に腹立ちを覚えたものの、感情をぶつけられる側というのは、案外冷静になれるものだ。そして、冷静になれば、そうやって感情を爆発させる少年を嫌いになるようなことはない。
彼だって精一杯なのだ。
セツナがあそこまで感情を暴発させることなど考えたこともなかったが、激情をぶつけられているうちに思い出していた。彼はまだ十七歳の少年で、いくつかの戦場を経験したとはいえ、自分自身の心を制御できるようにはなっていないのだ。どれだけの決意と覚悟をしていたのだとしても、ちょっとしたことで解れ、崩れ去ってしまう。ましてや彼は自分が非力なのだと思い込んでいる。
とてつもなく強大な力を持っていても、それは借り物の力で、自分にはなにもないと思い込んでいる節がある。黒き矛を召喚したのは紛れも無く彼で、使っているのもまた、セツナ自身だというのに。
(もっと自信を持てばいいのに)
そう思うのだが、伝えてやるようなことではないとも彼女は考えていた。それは、彼が自覚するべきものだ。でなければ納得しないだろう。特に彼のような少年は。
「でも、心配なんでしょう?」
「そりゃあ心配よ。でも、だからといって甘やかすほど、わたしは優しくはないの」
ファリアは、即答しながらも甘いのかもしれない、などと思った。その甘さが彼の生死に関わらないようなものなら構わないだろう。たとえば、戦場での駆け引きに直結するような甘やかし方はいけないのだ。彼には死んでほしくない。まだまだ知らないことが多いのだ。それはすべて彼がなにも話してくれないからにほかならないが、話し合う時間がないのも事実だった。この場にルウファがいなければ、多少は時間も取れたのかもしれないが。
「ファリアさんって、隊長と恋仲なのかと思ってたけど」
ルウファがどこか安堵したようにいってきたので、彼女は半眼になった。冷水を浴びせられた気分とはこのことだろう。
「……あなたって、そういうことばかり考えてるの?」
「そ、そういうわけでは……」
ファリアがルウファを撃破した直後だった。部屋のドアが勢いよく開け放たれ、
「はあーい、隊長さんはいるかしらー……っていないの?」
女が、飛び込んできた。それも四人だ。声を上げたのは先頭の美女で、黒髪に褐色の肌という南方人の特徴を美貌へと転化している。ナージュ・ジール=レマニフラ。レマニフラの王女であり、ガンディアとの同盟を結ぶために派遣されてきた特使――であるはずなのだが、なぜか今回のマイラム行きに同行してきていた。褐色の肌を際だたせるためか、白色系のドレスを身につけていることが多い。ガンディオンからマイラムまでの道中も旅装ではなかった。白と黒のコントラストは、ファリアから見ても刺激的だ。
しかし、ファリアの頭は冷えている。驚いたのは一瞬だけだ。次の瞬間にはナージュと、彼女の連れている三人の侍女の様子を把握していた。告げる。
「隊長はいま席を外しています」
「そうなの? 残念ね」
心底がっかりした彼女の表情に、自分にはないなにかを認める。それは媚態ではなく、自然とにじみ出る愛嬌のようなものだろうか。ナージュの振る舞いに作為的なものはうかがえない。無論、ファリア程度では見破れないほど高度な技術なのかもしれないが。
「うちの隊長になにか御用でしょうか?」
用事があるのなら、いますぐにでも探しに行かなくてはならない。ナージュは、レオンガンドにとって大事な客人だし、丁重に扱えと厳命されてもいる。粗相があってはならない。
ナージュは、微笑んできた。
「ちょっとお話がしたくて、呼びに来たのよ」
「呼びに?」
ファリアが引っかかったのは、そこだ。話をするだけならここでもできる。ファリアたちが邪魔なら席を外してもいい。もちろん、変な噂が建てられないようにするための配慮として、広い場所で会話するつもりだったのかもしれないが。
「わたしの部屋で、ゆっくりお話したくて」
ナージュの発言に、ファリアは表情が変わりそうになるのを必死で抑えた。王女のために用意された部屋でセツナと会話などして
「そうだったんですか」
「あら、心配しなくても大丈夫よ。子供を取って食うような趣味はないから」
たしかにセツナは子供だが、相手にならない歳でもないだろう、といいかけて、ファリアははっとした。ナージュは笑っている、危うく彼女の口車に乗せられるところだった。憮然とする。
「別に心配なんてしていませんが」
「そうなの? とてもそうは見えなかったけど……まあいいわ。仕方がないから陛下のところにでも遊びに行ってくるわね」
じゃあねー、と投げキッスを寄越してきた異国の王女が部屋から去った後、ファリアは呆然と扉が閉まっていくのを見届けるしかなかった。暴風が駆け抜けていったような感覚がある。荒らされたのは部屋ではなく、ファリアの心だ。とはいえ、実害があるわけでもない。ただただ圧倒された。
「いまの方がレマニフラの王女様ですよね」
見やると、ルウファもティーカップを持ったまま唖然としていた。
「道中からずっと思っていたけど、随分と……こう……」
「掴み所がないというか……」
「お姫様らしくないというか……」
「自由な方ですね……」
「そうね……」
同時にため息を吐いたふたりが、とてつもない徒労感に襲われたのはいうまでもない。